第9話 岸辺百合香

 ダンボール箱に入っていた漫画を全部読み終わると、ほしゆきさんは次の箱を出してくれた。

 新しい漫画はそれまで読んでいたものと違って、女の子が主人公だ。

 最初はごろんとソファに寝っ転がって読んでいたけど、そのうち、ちゃんと座って読むようになった。


 ……面白い。


 それは、かるたがメインテーマのお話だった。

 百人一首なんて国語の授業でちょっとやったような気がするくらいで、今まで興味もなかったはずなのに。

 読んでいくうちにどんどん引き込まれていって、いつものようにトラが帰った後も、薄暗くなってほしゆきさんが帰ってきてからも、ずっと読んでいた。


「百合香ちゃん、ひょっとして……目悪い?」


 夕飯の後も黙々と漫画を読んでいると、急にほしゆきさんからそう言われた。

 自分が話しかけられているということは頭では分かっていたのに、意識が漫画にへばりついたみたいに粘って、なかなか動かない。

 どうにかそれを引き剥がしてほしゆきさんの方を見ると、私を見るその目は苦笑いしているようだった。


「いや、漫画読んでる時さ、顔が近いから。見えにくいのかなって」

「そういえば……」


 そうかもしれない。

 薄々そんな気はしていた。

 でも悪いと言うほど悪くはないと思う。

 漫画だって普通に読めてるし。


 私がそう言うと、ほしゆきさんは台所から色々なものを持ってきて並べ始めた。


「左端のやつ、読める?」

「……ドレッシング」

「青じそドレッシングね。じゃあその隣は?」

「わかんない……」

「まあ甜麺醤テンメンジャンは普通に読めないか……」

「見えてても読めないやつじゃん。ほしゆきさんずるい」

「ごめんごめん」


 それから距離を離したり近づけたりして、文字が読めるかどうか確認された。

 物は普通に見えるから意識していなかったけど、文字は結構ぐちゃっとなって読めないことに、この時初めて気がついた。


「これは……メガネ作ったほうがいいかもね」

「えー」


 メガネなんて、考えたこともなかった。

 別に必要ないと思うんだけど。


「漫画読んでてさ、やたらと目が疲れない?」

「あー、疲れるかも」


 確かに、漫画を一冊読み終わると、目がしょぼしょぼになる。

 ちょっと目を閉じて休もうかなと思っても、結局続きが気になって次の巻を読み始めちゃうんだけど。


「本読んだりテレビ見たりする時だけメガネかければ、かなり読みやすくなると思うし、目も少しは楽になると思うよ」

「じゃあ……作る」


 そんなこんなで、急だけど、さっそく明日メガネを作りに行くことになった。

 そういえば、この家に来てから初めての外出だ。

 元の家でも学校に行かせてくれなかったから、家の中に閉じこもっていることにすっかり慣れてしまっていたけど、外に出るのは嫌いじゃない。

 目的のメガネはまあ、ほしゆきさんがそこまで言うならって感じだったけど、二人でお買い物に行くのはちょっと楽しみだ。


「それじゃあ、とりあえずを決めようか」


 ほしゆきさんはしばらくスマホで色々やっていて、それが一区切りついたのか、急にそんなことを言い出した。


「設定?」

「一応、僕が百合香ちゃんを預かっていることが警察にバレると困るっていうのはわかるよね?」

「うん」


 警察にバレたら、私は家に連れ戻される。

 だから明日の外出も、バレないようにこっそり行こうということらしかった。


「まずは僕と百合香ちゃんの関係だけど、叔父おじめいで行こうと思う」

「おじさん?」

「うっ……そう、百合香ちゃんは僕の兄の娘ってことにするから、僕のことは叔父さんって呼んで」

「おじさん」

「ぐっ」


 なんでかわからないけど、私が「おじさん」って言うたびにほしゆきさんは悲しそうな声を出す。

 別におじさんには見えないんだけどな。


「ほしゆきさん、まだ若いと思うよ」

「あ、ありがと……それで、百合香ちゃんの方だけど、偽名を使おう」

「ぎめい」

「本当じゃない名前ね。外にいるときだけ、百合香ちゃんはその名前になる」

「どんな名前?」

「百合香ちゃんだから、ゆりちゃん……は安直か」

「学校の友だちにそう呼ばれてた」

「そっか。リカちゃん……だと人形っぽいな。ちょっと捻って理子ちゃんとか」

「りこちゃん?」

「理科の理に子供の子で、賢い子って感じの意味かな。百合香ちゃんにぴったりだと思う」

「おおー……」


 理子。私の新しい名前。

 なんだか不思議な気持ちだ。

 そわそわするような、別人になったみたいな、自由な気持ち。

 今の自分とは違う、もう一人の自分を作るのって、なんだかワクワクする。


「名字は……広野でいいか。広野理子ちゃんだ。漢字も書きやすいね」

「わたし、広野理子」

「そうそう。外に出る時だけね」

「理子って呼んで」

「理子ちゃん」

「むふー」


 楽しい。

 違う自分になるの、面白い。

 私はノートに新しい自分の名前を何度も書いて、すぐに覚えた。


 ほしゆきさんはそれから、届いた日に一通りファッションショーをやったきりだった私の洋服を持ってきて、明日着るものを選んでいた。

 帽子が入っているコーデに、マスクをつけるのがいいらしい。

 ほしゆきさん、子供用のマスクなんていつ買っていたんだろう。

 外出する時のために、前から考えてくれていたのかもしれない。さすが大人だ。


 変装して、名前を変えて、警察に見つからないようにこっそりお買い物に行く。

 なんだか冒険みたいで、明日が待ちきれないくらい楽しみになってきた。


 次の日、ちょっと寝不足気味だけど急いで準備をして、早めに家を出る。

 他のお客さんが増える前の開店直後くらいに行きたいからだって、ほしゆきさんは言っていた。


 玄関を出たところで、私は大事なことに気がついた。

 今日のお出かけは急に決まったから、トラは知らないんだった。

 お昼頃までに帰ってこれればいいけど、遅くなったら、トラは私がいないことを心配するかもしれない。

 どうしよう、と考えて、お手紙を置いていくことにした。


『トラへ。買い物に行ってきます。夜にまた来てね』


 ノートの切れ端に書いたお手紙を折り畳んで、扉のちょっと低い位置の隙間に挟んでおいた。

 これならすぐに気がつくだろう。


「百合香ちゃん、それは?」

「お手紙。今日お出かけするって、トラに言ってなかったから」

「……なるほど」


 ほしゆきさんにとってはトラはただの猫だから、きっと私がしていることを変に思うだろうな。

 そう思っていたんだけど、ほしゆきさんは特に何も言わず、微妙に優しいような目で私を見ているだけだった。

 なんだか、誤解されている気がする。

 でもそれを訂正することもできないので、私はその生温かい感じの視線を黙って受け入れておくことにした。

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