第11話 岸部百合香
寝具売り場は、全体的にいい匂いがしていた。
ビンにたくさん棒が立ててあるやつから、色々な匂いがしているらしい。
ルームフレグランスって書いてある。
ほしゆきさんの家にもこういうのがあればいいのにと思ったけど、トラが嫌がるかもしれないなと思った。
私がそれを眺めている間、ほしゆきさんはベッド売り場で立ち止まって何か考え事をしているみたいだった。
それからちょいちょいと手招きをされて、私はほしゆきさんの近くに歩いていく。
「理子ちゃん、ベッド欲しくない?」
誰それ、と思ったけど、私の偽名だった。
偽名。格好いいけど、呼ばれ慣れてないから一瞬誰のことかわからなくなる。
遠くから呼ばれても気付かないかもしれないなと思って、私はまたほしゆきさんの手を握った。
「ベッドって、これ?」
「そうこれ。違うやつでもいいけど」
ほしゆきさんは真剣な顔をしていた。
冗談ではなさそうだ。
こんな大きなものを置いたら、お部屋が狭くなっちゃうと思うんだけど。
ていうかそれよりも、値段。
書いてある値段がやばい。すごく高い。
これを私に? 本気で?
「普通にあのソファで大丈夫だけど……」
ここで欲しいと言ったら本当に買ってくれそうだったので、私はそう答える。
さすがにこれはちょっと……やりすぎだと思う。
「そう? でもなあ……」
ほしゆきさんはまだ悩んでいた。
たぶん私がソファで寝ていることを心配してくれているんだろうけど、あのソファは大きいし、体も痛くならないから、本当に問題はない。
でも私がどう感じているかなんて、ほしゆきさんにはわからないだろうしなあ。
このままだと危ないような気がして、私はほしゆきさんの興味を別の所に向けようと、つないだままの手を引っ張った。
「それよりこういうやつの方がいい。足とかちょっと蒸れるから」
私が指差したのは、ベッドの上に敷くマットみたいなものだった。
よくわからないけど、ちょっとふかふかしていて、それなりに軽くて薄い。
革のソファに素足で寝ていると、汗でキュッとすることがあるから、こういうのを敷けば快適そうだなと思ったのも嘘じゃなかった。
「ふーん、マットレスパッドか」
ほしゆきさんの興味も、うまくそらせたみたい。
ほっと胸を撫でおろしていると、私の目にそのマットレスパッドの値段が飛び込んできた。
一瞬見間違いかと思って、顔を近づけてよく見てみる。
一、十、百、千、万、じゅう……
えっ、なにこれ。普通に高い。
ベッドよりは安いけど、思っていたよりもずっと高かった。
「これ、いいね。これにしようか」
「え、本当に買うの……?」
似たようなので安いやつもあったけど、ほしゆきさんはこれが気に入ったみたいで、買う気まんまんになっている。
「いいのいいの。遠慮しないで」
「う、うーん」
買ってしまった。
本当にいいのかなあ、と思う。
メガネも買ってもらったのに。
家にも住ませてもらっているのに。
ご飯も作ってくれるし、必要なものも色々買ってくれているのに。
この人、私にとって都合が良すぎる。
ひょっとしてこれ、夢なのかな。
「他に何か欲しい物ある?」
ほしゆきさんはまた、そんなことを聞いてくる。
「えー、でももう買ってもらったし……」
欲しいものは一応、ある。あった。
でも、もう十分すぎるくらい貰っている。
どうしてほしゆきさんは、こんなに私に良くしてくれるんだろう。
「さっきのは僕が欲しかったやつ。ソファは僕も使うでしょ? だから次は理子ちゃんの欲しい物を買おう」
本当かな、と思う。
大人は嘘がうまい。ほしゆきさんは特に。
でも、嘘だったとしても、それが優しい嘘だということくらいは、子供の私にもわかる。
だから私も、知らないふりをしようと思った。
「んー……じゃあ、かるた」
「かるたって、百人一首?」
「うん」
「よし、じゃあ買いに行こう」
それに、かるたは結構本気で欲しかったから。
おもちゃ売り場には色々なおもちゃがあって、ちょっとだけわくわくした。
でも私はもう、そんなに子供じゃないし。
展示品のお人形さんを少し撫でて、通り過ぎる。
私が欲しかった百人一首のかるたは、有名なアニメキャラクターの絵が描いてあるかるたと一緒に並んで、すみっこに置いてあった。
「それも預かり所に送ってもらおうか?」
「大丈夫、自分で持つ」
なんとなく、これは自分で持っていたかった。
百人一首は学校で少し習っただけだったけど、あの時はこんな風にかるたを買ってもらって嬉しくなるだなんて、思いもしなかった。
思いもしなかったと言えば、家出をして、知らない人の家に住んでいる今の状況の方が、ずっと想像できなかったけど。
人生はいろいろだ。
ちょうど時間がお昼に近くなってきたので、お昼ごはんを食べることになった。
和風のソースと、普通のソースがかかったハンバーグのランチセットだ。
「おいしい?」
そう聞かれれば、普通においしい。
でも少し、物足りないような感じがする。
「うん。でもほしゆきさんが作ったハンバーグの方がおいしいよ」
「ん……? 僕、ハンバーグ作ったことないけど」
「あれ、そうだっけ?」
ああ、とそこで思い出した。
最初にほしゆきさんの家に来た時に食べたのは、冷凍食品のハンバーグだった。
あの時のおいしかった記憶と勘違いしたみたいだ。
「でも作ったら、きっとほしゆきさんの方がおいしいよ」
「そうかなあ。じゃあそのうち挑戦してみようかな」
ほしゆきさんは自分で気付いていないみたいだけど、料理の才能があると思う。
味付けがすごい、と思う。
なんて言えばいいのか難しいけど、こう、パズルをぴったり当てはめたみたいな……どこにも隙間のない感じの味付けをするのだ。
今食べているこのハンバーグはおいしいけど、味に隙間がたくさんある。
ほしゆきさんが作ると、そういう隙間が全然ない。
完全にしっくりくる。
これだ、って思う。
なんとなくの感覚で味付けしていると聞いて、それって天才だよと思ったけど、ほしゆきさんはいまいちそのすごさに気付いていないみたいだった。
本屋さんじゃなくて、料理人になればいいのにと思う。
お昼ごはんを食べた後はメガネ屋さんに行って、出来上がったメガネを受け取る。
可愛い方をかけたい気持ちをこらえて、黒縁の方にした。
目に見えるものの輪郭がキュッと引き締まった。
メガネを少し上にずらすと、下の方がまた見慣れた感じにぼやける。
なんだか不思議で面白い。
そうやってメガネを動かしていると、ほしゆきさんに笑われた。
ちょっと恥ずかしい。
それから家に帰り、晩ごはんを食べた後くらいに、トラがやってきた。
「トラ、手紙読んでくれた?」
「読んだから今来たんじゃろが。お、メガネ似合っとるな」
「えへへ、そう?」
「うむ、愛らしいぞ」
「これほしゆきさんが選んでくれたんだよ」
「それは良かったのう」
私がトラと小声で話していると、猫缶を開けたほしゆきさんがトラの方に近付いてきた。
「よしよしトラ、久しぶりに僕にも撫でさせてくれ」
トラはお皿にあけられた猫缶を手掴みで食べながら、ほしゆきさんに頭を撫でられている。
あっという間に食べ終わったトラは、ほしゆきさんの足にくっつくようにすり寄っていった。
「たまにはヒロノにもサービスせんとな」
そんなことを言いながら、トラはぺたんと床に転がる。
ほしゆきさんはトラをわしゃわしゃ撫でながら、お腹に手を伸ばした。
「あっ」
ほしゆきさんがトラのお腹を撫で回している。
トラはくすぐったそうに笑っている。
なんだか……モヤッとした。
ていうか、小さい女の子のお腹を撫で回しているほしゆきさんの姿は、ちょっと……いや、かなりやばいと思う。
はっきり言って、変態さんみたいだ。
「ほしゆきさんは、お腹触っちゃだめ」
私はトラの腕を引っ張って、スーッと床を滑らせて自分の腕の中に収めた。
あのままではお腹に顔を埋めそうな勢いだったからだ。
これ以上ほしゆきさんを変態さんにしてはいけない。
「え、なんで……?」
「撫でるなら、頭だけ」
「どうして……?」
「女の子だから」
ほしゆきさんにはトラが猫の姿に見えているというのは頭ではわかっていても、私には女の子の姿にしか見えないんだから、仕方がない。
「トラ……お腹は駄目なんじゃなかったの?」
「ヒロノとはもう数年の付き合いじゃぞ。いつも餌をくれとるんじゃから、感謝のお返しくらいせんと」
「小さい女の子のお腹を、大人の男の人が触るのは、見た目がもう無理」
「んなこと知らんわい」
「じゃあ私にもお腹触らせてよ」
「どういう理屈じゃ……しょうがないのう、ちょっとだけじゃぞ」
ちょっとだけトラのお腹を撫でさせてもらった。
柔らかくてふわふわしていた。
それから私は、ほしゆきさんがトラのお腹を撫でないようにガードしながら、トラと一緒にテレビを見たりしていた。
本当は買ってもらった百人一首をやってみたかったけど、猫が札を取るのはいくらなんでもおかしいと思われる気がして、それは明日にしようと思った。
ソファに敷いたマットレスパッドは少しはみ出てしまったけど、座り心地は最高だった。さすが高いだけある。
温かいトラを抱いて、ふにょふにょするマットレスパッドの上で寝転んでいるうちに、私の意識はいつの間にか遠のいていた。
夢と現実の間で、ぼんやりと遠くから、ほしゆきさんがトラと話している声が聞こえてきたような気がした。
……なんだ、やっぱりほしゆきさんも、トラと話せるんじゃん。
そんなことを思いながら、私は幸せな眠りに落ちていくのだった。
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