第20話 岸辺百合香

 旅行に行ってから、ほしゆきさんは前より穏やかな顔をするようになった。

 心に余裕ができた感じっていうか……

 やっぱり押入れの奥にしまったまま忘れていたとしても、不安の種みたいなものはずっと心をぎゅっと締め付け続けていたんだと思う。

 拳銃を捨ててくれて良かった。

 あんなもの、ほしゆきさんには全然似合わないから。


 今日は、ほしゆきさんは自分の部屋でゲームをするらしい。

 私も一緒に遊べたらいいなと思ったけど、パソコンでやるゲームはそういうのは難しいんだって。

 ちょっと寂しいけど、いつも私のことを気にかけてばかりだった時よりも、距離感が自然になってきた感じがして悪くないと思う。

 私がここに来る前はそうやってゲームをするのが趣味だったみたいだから、息抜きをしてくれたらいいなと思って、私はそっとしておいてあげることにした。


「なんじゃ、ヒロノは寝とるんか」

「ゲームしてるんだよ」


 すぐにトラが遊びに来てくれたから、私も寂しくなくなったし。


「ユリカを放っておいて一人で遊びに興じるとはまったく……」

「いいの。たまにはほしゆきさんにも気を抜ける時間がないと」

「おぬし……旅行に行く前より少し大人びたか?」

「えー、そう?」

「……旅先でなんか変なことされたんじゃなかろうな」

「トラはいつもそういう心配ばっかりだねぇ」


 ほしゆきさんもそうだったけど、今ではトラの方が過保護かもしれない。

 私は大丈夫だよっていう気持ちを込めて、トラをぎゅってしてあげる。

 そうするとトラは大人しくなるから、その隙に色々なところを撫で回すのだ。


「……撫でるのは構わんが、飯をくれ」

「あっ、忘れてた」


 私は台所に行って、猫缶を開けた。

 小学四年生にもなって、手を切るかもしれないから缶詰を開けちゃだめなんておかしいって言ったら、ほしゆきさんはしぶしぶオッケーを出してくれた。

 まったくしょうがないほしゆきさんだなと思いながらも、そこまで言ったんだから私も怪我をしないように気をつけなきゃな、とも思う。


「おいしい?」

「普通にうまい」

「いつも同じので飽きない?」

「他の家では違う種類のやつを食ってるから別に飽きんな」

「そっか……トラは他の家にも行ってるんだっけ」

「この周辺だけじゃがな」


 餌をもらえる縄張りを巡回するというのは、猫そのものだ。

 座敷わらし要素はどこに行ったんだろう。

 そんな私の疑問を見透かしたのか、食べ終わったトラは手を舐めながら言った。


「昔、この辺りには大きなお屋敷が建っていてな。わしはそのお屋敷の座敷わらしじゃったから、今でもその当時の範囲を守っておるというだけの話じゃ」

「ふーん。そのお屋敷はどうしてなくなったの?」

「戦争のせいでな。鉄と火には勝てんかった」


 トラは平気そうに言っているけど、耳と尻尾がしょんぼりしている。

 ひょっとしたらこれは地雷っていうやつかもしれない。

 悪いことを聞いちゃったなと思って、私は別の話を振ることにした。


「トラっていつもトイレどうしてるの?」

「なぜ今そんな話に……まあ、用を足す場所はコイケが用意してくれとるが」

「こいけ? 誰?」

「この家の大家のばあさんじゃ」

「ふーん。ていうか、猫用のトイレ使ってるの?」

「他にないじゃろ」

「えー、それはちょっと……」


 猫砂の上にしゃがんでいるトラの姿を想像すると、すごく良くない感じがする。

 でもそう思うのは私だけで、トラのことが猫にしか見えない他の人にとっては、それが普通なんだ。

 世界のほとんどの人が正しくない姿を見ているとしたら、それが正しいことになってしまう。逆に本当の姿が唯一見える私は、頭がおかしい人ということになる。

 うーん、この世界っていうのはもしかしたら、思っていたよりもしっかりしていないのかもしれない。


「座敷わらしって妖怪みたいなものでしょ? トイレしなくても平気じゃないの?」

「なに言っとるんじゃ、食ったら出るに決まっとるじゃろ。質量保存の法則とかいう有名なやつを知らんのか」

「前は食べなくても大丈夫って言ってなかった?」

「そりゃ食わなくても存在することはできるが、そうするとこうして触れ合うことができなくなる」

「えー、それはやだ」

「そうじゃろ。わしも人に撫でてもらうのが好きじゃ」


 急に可愛いことを言うので、思いっきり撫でてあげたら尻尾で叩かれた。

 尻尾を掴もうとすると、うなぎみたいに逃げる。

 お腹は平気になったのに、こっちはまだガードが固い。


「じゃあうちのトイレ使いなよ。使い方わかる?」

「馬鹿にするでない。ヒロノが使ってるところをよく見ていた」

「……勝手にトイレの扉開けたらだめだよ」

「人間も猫が用を足すところをじっと見とるじゃろうが」

「うーん……それもそうかな?」


 猫を飼ったことはないけど、もし飼ったとしたら、トイレしているところは多分じっくり見ちゃうと思う。可愛いから。

 人間が猫の珍しい行動を観察してる時、猫も人間を観察してるんだなあ。

 なんて思いながら、トラをトイレに案内した。


「ここに座ってー、このボタンで水が流れてー……あっ、紙が残り少ない」

「ふーむ。どうでもいいが、猫に人間のトイレを使わせると詰まるらしいぞ」

「そうなの?」

「本当かどうかは知らん。ヒロノがそういう記事をネットで見てた」

「トラは大丈夫かな?」

「知らん」

「……やっぱりやめとこうか?」

「そもそも使うとは一言も言っとらんぞわし」

「なんだよーもー」


 狭いトイレで一通りわちゃわちゃしてから外に出る。

 ついでに残り少なくなっているトイレットペーパーを補充しようと思ったけど、どこにしまってあるのか分からなかった。

 手が届かない高い棚に置いてあるのかもしれないけど……


「わからんならヒロノに聞けばいいじゃろ」

「えーでもゲーム中だしなー」

「親しき仲にも礼儀ありとは言うが、時には気を使わん方がいい時もあるぞ。おぬしだって、ヒロノに何かと気を使われていた頃よりも、今くらいの距離感の方が信頼されている感じがしていいじゃろ」

「……それはそうかも」


 というわけで、ほしゆきさんに聞いてみることにした。

 と言っても、いきなり襖を開けたりはしない。

 軽くノックしてから声をかける。


「ほしゆきさーん」


 ……返事がない。

 もう一度声をかけてみるけど、やっぱり反応がない。

 ふすまに耳をつけてみると、小さく話し声が聞こえるから、電話中なのかも?


「電話してるみたい」

「あー……それはアレじゃ。友人と通話しながらゲームしとるんじゃろ。協力プレイというやつじゃな。何年か前によくやってるのを見たぞ」

「へー」


 どうでもいいけど、トラって昔の人みたいな口調のくせに、普通に現代の知識があるよね。

 人と一緒に生きてたら、時代に沿った常識が身につくのは当然かもしれないけど。


「所詮遊びじゃ。こっちの用事のほうが大事じゃろ」

「別に急ぐほどじゃないんだけど」

「そうやって後回しにしとるとすぐ忘れるんじゃ。ほれ、もっと大声で呼ばんか。なんならわしが入っていってゲームの邪魔をしてやろうか?」

「そこまでしなくていいよお」


 トラはほしゆきさんに厳しいなあ。

 長い付き合いだからこそ、遠慮がないっていうことなのかな。


 私はちょっと咳払いしてから、大きく息を吸った。


「ほしゆきさーん!」


 大きな声で呼びかけると、部屋の中でガタガタッと音がして、それからすぐに襖が開いた。


「ごめん、もしかしてずっと呼んでた?」

「うん……トイレットペーパーがなくなりそうだから新しいの出しておこうと思ったんだけど、どこにあるか分かんなくて」


 こっそりほしゆきさんの部屋の中を見てみると、椅子の背中にヘッドホンが引っかかっていた。

 あれをつけてゲームをしていたら、外の声が聞こえにくくても仕方ないか。


「あー、高い戸棚に入れてあるんだ。こっちこっち」

「ごめんね、お友達とゲームしてたんでしょ?」

「うん、まあ、それは気にしないで。こっちこそ気がつかなくてごめんね」


 トイレットペーパーを出してもらった後、ほしゆきさんが部屋に戻ろうとする途中で、トラが唇を突き出すみたいにぶすっとした顔でほしゆきさんを見上げていた。


「お、トラ。来てたのか」


 ほしゆきさんがトラを撫でようとして頭に手を伸ばす。

 でも、その手はスカッと空振った。

 トラがよけたからだ。


「またあの女と遊んどったな。ユリカというものがありながら……」

「……あれ、今日はご機嫌斜めか」


 ほしゆきさんは苦笑しながら、部屋に戻っていった。

 トラが普通に話しかけてもニャーとしか聞こえていないんだなと思うと、やっぱり少し不思議な感じがした。

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