第16話交差(4)

 パン屋さんの隅にある小さなスペースで、おすすめの動画を見せてもらう。数分にまとめられた簡潔な動画を、小さなスマホの画面で二人で見ていると、自然と顔は近くなる。二人が日常の一コマを忠実に再現する動画に、男の子が笑う。


 色素の薄い茶色の瞳、サッカー部らしい少しだけ焼けた肌、女の子とはぜんぜん違う首の太さに、シャツから覗く鎖骨が骨ばっていて、男の子だなぁと思う。動画を見ていた男の子がこちらを向いて、私の視線を知ってか知らずか首を傾げる。聞こえてくる低い声、スマホをつかむ大きな手。


「人の顔見て、どしたの」

「んー、男の子だなぁって」

「あっはは、まぁそりゃね!」


 口を大きく開けて笑う仕草、かすかに香る人工的な香料の匂い。全部が初めてなのか、全部リセットされちゃうのか分からないけれど、隣の男の子を新鮮に思う。同時に、隣に理歩以外がいるのが落ち着かない。


 クロワッサンの最後の一かけらを口に含む。重なった層がサクサクとした触感を生んで、冷めていても確かにおいしい。いいパン屋さんだから、また来たいなぁ。今度は理歩と、次の当番だった時に寄れたらいいなぁ。


「おいしかったでしょ」

「美味しかった。 他のも食べてみたいねー」

「じゃぁまた一緒帰ろうよ」


 茶色の瞳が私を見つめる。緩やかに上がる口角と相まって、自信が滲んでいるような表情。少女漫画だったら、このシーンできゅんとすることもあるのかもしれない。


 そんな表情をしてくれるのが理歩だったら、きゅんとするかもだけどね。

 そんなことを考えて、この自信に満ちた表情の理歩を想像してみると、面白いくらいに似合わなくて思わず笑いそうになる。思わず口元を抑えて笑いを堪えると、目の前の彼が私の顔を覗き込む。


「何、照れてる?」

「えー、照れてないよ」

「なんだ、残念」


 そう言って近い場所で笑う彼に、こんなののどこに教室にいた女の子たちは惹かれているのだろう。どうぞ勝手に、私抜きで楽しくやってくれたらいいのに。なんて、今都合よく付いてきたのは私なのに、そんな身勝手なことを思う。

 その男の子から少し離れて、窓の外に視線を外す。夕暮れの空に、そろそろ帰りたくなってきた。ご飯も作らなきゃだし、買い物してご飯を作っていればパパも帰ってくるだろうし。理歩のことも、少しだけ気がまぎれた気がする。落ち着いて、この状況を受け入れる心の準備が少しだけできたような。


 理歩に仲がいい子ができるのは嬉しい。私よりももっと良い人と出会って、もっと楽しく過ごしてくれたら、そっちの方がいい。魔法の言葉を、自身に唱える。いつかこの言葉を、本心から思えるように。準備していかなきゃ。


 そんなことを考えながらオレンジの通学路を眺めていた時だった。

 二人組の、同じ制服の女の子。ガラスから見えた瞬間、息が止まる。黒髪が風に揺れて、オレンジが混じる。楽し気に笑う表情は、不意にこちらを見つめて、目が合った瞬間に、その目はまるで闇夜の猫のように丸くなって。


 もう一人の女の子もこちらを見る。図書室であった子、私よりずっと理歩の隣にいた方がいいと思える、朗らかで優しい人。周りの目なんて気にせず、理歩と一緒に帰れる権利がある子。

 あぁ、嫌な子だな、私。


「わ、私そろそろ帰るね」

「え?」


 思わず立ち上がる。何か体を突き動かしてしまいそうな衝動が心の中でぐるぐるとし始めたから。叫び出したいような、泣き出したいような、走り出したいような、四方へ飛び出していきそうな衝動。砕け散ってしまいそう。

 立ち上がった瞬間に、まるで逃げるように理歩が突然走り出す。走っていく理歩の後姿を、私は呆気にとられながら見つめる。走り出す直前にみた、理歩の表情が網膜に焼き付く。


 なんで理歩が泣き出しそうなの。

 なんで理歩が逃げるの。

 

「理歩」


 離れていってほしいと願うくせに、なんで私は追いかけてるのかな。一緒に帰っていた女の子の視線も、駅へ向かう人々の視線も、スカートが翻ってしまうことすらも、全部がどうでもいいくらいに、なんでこんなに必死なんだろう。

 なんて、誰よりも、自分が一番分かっている。私にとって理歩はそれくらいの存在。とてもシンプルな答え。



 改札を抜けて、エスカレーターの右側を駆け上っていく。いつもの乗り場に電車が来ている気配はない。電車が来なければ、行き止まりと同じでしょ、理歩。

 誰かの鞄にぶつかって、勢い任せにごめんなさいと叫んだ。


 エスカレーターを登り切って、辺りを見渡す。息が苦しくて、喉が痛い。こんなに体力なかったかな。ホームには同じ制服の人が一人だけ、後はサラリーマンと、中学生と、私服の女の人。辺りを見渡しながら、ホームを歩いていく。


 少し歩いた先で、自動販売機の裏に人影をとらえる。同じ制服、黒い髪がオレンジを混ぜて綺麗。理歩、ともう一度呼ぶと、ゆっくりとこちらに出てくる。伏せた目は、一向にこちらを見ないまま、ローファーの先で地面についた染みを撫でている。そんな仕草を見つめながら、けれど何を言えばいいのかが分からない。気の利いた言葉は何も浮かばなくて、ただ、気になることだけが頭にいっぱいに膨らんでいる。



「なんで、逃げるの?」

「……」


 表情が強張って、足の動きも止まって。何か言葉を探しているのかもしれないし、何かに耐えているような気もする。自分のことは分かっても、理歩の事をちゃんとわかってあげられない。理歩が何を考えているのか、言葉にしてくれないなら、私はなにも知ることはできない。


「理歩」

「……用事って」

「え?」


 理歩の口が、それを最後にきつく閉じる。溢れそうなものを必死で抑えるような、開いたらせき止めていたものが溢れてしまいそうな、そんな顔をしている。私が理歩にそういう表情をさせているのかな。


「……用事って、デートだったんだ」

「で……嫌、パン屋さん寄ってただけだよ」

「でも私と帰るより優先なんでしょ」

「え? 先に一緒に帰れないって言ったのは理歩だよ」

「でも愛花だって最初から予定があったって」


 それは、理歩に気を遣わせたくなくて。喉元まで出てきた言葉が喉で詰まる。私のそんなの、理歩は分からないのは当然で。それを今、免罪符のように言うのはどうなんだろう。


「ごめん、別に誰と帰っても愛花の勝手だし」

「……」


 ホームにアナウンスが流れる。独り言のように吐き出された言葉の声色は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえたけれど、前髪で顔が隠れてしまうくらいに俯いてしまって、理歩がどんな顔をしているのか分からない。


 仮に、誰かを優先することが嫌なくらいに、理歩にとって私が特別なのだとするならば、それはきっと喜ばしいはずのことで。現に私は、その言葉に充足感のような、満たされるような気持ちがあるのも事実で。だけど、それを喜びだけで受け取れるほど、私と理歩の間にあるものは単純じゃない。

 

 電車がホームに到着して、扉が開く。人の出入りの慌ただしさに、置いて行かれたような空気が私たちを包む。時が止まったかのように、私たちだけ動けないまま。


 ここで嬉しいと言ってしまえば楽なのかな。私も同じくらいに特別だと言えれば簡単なのかな。けれど、ねぇ、理歩。

 理歩は、その感情の出どころを、ちゃんと理解している?


 理歩の特別と、私の特別は、きっと一緒じゃない。私のそれは理歩よりももっとドロドロとしていて、もし私のそれを理歩が知ったら、理歩はびっくりしちゃうでしょ?


 だから。

 この感情に重く硬い鎖を繋ぐ。鍵のない錠をかけて、奥深くに沈めていく。いつかもう大丈夫って思えるまで、浮かんでこなくなるまで、錆びついてしまうまで。

 

「ごめん」


 理歩からの特別を求めてはいけない。この特別に勘違いして、うっかりと私の特別を見せてはいけない。私の好きは、相手を困らせてしまうから。

 

 最後に見た、ママの泣き顔が浮かぶ。


 発車のアナウンスが鳴り響く。水の中で聞いているような、膜一枚を通したようにぼやけたような音。発車音が鳴って、ゆっくりと重たい金属が動き出す。

 電車が発車するのをじっと見つめてから、紫が混じる空を見上げた。

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