第3話 岸辺百合香

 顔や体を洗い終わった私は、お風呂場から出てバスタオルで体を拭き、用意されていたTシャツを着てスウェットパンツを履いた。

 足の先が出ないくらいブカブカだったので、足首のあたりまですそを捲る。

 ドライヤーはなさそうだったから、髪が乾くまでバスタオルを肩に羽織っておくことにした。


 洗面所から出ると、料理の支度をしていたらしい男の人と目が合った。


「……」

「……?」


 なんだろう。食器を持った手を止めて、じっとこっちを見ている。

 よく分からないけど、なんだか悩んでいるみたいだ。


「絆創膏貼るから、手出して」

「あ、はい」


 どうやら私の怪我のことを気にしてくれていたらしい。

 やっぱりただのいい人……なのかな。


 救急箱を持ってきた男の人は、初めて見るような変な形をした絆創膏を、慎重な手つきで私の左手に貼ってくれた。

 ちょっと慎重すぎるというか、できるだけ私の手に触らないようにしている気がするけど……気のせいかな。


「一応、膝も見せてくれる?」


 小指と薬指にも絆創膏を貼ってくれた後、男の人は少しためらうように言った。

 膝にも怪我をしているの、見られてたんだ。

 でも、どうして怪我をしたのか、とかは聞いてこない。


 前の家出の時に声をかけてきたおばさんは、とにかく色々聞いてきた。それに正直に答えていたせいで私は家に連れ戻されることになった。だから今回は、できるだけ黙っていようと思っていた。

 この男の人にもさっきの裏道では色々聞かれたけど、私は何も答えなかった。

 その結果、今こうなっている。

 これで正解なのかどうかは分からない。

 でも、お互い名前すら知らないのは、なんと呼べばいいか分からなくて不便かもしれないなとは思った。


 「こっちは大丈夫か」


 男の人は私の膝をじっと見つめた後、そう言って立ち上がった。

 私も、今は特に痛くはないので、何もしなくても大丈夫だと思う。


「ご飯にしよう」


 台所の戸を開けた先の居間はとても広くて、綺麗に片付けられていた。

 というか、物が少ない。

 大きなソファとテーブル、テレビ、ゴミ箱、時計。それくらいしかない。

 デパートの家具売り場みたいだ。

 そんながらんとした部屋のテーブルの上にご飯が乗っているのは、なんだか少し不思議な感じがした。


「どうぞ、好きに食べちゃって」

「……いただきます」


 中華料理屋さんみたいな野菜炒めの匂いを嗅いだ途端、私はすごくお腹が空いていたことを思い出した。


 一昨日はお弁当ひとつとジュースだけ。

 昨日はパンふたつと公園の水。

 今日はパンひとつと公園の水。

 それだけしか口にしていない。

 ……ママが料理を作ってくれなくなったのは、いつからだったかな。


 久しぶりの温かいご飯は、びっくりするくらい美味しかった。

 夢中で食べていたせいで、いつの間にかテレビがついていたことにも気づかないくらいだった。


 食後に出してくれた水を飲みながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。

 自分でも不思議なくらい、リラックスしている。

 知らない人の家のはずなのに、なぜかスッと馴染んでしまうような。

 そんなことを考えながら、白い景色が多いテレビ画面を見ていると、まぶたが自然に落ちてきた。


 昨日はひどい場所で寝たからなあ。

 慣れないことの連続で、疲れがたまっているのが自分でもよくわかる。


 うとうとしている私を見た男の人から、歯を磨きなさいと言われた。

 なんだかパパみたいだ。


「今日はここで寝て。寒かったり暑かったりしたらエアコンの温度変えていいから」

「うん……」


 私が半分夢の中のような頭でソファに寝転ぶと、電気が消えた。

 全部夢だったらどうしよう、なんて少し思う。


「おやすみなさい……」

「ああ、おやすみ」


 もしかしたら、夢だった方がいいのかな。

 意識が途切れる瞬間、ふと何かを思い出しそうになったけど、すぐに消えた。

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