おズボン
あべせい
おズボン
「このズボン、少し小さいと思うンだけど」
「いいえ、このおズボンでちょうどよろしいかと……」
大型スーパーの衣料品売場の試着室だ。中年女性の売場係員が、若い男性相手にズボンの裾上げを手伝っている。
「そうじゃなくて、ズボンの腰周りがキツいンだよ。もう少し、大きいサイズはないかなァ」
「このデザインのおズボンは人気がございまして、いま残っているサイズはこれだけです。次のおズボンの入荷は3ヵ月先です。それまでお待ちになりますか?」
男性はすぐに暗い顔になった。
「明日がデートなンだ。サヨちゃんがこのズボン、ステキだと言っていたから……」
「それでは致し方ございません。おズボン、ちょっと失礼……」
と言いながら、ズボンの前の合わせ目をグッと引っ張り込んだ。
「あらッ。ちょうどいいわ。どうです、カッコよくなったでしょう!」
「ホントに!? ぴったりしていますか?」
「不思議なほど。このおズボン、まるでオーダーしたみたいです、お客さま。では、裾の長さを決めさせていただきます」
と言い、女性店員はてきぱきと裾の長さを決めていく。
女性店員は、三乃果乃子(みのかのこ)39才。このスーパーの衣料品コーナーを任されている派遣会社の売り子だ。器量とスタイルがよく、男性客のウケがいいから、成績は常に上位にいる。
ただし、私生活は思う通りにいっていない。結婚に一度失敗して、2度目は絶対にないと自分に言い聞かせている。
この日、5人目のお客のとき、ちょっとしたハプニングが起きた。
お客は40代後半の男性。
「明るい色の、タックのないズボンが欲しいンだが……」
「それでしたら、こちらにどうぞ……」
果乃子は、彼を、とあるコーナーに案内した。
その売場のあちこちに、「オール30%オフ」と表示されたフリップが掲げられている。
「ここにあるのは、みんな値引き品なの?」
男性は渋い表情を見せる。すると、果乃子は、男性に近寄り、その耳元にささやいた。
「お客さま、こちらのコーナーのおズボンは値引き品で、ほとんどが昨年の売れ残りですが、実は、このなかに、目に見えない汚れがあって、仕方なく値引きしている、今年売り出した高品質のおズボンが、混じっています」
「ヘェー、そうなの。それだったら、欲しい。ぼくに合うのが、あるかなァ……」
「ございます。お客さまは、すてきですから、どんな品でもお似合いになります……」
と言いながら、バーゲン品のズボンに付いているバーコードを次々と見ていく。
「これなンか、好きな色なンだけど……」
男性は、吊り下がっている、一本のズボンを取り上げた。果乃子は素早く、男性のそばに寄って、
「どれですか。これ? お待ちください……」
そのズボンのバーコードを見る。
「お客さま、これ、アタリッです。ことしのおズボンです。このバーコードの数字、詳しくはお教えできませんが、ことしの製品に間違いありません」
「じゃ、これ、もらおうかな」
「ありがとうございます。ほかにも、いろいろお買い得の品がございますが、いかがなさいますか? このおズボンでしたら、今朝入荷いたしました、あちらのおベルトがお勧めです。どうぞ……」
果乃子は先に立って案内しようとしたが、男性はその場から動こうとしない。果乃子は振り返って、男性の元に戻ると、
「いかが、なさいました?」
不審そうにしている男性の顔を、下から見上げるようにして窺った。
この手の男性客は珍しくない。あまり強く勧められると、日常の素に戻ってしまう。買い物は祭りなどと同じ非日常的行為だが、度が過ぎると、家にいるときと同じ平凡な日常に返ってしまう男性がときどきいる。果乃子は、この男性もそうした、祭りに消極的な男性の一人だと思った。
ところが、
「あなた、果乃子さんですね」
いきなり、名前を呼ばれた果乃子は、ちょっと怯るんだ。胸に名札を付けているので、名前を呼ばれても不思議はないが、いままでお客から名前を呼ばれたことは一度しかない。そのときは姓の「三乃」だった。しかし、今回は下の名前の「果乃子」。
果乃子は、男性の顔を、もう一度よォく見た。
前に来た客か。それとも、どこかで会ったことがあるのだろうか。
「果乃子さん、ぼくです。もォ、お忘れでしょう」
果乃子にとって、マスクの優しい男性は、比較的長く記憶に残るほうだ。
「ぼくは旭丘中学で、美術の教師をしていた……」
「アッ……」
果乃子は、その瞬間、セーラー服姿で、憧れていた男性教師に、背後から抱きついた25年前のうぶな少女の心に戻った。
「篠宮センセイッ」
「そォ。篠宮芳未(しのみやよしみ)です。いまは、もう教師はしていませんが……」
果乃子が、篠宮芳未を忘れていたのには訳がある。
「先生、わたし、あと2時間で退勤できます。外でお会いしたいッ。よろしいですか?」
果乃子は、篠宮の都合も考えず、一方的に言った。しかし、篠宮は、中学時代と同じく、優しい笑みを浮かべて頷いた。
「この街に越してきてまだ半年だけれど、前から気になっていたンだ。名札の名前は『果乃子』だけれど。姓が『三乃』だった。でも、他人の空似ということもあるから……」
「先生、わたし、結婚に失敗して。でも、姓は前の夫のままにしています。離婚したことを、周りに知られたくなかったから……」
同じスーパーの中にあるフードコートで、2人はコーヒーを飲みながら話している。果乃子は通勤に着用しているアイボリーのパンツに、胸にミッキーマウスの顔がデザインされたブラウスだ。
果乃子は、離婚して以来、なぜかディズニーにはまっている。ほかにこれといった楽しみがないせいなのだろう、と自分では思っている。
「篠宮先生は昔と少しもお変わりになりませんね。わたしは、5キロも太って、恥ずかしい限りです」
「そうかなァ。そうは見えない。むしろ、ぽっちゃりして、さらに魅力的になった……」
篠宮はそう言ってから、昔の教え子を口説いているのか、と自分に問い掛けた。
いや、そんなわけがない。自分には結婚間近な女性がいる。ともにバツイチだが、こどもがいないことから、うまくやっていけるという期待感がある。
相手の女性の年齢は、5才年下。果乃子とは正反対の、スリムな美人だ。
「でも、どうして、中学時代のわたしだとおわかりなったのですか? わたし、同窓会にも出たことがないし、中学時代のともだちと会ったこともないのに……」
「それは、こういう場で言っていいのかどうか……」
「言ってください。先生、わたし、先生のお話なら、昔から、なんでも受け入れる覚悟は出来ています」
果乃子は、中学時代に戻った錯覚に陥っている。
「こうだよ。キミは中学時代から、なんでも『お』をつける悪い癖があった。お時間、おカバン、おクツ、お洋服、お給食、お教科書、おプールなどだ。そして、この店では、『おズボン』を連発した。最後に、『おベルト』ときたから、これは、もう間違いないと確信したよ」
果乃子の顔が、真っ赤になった。
「先生、覚えておいでだったのですか。わたし、中学の時、言いませんでした? わたしが、たいていのものに、『お』を付ける訳……」
「聞いていない。聞いたのに、忘れたのかな?……」
篠宮は、遠い空を見つめるように、うつろな眼になった。
「じゃ、もう一度だけ、言います。先生はわたしの旧姓をご存知ですか?」
「果乃子というのは珍しかったから、よく覚えていたけれど、苗字は……待ってッ、そうだ、『小山内』だ」
「やっばり、先生もそのように記憶なさっておられる。わたしの旧姓、すなわち実家の姓は『左内』です。小山内ではありません」
「そうだ、ごめん。サナイ、サナイ、だった。クラスの生徒が、オサナイ、オサナイというものだから、小山内だと思ってしまった」
「それです、先生。わたし、みんなが、わたしの苗字の左内から、『幼い』とか、『押さない』って意味で、わざと『オ』を付けて、『小山内』と読んでいたので、クラスのなかでは『小山内』でいいかと思っていました。みんな、悪気は無くて、しゃれっ気で言っていたので、まァいいかッ、って受け流していたンです。ところが、いつだったか、そのことを知った父が激怒して、『我が左内家は、室町時代から伝わる名家だ。小山内なンて、どこの馬の骨ともわからない家と同じにするな』って、こっぴどく叱られました。その父が、元々血圧が高くて、それがきっかけだったとは思いませんが、しばらくして脳卒中で急死しました。だから、わたし、それ以来、『お』にこだわるようになったのです」
「その話は初めて聞いたよ。果乃子が高校に進学してからのことだろうが、知らなかった。ただ、本名は『左内』なのに、クラスのみんなが『小山内』と呼んでいたのはよく覚えている。果乃子もいやがっているようすはなかったから、担任の教師として、別に問題はないと思っていた」
篠宮が果乃子のクラスを担任したのは、中学3年の1年間だけだ。美術の教師がクラスを担任するのは、中学では異例だが、篠宮にとっては楽しい体験だった。
「果乃子は、絵はもう描いていないの? キミには絵の才能があると思っていた」
「日曜日には、自宅にこもって描いています。主に抽象ですが……。先生は?」
「もう、先生はいいよ。篠宮にしてくれないかな」
このとき、篠宮の心の中で、小さな変化が生じていた。
「では、篠宮さんと言います。篠宮さんは、個展を開いておられるンでしょう。それでしたら、是非拝見したいです」
「個展というほどのものじゃない。喫茶店の壁を借りて、常時展示しているだけさ。額に売価を貼り付けているから、まっとうな画家とは言えない。中学の教壇では立派な話をしていたのに、恥ずかしい……」
その喫茶店の店主が、篠宮の婚約者だということを、果乃子はまだ知らない。
篠宮は、髪結いの亭主に納まろうとしている。喫茶店の女主人は、美形とまではいえないが、たくさんのお金を持っている。性格はわがままで、自分の思う通りにいかないと、人前であろうとだれがいようと、平気でヒステリーを起こす。喫茶店のお客とケンカすることも珍しくない。
篠宮がそんな女性に、どうして惚れたのか。篠宮は49才、その女性の麻由は、44才。
昨年、絵描き仲間と共同で、有名画廊を借りて個展を開いた時、女ともだちに連れられてやってきた麻由が、篠宮の絵を見て、肖像画を描いて欲しいと依頼した。
篠宮には断る理由がなかった。翌日から、篠宮は麻由の高級マンションに通い、モナリザ風の構図で麻由の上半身を描いた。麻由は、前の夫と別れて5年がたっていた。
麻由の日課は、昼過ぎに喫茶店に出かけて、5人いる従業員のようすを確かめる。そして1時間余りで店を出ると、デパートで買い物などをして過ごす。閉店前の夜10時に、もう一度店に顔を出してその日の売上げを計算、現金を夜間金庫に入れる。
このため、篠宮が麻由の肖像を描くのは、午後4時から8時までの間になった。しかし、気分屋の麻由は、体調がすぐれないと言っては絵を描く代わりに話し相手になって欲しいと言い、篠宮に絵筆を握らせないことがしばしばあった。この結果、20号の肖像画が完成するのに、2ヵ月を要した。
しかし、麻由は出来あがった肖像画に満足した。似ているとはとても思えなかったが、我が強く、プライドの高い麻由の特徴が、色濃くとらえられていた。
篠宮自身も、久々に満足のいく作品になったと自負した。そして、その高揚感のまま、2人はその夜、肖像画が飾られた部屋のソファで結ばれた。
麻由は、離婚してから、店の維持には何かにつけ男手が必要なことを痛感していた。だから、一緒に暮らさないかと篠宮に迫った。
当時篠宮は、古い狭いマンションで、絵画教室の講師をして生計を立てていた。麻由の申し出は、これ以上はないといっていい、ありがたい話だった。しかし、即答は避けた。
安く、見られたくない。一流の美大を出て、有名画家ではないが、描いた絵はぽつりぽつりと売れている。二科展にも過去5作品が入選している。近いうちに、おれの絵はブレークする。篠宮はそんな夢を持ち続けている。
髪結い亭主になンか、という思いが強い。しかし、その一方で、この女と結婚すれば、好きな絵だけを描いていられる。生活に追われる心配がない。
夏目漱石の小説に、高尚な考えを持ちながら遊んで暮らす優雅な人々を意味する「高等遊民」という言葉があるが、篠宮はまさに現代版高等遊民になれるのだ。
悪くない。悪い話ではない。絵描きにとっては、理想の生活環境ではないか。篠宮はそう思い直して、1週間後、メールで承諾の旨を伝えた。
この日、大型スーパーに来たのも、麻由とデートする服を買うためだった。しかし、中学時代の果乃子と出会い、人間として本来あるべき姿を思い知らされた。教師の真摯な心構えを取り戻したいという気持ちになった。
これでいいのか。人間として、安易に走っていいのか。前の女房は、愛し合って一緒になったが、3年たつと、夫の稼ぎに嫌気をさして去っていった。それは仕方ない。愛はやがて冷める。こどもが出来なかったのが、せめてもの救いだった。
「篠宮さん、わたしがどうして、アナタ……」
果乃子は、目の前の篠宮に向かって、「あなた」と言ってから、急に羞恥心に襲われ、内心ドキリッとした。しかし、ここで黙るとおかしなことになってしまう。
「どうして、あなたのことをすぐに思い出せなかったのか。いま、わかりました」
「エッ、どういうこと?」
「わたし、中学3年のとき、あなたに憧れていて、後ろから抱きついたことがあったンです。覚えておいでですか?」
「……いや、ごめん」
しかし、篠宮の頭のなかでは、そのときの記憶がすでに鮮明に蘇っていた。25年前の秋のある日の放課後、美術部室のなかでの出来事だった。
それは、美術クラブの顧問をしていた篠宮が、美術部員だった果乃子に油絵の具の買い物を頼ンだ日の出来事だった。
ところが、依頼した油絵の具が店になかったことから、果乃子は手ぶらで部室に帰って来た。そのとき、篠宮は独りで、部室の窓の前に立ち、青空に浮かぶ白い雲を眺めていた。
彼の頭の中は、その夜、約束していた、後に彼と結婚した、女性教師とのデートのことでいっぱいになっていたのだが、果乃子はそんなこととは知らず、篠宮の背中に、亡くなった父の面影を重ね合わせ、思わず抱きついてしまった。そのとき、篠宮は、背中に、果乃子の胸のふくらみを感じ、振り向くと慌てて果乃子の体を引き離した。
ところが、篠宮と女性教師との関係が、まもなく校内に知れ渡ることになり、女性教師は退職して、篠宮と結婚した。果乃子の淡い恋は、清い思い出とともに終わった。ただ、果乃子は、篠宮に対する憧れを捨て去ることができず、大学時代同じクラスだった男性と、卒業して3年後に結婚した。
果乃子が、その男性と結婚した最も大きな理由は、マスクが篠宮に似ていることだった。そして、同時にそのことが果乃子の結婚生活の、最大の誤算だった。
なぜなら果乃子の前夫は、とんでもない暴力夫だったのだから。酒に酔うと時と所を構わず、果乃子に暴力をふるう、いわゆるDV。しかし、果乃子は3年間、夫の暴力にジッと耐えた。
そしてある日、ついに、ナイフで夫を刺した。殺意はあったが、裁判では否定した。幸い夫は、軽傷で済んだ。果乃子は執行猶予がついたものの、犯罪歴が付いた。以来、果乃子は、篠宮に似ている男を極度に嫌ってきた。
そして、「篠」という名がつく人物に近付かないようになった。「篠原」「篠田」「篠木」などだ。そうすることで、彼女の意識から、篠宮の存在は徐々に消えていった。
この日、果乃子が篠宮と25年ぶりに再会したのに、すぐに思い出せなかった背景には、そういう事情があった。果乃子と篠宮は互いに、結婚歴があることを告白した。
しかし、篠宮は、婚約していることを言い出せない。口から出かかったが、どうしても言えない。なぜなのか、自分でもわからない。
「篠宮さん、お独りでご不自由はないですか?」
「不自由はないけれど、ときどきさびしくなるよ」
「そんなときは、どうされるンですか?」
「たいてい絵を描いている。それ以外は、テレビを観て、気を紛らせている」
「わたしは……」
果乃子は聞かれもしないのに、言ってもいいものかどうか、考えた。
果乃子は、絵を描くとき以外は、酒に溺れていた。酒乱だった前夫を真似たのだ。
仕事帰りに居酒屋に立ち寄り、夕食を兼ねて焼酎を飲む。量はそれほどでもないが、職場でいやなことがあった夜は、酒量がふえる。こんなことでは結婚など、とても考えられない。二日酔いした朝などは、金輪際ケッコンはゴメンだ思う。
「果乃子さん、一緒に絵を描いてみませんか?」
「エッ。どういうこと?」
「同じテーマで、絵を描く。例えば、一本の大木を見て、互いにどんな絵を描くか。比べてみる。それによって、互いの心のなかがわかると思うのです」
果乃子は、篠宮が話していることを中学時代に聞いた記憶があった。
「絵は対象を描いているようで、本当は自分自身を描いているンだ。対象が風景であっても、人物であっても、絵を描くひとの人格が映し出される。それが絵画のいいところだ。だから、同じ花を描くのでも、絵を描く者によって、全部違ったものになる。色も形も構図も、違っていい。違って当たり前だ。ぼくが心理学者だったら、きみたちが描いた絵を見て、いろいろ心の話ができるのだが。それは将来の楽しみにとっておこう……」
篠宮は絵画の授業のとき、そのような話をよくした。篠宮は、果乃子の描く絵を見て、わたしの心を覗こうとしている。果乃子はそう思った。
「いいですよ。わたしも、篠宮さんと一緒に、中学時代に戻って、絵を描いてみます」
「そうかッ。何がいい? 風景か、人物か。それとも、抽象にするか?」
「篠宮さん、お互いの肖像というのはどうです。わたしが篠宮さんを描く。篠宮さんはわたしを描く。互いに向き合って……」
篠宮も同じことを考えていた。互いの気持ちを理解する、これ以上の手段はないと思えるからだ。
「よしッ、それにしよう」
半年後のある夜。
篠宮芳未は、果乃子のこぎれいなマンションを訪れていた。2人は、果乃子の手料理を食べ、入浴をすませ、ベッドをともにしながら話している。
「予想通り、麻由のヒステリーが始まったよ」
「芳未さん、もうすぐですね。わたしたち、一緒になれる……」
「あア、警察には調べられるが、正当防衛が認められ、無罪放免は間違いない」
果乃子は、過去の罪を思い浮かべる。執行猶予期間は過ぎたとはいえ、もう2度と危ない橋は渡りたくない。今回は、すべて、芳未がひっかぶってくれるのだから。
「麻由のあのヒステリーは異常だ。マンションの隣近所まで聞えているはずだ。ぼくが懸命になだめているようすもね」
「芳未さんは、そのあと彼女の喫茶店を引き継ぐンですか?」
「いやだろう、果乃子だって。喫茶店は一旦、売りに出して、別の商売を考える。ただ、ぼくたちの絵が飾れるお店がいい。ぼくの絵と果乃子の絵のどちらの評判がいいか。例え、売れなくてもいい。売るための絵は邪道だからね」
「芳未さん、でも、ちょっと麻由さんがかわいそう」
果乃子は前夫を刺した瞬間、同じことを感じた。
「どうしてだ?」
「だって、芳未さんを頼って再婚したのに。すぐに亡くなるンだもの」
「仕方ない。彼女の資産はぼくたちには必要だ。ぼくには絵を描く以外に能力がないンだから。ぼくに喫茶店の仕事なンて、土台無理な話だ。麻由はそのことを全く理解していない。きょうだって、出かける前に、『忘れずにお店の掃除をしてから、絵画教室に行ってよ』と言っていた。きょうは教室が休みだってことを忘れている。その程度のひとなンだ」
「芳未さん、本当にわたしのこと、愛してくれているの?」
果乃子はわずかばかりもたげた不安を口にした。女としては、麻由より勝っている。ただし、それは若さだけだ。稼ぎでは、麻由には到底及ばない。
「果乃子、ぼくはキミが欲しくて、あの日スーパーに行ったンだよ。キミだということは、ほぼ間違いないと確信していた。麻由と結婚したのは、キミとの生活を豊かにするためには、やむをえない手段だったと思ってほしい」
信じていいのか。果乃子には、まだ不安がある。
「明日、麻由はマンションの6階のベランダから転落する。ぼくはすぐに119番に通報する。それですべて終わる……」
篠宮はそう言って、もう一度、果乃子を胸に引き寄せた。
計画は頓挫することが多い。例え、練りに練った計画でも、初めてという緊張が、手元を狂わせる。
篠宮芳未は、翌日の夕食後、店から帰宅した麻由と、家の掃除をめぐり激しくやりあった。
「家事はあなたの仕事でしょ。どうして、もっと、もっと、きれいにできないの!」
「ぼくは、この家の主だ。そしてプロの画家だ。画家に家事を任せるキミの考えが、どうかしている。少しは、画家という人間を理解しろ。キミにはそれがわからないのかッ!」
こんなことから始まり、芳未は麻由をベランダに追い詰めると、彼女の体を持ち上げた。
しかし、体力のない絵描きは仕方ない。日頃、体を鍛えることを知らない。彼はそのことに思いが至らなかった。
麻由の体を持ち上げようしたが、途中で支えきれず、麻由の反撃にあうと、反対に自分の体をベランダの手すりに乗せる格好になった。そして、ふらふらと泳ぐような体勢になったかと思うと、あっけなく下に落ちていった。本当にあっけなくだ。しかし、幸いというか、下に楠の大木があり、彼の細い体は、それへぶつかった。
芳未は病院に救急搬送され、下半身不随にはなったが、一命はとりとめた。医師からは、一生、車椅子生活だろうと告げられたが。
一方、果乃子はその事実を知ると、自らの愚かさを知った。犯罪は間尺に合わないといわれるが、その通りになった。果乃子は、再び、大型スーパーに通い、衣料品の販売に精を出した。
「お客さま。このおズボン、おニューなンです。お客さまにはお似合いです。こちらにございますおブレザーもいかがですか。お客さまには、ぴったり、いえ、おピッタリです。ハイ……」
(了)
おズボン あべせい @abesei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます