第17話 広野星行
「百合香ちゃん、ゆっくり後ろに下がって」
なるべく平静を装って、落ち着いて話しかけたつもりだったけど、緊張感が声に出てしまっていたのかもしれない。
百合香ちゃんは明らかに怯えた目で、拳銃と僕を交互に見ていた。
まるで最初の日に戻ったみたいに、彼女にそんな目で見られるのは正直つらい。
でも、今はそんなことを言っている場合じゃない。
僕は床に落ちた拳銃をそっと両手で持ち上げて、ダンボール箱の中に戻した。
ひやりと冷たい感触に少し手が震える。
マガジンは外してあるけど、たぶん銃の中にはまだ弾が一発装填されている。
そしてこの銃には、安全装置がない。
引き金を引くだけで弾が発射されてしまうはずだ。
これを持ち帰った後に調べた限りでは、落下などの衝撃で暴発する危険性は少ないということだったけど、あくまでネットで仕入れただけの浅い知識だ。慎重に扱い過ぎて悪いということはないだろう。
というか、そもそもこんなものを後生大事に保管しておいたのが間違いだった。
今回は全面的に、百二十パーセント僕が悪い。
「ほしゆきさん……それ、本物?」
百合香ちゃんは、なんとも言えない目で僕を見つめながらそう聞いてきた。
『モデルガンだよ。昔友達にもらったんだ』
『リアルでしょ? 威力も結構あって危ないから、こうやって本物みたいにしまっておいたんだよ』
……いや、無理があるな。
百合香ちゃんは賢いから、こんな嘘に騙されるとは思えない。
あるいは、あえて騙されたフリをしてくれるかもしれないけど……そうなったらもう、昨日までの距離感には戻れなくなる気がする。
それに、なるべく嘘はつかないって約束したし。
「本物だと思う。撃ったことはないけど」
「なんでそんなの持ってるの?」
僕が素直に言うと、百合香ちゃんは当然の疑問を投げかけてきた。
「話せば長いんだけどね……いや、長くもないかな……どっちかなあ……」
できれば話したくないという本能が、僕に適当なことを口走らせる。
今となっては恥ずかしい黒歴史だ。あまり直視したいものではない。
でも、百合香ちゃんはじっと僕の目を見つめて、逃してはくれなさそうだった。
仕方ない。
洗いざらい、全部話してしまおう。
「僕が今のバイトを始めてからそれほど経ってなかった頃だから、四、五年くらい前だったかな……」
◆
新卒で入った会社を辞めた当時の僕は、一言で言えば荒れていた。
と言っても、荒れていたのは心の中だけの話で、普通に次の仕事を見つけて普通に生活しようと頑張ってはいたんだけど。
まあ荒れていた原因は、辞めた会社がクソ過ぎたという一言に尽きる。
右も左も分からない新入社員にやらせるような仕事じゃない案件をOJTだとか言ってやらせた上に僕たちが血を吐くような苦労の末どうにか獲得した実績を上司が全部自分の手柄にした上に新人には金一封も出ないどころか残業代も……いや駄目だ、これ以上思い出すと頭がおかしくなる。
とにかく僕は最終的に、職場のありとあらゆるものを水浸しにしてから退職した。
よく訴えられなかったなと思う。
運が良かった。いや、悪かったんだけど。
とにかく心が
まあ新宿と言っても大昔と違って、それほど治安は悪くない。
たまに薬の売人らしき人がいたりするくらいだ。
最初はドキドキしていた路地裏探検も、慣れてくれば散歩と変わらなくなった。
派手な喧嘩を目撃したり、明らかにラリっている人を見かけたりしているうちに、どこまでが普通で、どこからが異常なのか、その境目が
だから僕がその人と出会った時も、普通の精神状態じゃなかったんだと思う。
ビルが密集しているようなところでは、建物と建物の隙間を塞ぐように金属製の扉が取り付けられている部分がある。
構造上、そこは少しだけ奥まっていて、その凹みにすっぽりと収まるみたいに、誰かがうずくまっていた。
最初はホームレスかと思った。
でもよく見ると、頭から被っている上着は綺麗なもので、履いている靴もよく磨かれた革靴だった。
なんとなく足を止めてみると、苦しむようなうめき声がかすかに聞こえてきた。
息遣いは荒く、鉄のようなにおいが漂ってくる。
僕はその人に近付き、しゃがみ込んだ。
大丈夫ですかと声をかけようとした瞬間、僕は前髪の生え際あたりにゴリッと冷たい塊を押し付けられた。
「なんだ……ただのガキか……消えろ、見世物じゃねえぞ……」
すぐに降ろされた彼の手の中にあるもの見て、僕は始めて自分が拳銃を突きつけられていたのだということに気が付いた。
このご時世、海外旅行によく行く人でも、頭に銃を突きつけられる経験なんて滅多にないだろう。当然、僕も始めての経験だった。
だから、だろうか。
僕の頭の中はその時、完全に現実感を失ってしまったらしい。
フィクションの中にいるような感覚。
自分という個が消え、その場面に適した登場人物を演じ始める。
僕は立ち上がってスマホを取り出し、通話アプリを立ち上げた。
「救急です。男の人がお腹から血を流して座り込んでて……意識はあります」
「……おいテメェ、なにやってんだ」
「はい、会話も一応できてます……四十代くらいですかね。一人ですね」
「やめろ! 電話切れ……!」
「けっこう血が出てるんで早く……あ、はい、場所は……」
僕は近くの電柱に書かれていた番地と、目印になりそうな店の名前を伝えて、電話を切った。
「切りましたけど」
「余計なことしやがって……これを処分するまで捕まる訳には……」
男の人は、怒鳴ったせいか意識が朦朧とし始めたようだった。
シャツの腹部が真っ赤に染まっていて、多分まだ血が止まっていない。
むしろ、これだけ血が出てるのに、まだ意識があるのが不思議なくらいだ。
僕は相手が弱ってきたことを幸いに、再び近くにしゃがみ込んだ。
「これって、これですか?」
ひょいと、僕は拳銃を取り上げた。
男の人の手にはもう力が全然入っていなかったから、抵抗もされなかった。
……今にして思えばこの時、めちゃくちゃ危険なことをしていたと思う。
無知と、「自分は今普通じゃないことをやっている」という高揚感……有り体に言ってしまえば「フィクションみたいなことをしている自分格好いい」という感覚が、普段なら絶対しないような行動を自分にさせていた。
今思い返すと、恥ずかしさで転げ回りたくなる。
「返せ!」
「僕が処分しときますよ」
「ふざけんな……!」
「興奮しない方がいいと思いますけど……血が止まらなくなりそう」
「くそ……おい、お前……名前は……」
「広野ですけど」
「ヒロ……? いいか……早……う……み……」
「わかりました。心配しないで下さい。ちゃんと捨てておきますから」
会話が噛み合わなくなってきたので、僕は拳銃を無造作にリュックに入れて、大きい通りに出ていった。
やがて到着した救急隊に男の人の場所を教え、「僕は通りがかっただけなんで」と嘘をついてそのまま家に帰った。
それから半年後くらいだろうか。
そんな出来事も忘れ始めた頃に、瀧さんがバイト先の書店に現れたのは。
「やーーーっっと見つけたぞお前……」
「うわっ」
殺される、と思った。
傷が癒えて元気いっぱいになった彼は、どう見てもカタギの人間じゃなかった。
まあ銃を持っていた時点でそんなことは分かってたんだけど。
「あの時は世話になったな……」
「何のことですか? 人違いじゃ?」
「見間違えるかよ、命の恩人をよお」
「あれ……怒ってる訳じゃないんですか?」
「怒ってねえよ……あと五分、搬送が遅れてたら死んでたってよ。助かったぜ」
「それはなんというか、良かったですね」
「そんで……アレ、ちゃんと処分したんだろうな?」
「あーアレですね。ええ、もちろん」
「どこに捨てた?」
「海ですよね?」
「ですよねってなんだよ」
「あなたが言ったんじゃないですか。海に捨てろって」
「んなこと言ったか俺」
「言いましたよ。あんまりろれつが回ってなかったですけど」
「そうか……まあ、捨ててくれたならそれでいい」
「じゃあ僕はまだ仕事があるんで……」
「ちょっと待て」
「なんすか」
「礼がしたい。命を救ってもらったことと、アレを処分してくれたことの。おかげでムショにも入らずに済んだ。出世もできた。全部お前のおかげだからな」
「その気持ちだけで十分ですので」
「まあそう言うなよ」
「いやもう本当に仕事中なんで」
「じゃあ仕事終わるまで待ってるわ」
「ええ……」
こうして僕は、瀧さんに付きまとわれるようになったのだった。
お礼がしたいっていうのは、まあ半分くらいは本音だったんだろう。
でももう半分は、僕が銃を捨てたと嘘をついて妙なことに使ったりしないか、見張る意味があったんじゃないかと思う。
僕は本当のことを言えないまま、拳銃をダンボール箱の底に封印して、時間だけが過ぎていった。
どうしてすぐに捨てなかったのかと聞かれれば……なんとなく、としか答えようがない。
ただ、あえて理由をつけるなら。
何かどうしようもない現実に直面した時、僕はこの銃で何もかもをめちゃくちゃにして、自分の人生さえも派手に終わらせることだってできるんだぞ、という精神的なお守りが欲しかった……のかもしれない。
どちらにせよ、今となってはもう無用の長物なんだけど。
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