第11話 広野星行
「……理子ちゃん、ベッド欲しくない?」
寝具売り場で、僕はフカフカのマットレスをじっと見つめながら言った。
百合香ちゃんをいつまでもソファで寝かせているのは、成長期の体には悪いのではないだろうか? と思ってしまったからだ。
「普通にあのソファで大丈夫だけど……」
「そう?」
百合香ちゃんはそう言うけど、しかしなあ……と悩む。
僕もあのソファでうたた寝したことはあるけど、長時間しっかり眠ったことはないから、体にどんな影響があるか分からない。
若いうちから腰痛持ちになったりしたら大変だし……
そんなことを考えていると、百合香ちゃんが僕の服を軽く引っ張った。
「それよりこういうやつの方がいい。足とかちょっと蒸れるから」
百合香ちゃんが指差していたのは、マットレスパッドという、ベッドの上に重ねて使う敷物だった。
革張りのソファに直接素肌が当たると汗が蒸れて気持ち悪いという感覚は、なるほど確かに、僕にも覚えがある。
これからの季節はどんどん暑くなっていくから、汗でかぶれるかもしれない。
そのマットレスパッドの厚みは五センチ程度で、触ってみると思っていたよりも弾力性があって、しっかりとした反発力を感じた。
商品の紹介を見てみると、どうやらヘチマの繊維のような構造をプラスチック的なもので作った中材が入っているらしい。
柔らかさと耐久性を兼ね備えていて、簡単にはへたれないようだ。
「これ、いいね。これにしようか」
本来はベッドのマットレスの上に敷くものだけど、これをソファの上に敷けば、固さも多少は軽減されていいかもしれない。
しかし百合香ちゃんの方を見ると、なぜか彼女は「本当に買うの……?」みたいな顔をしていた。いや、君がこれがいいって言ったんだけど。
まあ、結構いい品らしく、お値段もそれなりにするので、遠慮しようとしたのかもしれない。
ただ僕としては使うあてのない貯金がそれなりにあるから、こういう時に使わなければいつ使うのかという感じだ。
幼い頃、子供は遠慮するなと親戚のおじさんに言われたことを思い出す。
あの言葉を自分で言うような年齢になってしまったのだなとしみじみ思う。
その商品を購入する旨を店員さんに伝え、カードで支払いを済ませた。
しかし梱包されて少しコンパクトになっても、本来ベッドに敷くものだから、それなりに大きい。
この後これを抱えて店内をうろつくのは大変だな……と思っていると、どうやら買った商品を一時的に預かってくれるサービスがあるらしかった。
出口付近に預かり所があり、帰る時にそこで受け取る仕組みだ。
これなら荷物の重さに
よくできたシステムだ。
「他に何か欲しい物ある?」
「えー、でももう買ってもらったし……」
この言い方は、何か欲しい物があるということかな。
僕が半ば強引にマットレスパッドを買ったから、言い出しにくいのだろう。
ちょっと押し付けがましかったかなと、少し反省する。
ここは大人らしく、
「さっきのは僕が欲しかったやつ。ソファは僕も使うでしょ? だから次は理子ちゃんの欲しい物を買おう」
「んー……じゃあ、かるた」
「かるたって、百人一首?」
「うん」
「よし、じゃあ買いに行こう」
百合香ちゃんは今読んでいる漫画にずいぶん影響されているみたいだ。
僕もあの作品は好きだけど、自分でやってみようとは思わなかったな。
とりあえずおもちゃ売り場に行ってみると、カラフルな人形や知育玩具などが並ぶ売り場の片隅に、ボードゲームなどと一緒に置いてあった。
こういうの今でも普通に売ってるんだなと、謎の感動をしてしまう。
「それも預かり所に送ってもらおうか?」
「大丈夫、自分で持つ」
その気持はちょっとわかる。
僕も小さい頃、買ってもらったおもちゃは、ずっと自分で持っていたかった。
百合香ちゃんが時折見せるこういう子供らしい部分を意識する度に、愛おしい気持ちとノスタルジックな感情が同時に呼び起こされて、胸がいっぱいになる。
それから僕たちは、少し早いけど昼食にしようとフードコートに向かった。
ちらほらとお客さんが増え始めていたので、ハンバーグとステーキのお店で手早く注文してから座席を確保する。
注文してからそれほど経たないうちに、渡された端末が光って呼び出された。
僕は百合香ちゃんと同じ、ハンバーグのランチセットを持って席に戻った。
大きめのハンバーグ二つと付け合わせのコーン、申し訳程度のサラダにライス。
これで六百円は結構安いと思う。
「おいしい?」
「うん。でもほしゆきさんのご飯の方がおいしい」
「おっ……そっか」
急に不意打ちを食らって、僕は一瞬喉を詰まらせそうになった。
その言葉がお世辞じゃないことは、声のトーンでなんとなく分かる。
食事に集中しているせいか、おじさんって呼ぶのも忘れてるし。
うーん、素直に嬉しい。
自分が作った料理をおいしいって言ってもらえると、こんなに嬉しいんだな。
……昔の僕は料理を作ってくれた両親に、何回おいしいって言えただろうか。
百合香ちゃんと一緒にいると、今まで考えもしなかったことに気付かされる。
食事を終えると丁度いい時間だったのでメガネショップに戻り、出来上がっていたメガネを受け取った。
百合香ちゃんは自分で選んだ黒縁のメガネをかけて帰ることにしたらしい。
見え方の違いが面白いのか、メガネをクイクイと上下させているのが可愛かった。
出口の近くでマットレスパッドを受け取ってタクシーに乗り、帰途につく。
予定より大荷物になってしまったけど、これを持って長々と歩いたり電車に乗ったりする必要がないのはありがたい。
家の中に入るとようやく緊張感が解けた。
自分ではあまり気にしていないつもりだったのに、無意識のうちに周囲を警戒していたらしい。
まあ、警察に声をかけられたらその時点で色々終るから……気を張るのは無駄ではなかったということにしておこう。
夜になると、数日ぶりにトラがやってきた。
「トラ、手紙読んでくれた?」
百合香ちゃんが色々と話しかけるたびに、トラは変な声で返事をするように鳴いている。まるで本当に会話しているみたいで面白い。
そういえば出掛けに百合香ちゃんが玄関の扉に挟んでいた手紙が、帰ってきた時にはなくなっていたけど……たぶん風で飛ばされたとか、そんなところだろう。
「よしよしトラ、久しぶりに僕にも撫でさせてくれ」
わしゃわしゃと頭を撫でてやると、トラもこちらに体を擦り寄せてきた。
なんだかんだで付き合いは僕の方が長いからな。トラも
頭から背中、尻尾の付け根と順番に撫でていき、ごろんと床に転がったトラのお腹を撫でていると、百合香ちゃんから妙な視線を感じた。
なんだろう……今まで見たことがないような、刺すように冷たいこの視線は……
そう思っていると、突然ぐいっとトラを持っていかれてしまった。
「ほしゆきさんは、お腹触っちゃだめ」
「え、なんで……?」
行き場を失った僕の両手が、虚しく宙をさまよう。
「撫でるなら、頭だけ」
「どうして……?」
「女の子だから」
まあトラがメスなのは知ってるけど……
もしかして百合香ちゃん、トラを僕に取られると思って嫉妬しているとか?
だとすれば、思っていた以上に二人は仲良しになっていたということか。
ギュッとトラを抱き抱えた百合香ちゃんは、僕から少し距離を取りながら、小声で何かトラに話しかけている。
でかい猫が小学生の女の子に引きずられるみたいな形になっているのは、かなりシュールで可愛いけど。
猫を思う存分撫でられないのは寂しい。
……まあ、百合香ちゃんが見ていない時に撫でればいいか。
それからトラは夜遅くまで家にいた。
いつもは猫缶を食べてちょっとしたらすぐ出ていってしまうのに、今夜は百合香ちゃんがなかなか離そうとしなかったからだ。
百合香ちゃんがうとうとと船を漕ぎ始めてようやく解放された頃には、心なしかトラも少し疲れているように見えた。
「お前も大変だな」
玄関の鍵を開けながら僕が言うと、トラはちらっとこちらを見てニャアと鳴いた。
「これからも懲りずに百合香ちゃんと仲良くしてやってくれよ」
ンナウ、と鳴き声。
猫は人間の言葉を理解している、なんてジョークも、ちょっとだけ信じてしまいそうになる。
だから僕は少しだけ、誰にも言えないことを口に出してみたくなった。
「本来頼るべき味方であるはずの親が、自分に危害を加えてくるような敵になるっていうのは、どういう気持ちなんだろうなあ」
幸い僕が生まれ育った家庭は少し裕福なだけの、ごく平凡なものだった。
両親はやや放任主義みたいなところもあって、そのおかげで僕は自由に生きてこれたと思っている。
だから僕には、百合香ちゃんの痛みや苦しみを理解してあげることができない。
「あの子はたぶん、見えないだけで、すごく傷ついているんだと思う。残念ながらそれを癒せるのは、僕じゃないんだよな」
僕にできることは、人として最低限の生活環境を整えてあげることだけ。
それにしたって、十分にできているかと言われれば、まだ怪しい部分もある。
自分の無力さを痛感するというのは、いくつになってもつらいものだ。
「トラ、お前だけだよ、きっと。本当にあの子の心を癒せるのは」
時間と、ふわふわした柔らかい生き物だけが埋められるひび割れが、きっとある。
「僕も猫だったら良かったのにな」
そんな長々とした僕の独白を最後まで聞いてくれたトラは、つまらなそうにフンと鼻を鳴らすと、玄関の隙間に身をねじ込んで、ぬるりと夜の闇の中に消えていった。
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