第36話溢れる(1)
カランコロン、ドアにとりつけたベルが軽やかに鳴って、テーブルを拭いていた手を止めて、ドアの方を見る。帽子を脱いで店内に入ってきたお客さんが額の汗を拭う。
「いらっしゃいませ」
お客さんが人差し指を立てて、一人であることを私に合図する。お好きなお席へどうぞ、という定型文の後に、ホールへと水を取りに行く。グラスとお手拭きをお盆に乗せて、お客さんが座ったカウンター席にそれを置く。
お辞儀をしてテーブルを離れると、もう一度ドアが開きカランコロン、と音が鳴る。オーバーサイズのシャツを手でぱたぱたとさせながら入ってきたのは、雄一郎君だった。
「いらっしゃいませ」
「愛花ちゃん、やっほ」
「お好きなお席へどうぞ」
店長さんにも褒められた笑顔を見せると、雄一郎君はお仕事モードであることを理解してテーブル席へと座る。いつものように水の入ったグラスとお手拭きを運ぶ。メニューを眺める彼に、おすすめのランチメニューを教えてあげた。
「じゃぁそれで」
「はーい」
「制服いいね」
「愛花も結構お気に入り」
お店のロゴが左胸の位置に控えめに刺繍されたブラウンのTシャツに、同じようにロゴが刺繍された黒のサロンエプロンは、落ち着いた店内と合っていて私自身も気に入っている。
短く会話をして、注文を店長に伝える。淹れたてのコーヒーをカウンターのお客さんに提供して、先ほど帰っていった席の片づけをする。お皿を運び終えたら、出来上がったランチメニューのサラダとコーラを彼の元へと運ぶ。
「今日はバイト何時に終わるん?」
「夜の六時だよ」
「がっつりだなぁ……今日さ、学校の近くでお祭りあるんだけどさ」
行かない?という言葉と、まっすぐに私を見つめる茶色の瞳。きっと断っても、彼は残念だって言いながら、変わらずにいてくれるんだろうな。行く、と言えたらいいのにって思うけれど、そういう罪悪感みたいなものから私がそう決めても、それは結局お互いの為にはならないだろうし。
「ごめんねー」
「そっか、残念だなぁ」
そう言って彼は椅子の背もたれに背中を預ける。少しだけ拗ねた表情の後に、また誘うねって笑う。強いなぁって、眩しく思う。
「あ、じゃぁさ、今日家まで送ってっていい? また一緒に帰ろって約束、あったはずだけど?」
「……あったかもね」
正直祭りは理歩に会う可能性があるから行きたくなかった。出店を見ても、浴衣を見ても、きっと理歩のことを考えてしまうだろうから。でも、一緒に帰るくらいだったら、彼と一緒にいる時間自体は苦じゃないから。
って言っても、ここから歩いてもお家まで二十分くらいなんだけどね。
「じゃぁ、バイト終わったら連絡するね」
「おっけー」
彼は陽気にピースをしてくる。それに少しだけ笑って、その席を離れる。カランコロン、心地いい軽やかな音。入ってきた女性客2人に、笑顔を向ける。
今日は祭りの日。理歩があの子と二人で祭りに行く日。だから、予定が増えて、理歩のことを考えてしまう時間が減るのは、正直すごく有難かった。
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