第15話交差(3)


 古文の復習も予習も終わらないまま、閉館の時間になった。窓の戸締りを見よう見まねで手伝い、忘れ物がないかを確認して図書室を出る。鍵はもう一人の委員の子が返してくれた。


 二人で帰るのは、これで三回目。最近は絵里ちゃんも沙耶も部活が忙しくなってきたから、これからどんどん増えるんだろうと思う。理歩は、彼女と帰っているところを見たことはなく、生徒会といった他の何かをしている訳でもない。同じ電車通学だし、この道を二人で歩くのが、いつか当たり前にすらなるのかもしれない。


 桜の木はいつの間にか葉を伸ばして、後数週間もすれば梅雨になって、高校生初めての中間テストなるものも始まって。時間は瞬きするうちにどんどんとコマを進めていく。


「優」

「ん?」

「あのー、実はお願いがあって……」


 不安げに下を向く瞳に、長く伸びたまつ毛。定規で計ったら、何センチあるんだろう。そんなことを考えて、頭の中で沙耶が気持ち悪いと眉を顰める。


「なに、なんでもいいよ」

「その……ノート、借りたくて!」


 まるでお金を借りるような深刻さで理歩が言うから思わず構えてしまったのに、聞けば古文のノートだという。それくらいいくらでも貸すのにな。鞄から古文のノートを取り出して理歩に差し出すと、まるで証書のように両手で受け取られる。

 最初の頃の理歩の印象とあまりにもかけ離れているその可愛らしい行動に思わず息が漏れる。私の笑い声に、子犬が首をかしげるような表情をするから、もういよいよこらえることができなくて。ずるいくらい可愛いよ。


「な、なんか……不名誉だよね、その笑いの意味」

「あっはは! 可愛いなぁって」

「絶対嘘でしょ」


 照れくさそうに、誤魔化すみたいににらみつけるその仕草だって。初めて見る表情は私の心を簡単に揺らす。トクトクと弾む心音が、今はとても心地いい。


「ノートなんでもいつだって貸すから、許してよ」

「……それはありがとう……」


 そういうすごく可愛いところ、もっとずっと見ていたいな。



 空がオレンジに染まる頃、もうすぐ最寄り駅に着いてしまう道に。駅から学校までもっと遠ければいいのになんて、朝の私が聞いたら怒るようなことを思う。でも、もし仮にそうだったら、もっと理歩と話せるのに。


 クリーニング屋さんを超えて、コンビニを超えて。パン屋さんも超えれば駅はすぐそこで。少しだけ足取りを緩めてしまおうか、なんて理歩の横顔を見ながら思う。


 あと少しの時間。


 理歩の横顔がある場所を見つめたまま止まって、私の気持ちが通じたかのように理歩の足が止まる。つられて足を止めて理歩を見つめるけど、理歩はまるで金縛りにでもあったように固まっている。


「どうかした?」


 理歩の視線の先を追う。パン屋さんの看板と、ガラス越しに店内の様子が見える。子供連れの親子がパンを選んでいて、店内の隅に一組の高校生。


「あ」


 理歩の視線の先を知る。図書室でも見た、女の子。愛花って子が、男の子に可愛らしい笑顔を向けている。あの男の子は学年でも有名人な、絵里ちゃんが言っていたサッカー部の人だ。客観的にみても、その雰囲気はどちらともにふさわしく、有り体に言えばお似合いの二人だ。


 絵里ちゃんが言っていたことは本当で、実はもう付き合っているのかもしれない。私には遠い世界に、ぼんやりとそんなことを思う。


「お似合いだね」


 そう言って、私はまた歩き出す。だってそれくらいのことだったから。たまたま知り合いをプライベートで見かけたとて、誰だってこれ位の反応なはずで。けれど、三歩歩いても理歩はまだ止まったままで。私は振り返って理歩を見る。


 横顔からはとらえきれなかった理歩の表情を見て、私は理歩の視線の意味を知る。置いて行かれた子供のような、今にも泣きだしてしまいそうな、見ているだけで、私の心臓を締め付けてしまうような。私は先ほど口にした言葉を瞬時に後悔する。


 親友、という言葉に引っかかっていた理由が、やっと分かった。理歩の、愛花という子へ向ける視線に体の重力が増す理由も、全部。理歩の瞳がそれを持っている。


 理歩は、多分、あの子の事を特別に思っている。私や、沙耶や、絵里ちゃんがどれだけ近づいたって入れない場所、特別という透明なベールがかかった部屋。心という空間の、一番奥深くに、彼女がいるんだ。



「……」


 理歩が何かに怯えるように肩を上げて、まるで金縛りが溶けたみたいに次の瞬間には走り出した。私の声も無視して、理歩は逃げるみたいに駅へと走っていく。それを呆然と見つめていると、知らない誰かが理歩の名前を叫ぶ。


「理歩!」


 パン屋さんのドアが乱暴に空いて、ドアに着いたベルが騒がしく鳴る。そんなことはきっとあの子には聞こえていない。それくらいに必死な顔で、セットした髪がめちゃくちゃになるのだってきっと頭にないくらいに、彼女は全力で理歩を追いかけていく。あの必死な声は、彼女のものだったのだと今更気づく。


 彼女があんなに必死になるくらいに、理歩は大切な子なんだ。あんな子が周りが見えなくなるくらい、自分を後回しにするくらいに、理歩は大事な子。


「なにそれ……」


 そんなの、敵いっこない。




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