第23話 広野星行
「泊まってくの?」
夕飯のカレーを食べた後も一向に帰る様子がない友に、そう聞いてみた。
「駄目?」
友は冗談めかして言いながら、ほんの少し不安そうに笑う。
まあ、友が「夕飯も楽しみだなー」とか言っていた時点でそんな予感はしていた。
冬用の布団があるし、リビングは広いから寝る場所も問題はないんだけど。
ただ……大学の時でさえ、どちらかの家に泊まるということはなかったから、少し驚いた。
「別にいいけど。でも、明日バイトだから」
「うん、わかってる。ありがと」
今度は安心したような自然な笑顔を見せて、友は百合香ちゃんと二人で一冊の本を読むという作業を再開する。
本当に、二人は短時間でずいぶん仲良くなった。
僕ではどうしても足りなかったものを、友が埋めてくれているような気がする。
それは男女の違いというのもあるだろうし、単純に違う人間がそれぞれ持っている別々の凸凹を組み合わせるようなものでもある。
僕一人にできることは、どこまでも限られている。
友がずっといてくれたら――なんて、一瞬想像してしまったけど、僕はその考えをすぐに振り払った。
入浴を終えて、いつもより少し遅い時間にリビングの電気を消した。
暗くなった部屋の中で、友と百合香ちゃんのささやき声はしばらく続いていた。
ベッドに入ってから三十分くらいは経っただろうか。
今日の出来事を思い返していたせいか、うまく寝付けない。
不意に、スーッと
「友?」
「あ、起きてた」
顔を覗かせたのは、ワンピースタイプのパジャマに着替えた友だった。
しっかり着替えまで持ってきているあたり、最初から泊まるつもりだったらしい。
それならそうと最初から言ってくれればいいのに。
「寝れないの?」
「ホッシーこそ」
「僕は今起こされたんだけど」
「……ごめん」
「うそうそ。……入って。百合香ちゃんが起きちゃう」
僕は友を部屋に招き入れて、オレンジ色の小さい明かりをつけた。
「絵、飾ってくれてるんだ」
友は椅子に座ってキョロキョロと部屋を見回し、壁に飾ってあった大きな絵を見つけて嬉しそうに言った。
「もちろん。この絵、結構気に入ってる」
白い線で切り取られたような青空の中に飛ぶ、白いシルエットだけの鳥。
この絵を見ていると、なぜか懐かしい気持ちになる。
知らないはずの過去を思い出すような。
長い間部屋に飾ってあったせいで日焼けして色あせてしまっているけど、その色の変色具合がまた、この絵の良さを引き出しているような気がする。
「その感想が聞けただけで、来たかいがあったよ」
「感想を聞くために来たわけじゃないんでしょ」
「バレてたか」
「当たり前だ。……やましいことなんてないってこと、分かってくれた?」
「百合香ちゃんが大切にされてるってことは分かった。いいシャンプー使ってたし」
シャンプーは……店員さんから勧められるままに買っただけだからなあ。
友がいいものだと言うなら良かった。
いや、それはともかく。
「ちょっと含みがある言い方に聞こえるけど?」
「んー」
オレンジ色の光に照らされる友は、一時期ずっと一緒にいた大学時代でも見たことがないような雰囲気を漂わせている。
視界が一色に染まって、一枚の写真の中にいるみたいに、少し現実感がない。
「ホッシーはさ……百合香ちゃんのこと好き?」
「そりゃ好きだよ」
即答した僕に、友は驚いたような顔を向けた。
誤解させたらまずいと思って、僕は慌てて言葉を続ける。
「念のために言っとくけど、別に恋愛的な好きとかそういうのじゃないから」
「でもホッシー、小さい女の子が好きなんでしょ?」
「あー……大学の時のアレね……まだ覚えてたのか」
「そりゃね。忘れらんないよ」
原宿だか代々木だかを二人で歩いていた時、小さい女の子ばかり目で追っていた僕を、友はロリコンだと決めつけたのだ。
僕はため息をついて、少し考える。
友は僕のことを誤解している。
僕はロリコンではない。
……そうやって、あの日から僕は友の言葉を
でも、小さい女の子を目で追ってしまうという本能みたいなものはこの歳になってもなくならなかったし、百合香ちゃんと出会ってからは特に、自分のそういう
ようやくきちんと向き合うようになった、というべきかもしれない。
「考えたんだけどさ……性的嗜好とか、性自認とか、グラデーションだと思うんだ」
「グラデーション?」
僕は自分の考えをまとめるみたいに、話し始めた。
「職場の社員さんで、同性愛者であることをカミングアウトしてる男性がいるんだけど、その人は女性と結婚してるんだよね。それでいて、同性のパートナーもいる」
「ええ……?」
「理由を聞いたら、子供が欲しいんだって。パートナーの人は女性と肉体関係を持つのは絶対無理って感じだったんだけど、その社員さんは大丈夫だったから、消去法でそういう形になっただけだって言ってた」
「なんか複雑なんだけど……その話気になる……」
「まあ、それ以上詳しい話は聞かなかったけどさ。思ったのは、同じ同性愛者だからって、全員が同じ考えじゃないんだなって。当たり前なんだけど」
人はそれぞれ違うなんて、分かりきっていたことのはずなのに。
特殊なカテゴリに所属するというだけで、同じ心の動きをすると思われがちだ。
というか、その人の話を聞くまで僕自身もそう思ってた。
「人間ってゼロかイチかで計ることができないから、要は、大体のことは割合とか濃淡なんじゃないかなって思ったんだ」
「割合ねえ。異性愛者でも同性愛的な部分が数パーセントくらいはあるとか、そういうこと?」
「そうそう。でまあ、話を戻すと、僕は確かにロリコンかもしれないけど、その割合はけっこう少なめな気がするわけ」
性自認と性的嗜好はまた別の話かもしれないけど、その根っこにあるのは自我を持つ人間としての精神構造だから、類似点は多いと思う。
「つまりホッシーは……軽度のロリコンだと」
「まあ、そんな感じ。たぶん世の中には、小さい子供でしか欲情できない人もいるだろうし、性的な魅力は感じないけど遠くから見ていたいって人もいるだろうし」
「ホッシーは後者の無害なロリコンだと主張しているわけだね」
「その通りだけど……先に言われるとなんか負けたような気になるな」
「言いたいことは分かったよ。つまりホッシーは、百合香ちゃんに手を出すようなことはないって言いたいんだよね?」
「そういうこと」
「……でもそれ、信用していいの? 例えば、百合香ちゃんがもう少し成長して女性らしさが出てきても、気持ちは変わらないって言える?」
「変わらないと思いたいけど……その時になってみないと分からない。ただひとつ言えるのは、たぶんこの生活はそんなに長くは続かないってこと」
「それは……」
沈黙が落ちた。
この絶妙なバランスで成り立っているぬるま湯のような生活は、そう遠くない未来に破綻するだろう。
学校や進学はどうするのか? 大きな病気にかかったら?
今のままでは解決できそうにない問題が山積みだ。
そして僕には保証も、後ろ盾も、大きな財産もない。
何より、法に背いている。
これで長続きすると思う方が無理な話だ。
「……そういうこと、ちゃんと考えてたんだ」
「そりゃ考えるでしょ」
「じゃあ、これからどうするの、って聞いていい?」
それは多分、友が真っ先に聞きたかったことだろう。
よく分かる。
友が僕を本気で心配してくれていることも。
それを口に出せば僕を追い詰めてしまうかもしれないって思っていたことも。
「百合香ちゃんの状況を解決できる方法を探したけど、八方塞がりって感じだった。だからとりあえず、できることから始めようと思ってる」
「できること?」
「百合香ちゃんのお父さん探し。そもそも百合香ちゃんは、離婚して出ていった本当のお父さんを探してこの街まで来たんだから」
「でも……記憶はあいまいだって本人が言ってたんでしょ? この近くにいるとは限らないんじゃない?」
「友も一緒に遊んでて気づいたと思うけど、百合香ちゃんは頭がよくて、記憶力もすごい。甲府から電車でこの街まで、小学生がなんとなく乗り継いで来れるとは思えないんだよね。だから百合香ちゃんのお父さんは、高い確率でこの付近に住んでると僕は思ってる」
それでも今日まで僕が百合香ちゃんのお父さんを探そうとしなかったのは、やっぱりそれなりにリスクがあるからだ。
ぎこちない状態の僕たちが二人で歩いていれば、警察に職務質問されたり、不審だと思われて注目される可能性が高まる。
でも、二人でいろいろなことを話して、一緒に生活をして、僕たちはそれなりに仲良くなってきた。
二人で歩いていても違和感がなくなってきている。
もうそろそろ、行動を開始してもいい頃合いだろう。
「それでもし、お父さんを見つけられたら……それからどうするの?」
「見つけてみないとなんとも。お父さんと相談してみて、新しいアイデアが生まれることを願ってるよ」
「頼りないなあ」
「しょうがないでしょ」
友のくすくすと笑う声で、雰囲気が弛緩した。
そろそろこの会話も終りに向かう、そういう空気が流れている。
「ホッシー、明日仕事なんだよね?」
友もそれを感じたみたいで、違う話を振ってきた。
「そうだけど」
「じゃあ明日、百合香ちゃんとデートしてもいい?」
「は? なに?」
いや、ちょっと話題の変化が突然すぎる。
僕は面食らって、聞き返すことしかできなかった。
「せっかく東京まで来たんだから、行ってみたい所があったんだよね。博物館なんだけど」
「あー……仕事の資料とか?」
「趣味と実益を兼ねてって感じ」
「どこの博物館?」
「あのー、あれ、動物園とかあるところ」
「上野か……」
遠い。
そして多分、乗り換えが複雑になる。
正直、心配だ。
「心配だなあ」
「スマホがあるから大丈夫だよ」
「そっちも心配だけどさ」
「百合香ちゃんのこと? ていうかホッシーだって、旅行に行ったんでしょ?」
「うっ」
そこを突かれると弱い。
さすがに拳銃うんぬんのことまでは話してないから、友は純粋に僕たちが旅行に行っただけだと信じているのだ。
「それにたぶん、女性と一緒ならまず大丈夫だと思うよ」
「ああ、そうか……そうなんだよなあ」
子育てには女性が向いているだとか。
子供は母親と一緒にいる方が幸せだとか。
いくら時代が急速に変わりつつあると言っても、長い間続いてきた風習というか文化というか、凝り固まった感覚のようなものはそう簡単には消え去らない。
両親で親権を争った場合の結果がどれほど偏っているかが、それを物語っている。
そういう固定観念は正されていくべきだとは思うけど……
今はその偏りに乗っかる方が、お得な場面なのか。
「わかった、いいよ」
「やった。百合香ちゃんはこの命にかえても……」
「命の危険があるようなことをするな」
「銃撃戦が起きたら身を挺して守るよ」
「どこの紛争地帯まで行くつもりだよ」
くだらない冗談の応酬をしてから、友は部屋を出ていった。
僕は布団に潜って、ほんの少しの寂しさを噛みしめる。
正直、友がうらやましい。
僕も女性だったらなあ、と思ってしまうのは良くないことだろうか。
猫になりたかったり、女性になりたかったり、ないものねだりばっかりだな。
残念ながら、どれだけ願っても僕は僕でしかない。
頑張らなければ。
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