番外編 黎明の空 壱

 深い夜も終わりが近づきつつある。


 祝融と燼は向かいに座り、酒を飲み続けていた。

 静かに、静かに口に含んでは、何も語らない。

 辺りは、皆、酒に呑まれるか、疲れから眠りこける者達で埋まっていた。

 燼も、自身の膝を枕に眠る絮皐の頭を撫でながら、その目は愛おしく絮皐を包み込む。その表情が眠りながらも心地良さそうで、猫の様に擦り寄っている姿に優しく微笑む姿は、夫婦という形とは、異なる様相だ。

 そんな男を視界に捉えたからか、祝融の視線も自然と自身の肩に寄りかかる妻へと向いていた。うつらうつらと舟を漕いでいた姿は遠く、ぐっすりと眠っている。


 祝融は、皆を見渡すと再び燼を見た。

 初めて会った時の幼い少年は、何処にもいない。何も語らないが、決意ある姿がそこに座り、ただただ時間だけが過ぎ去っていた。

 

 そして、夜が明けた。


 ――

 ――

 ――


 皇宮 丞相府


 祝融は、静瑛と共に父がいるであろう丞相府へと向かった。

 行き慣れた丞相府だが、空気は重々しい。祝融と静瑛が前を通る度に、嫌な視線がチラつく。恭しく頭を下げる者もあるが、その下で腹の中では罵倒でもしているかの様に、動きはぎこちない。

 その内、下卑た笑いでも聞こえて来そうで、雰囲気は下劣極まりないと言える。それも、まだマシな状況だったのは、静瑛の姿がそこにあったからかもしれない。

 敵意は、目に見える程に増していた。


 そして、右丞相が執務室に辿り着くと、虚な目をした父親が、祝融を視界に捉える事は無かった。

 視界に入れないというよりは、見えていない、と言った方が正しい程に、右丞相桂枝の瞳には、息子の姿が映っていない。


「ああ、静瑛。ちょうど良かった話があったのだ」


 椅子を勧めると書類に目を通したまま、淡々と語り始める。このままでは、流されるだけと、勧められた椅子も無視して祝融が声を上げた。


「父上、我々も話があります」


 その声に、桂枝は漸く目を上げた。視界に捉えた祝融を見てか、その声が原因か、その顔は瞬く間に表情は崩れ、嫌悪を表している。


「最早、お前に用は無い。出ていけ」


 ああ、やはり。祝融は、既に覚悟を決めていた。これが、最後だと。

 その目は、嫌悪だけでなく敵意を宿している。祝融はその目に覚えがあった。一族中が、自分に向ける目。それと同じ目をした父が、目の前にいる。

 あれらと父は、同じになってしまったのだと。

 これが、最後の機会だった。それ以上に縋り付いた所で、何の意味も成さない事はよく知っているのもある。だから、これが最後だと、決めていたのだ。


「……わかりました」


 そう、祝融が踵を返すと、静瑛もそれに続こうとしたが、それを桂枝は引き留めた。


「静瑛、お前には話があると言った筈だ」


 祝融と目を合わせるも、祝融が小さく頷き静瑛は、退室した祝融を見届けると父に振り返っていた。

 再び勧められる椅子に座り、桂枝がその向かいに座ると、途端に静瑛がよく知る朗らかな父が現れた。あまりの人の変わり様に、戸惑うが、桂枝は何の気なしに話を始めるものだから、静瑛はただ混乱が生まれるだけだった。


「それで、話だが、お前を後継に指名しようと考えている」


 その話も又、突飛だった。それまで、桂枝は若い姿を保っていたものだから、後継などといった話が浮上した事はない。あくまで、親族間が誰が相応しいかなどの話が出るくらいだ。大抵その時に、静瑛も名が上がるが、文官としての経歴が無い為、名が浮上しては沈んでいくのだ。最後まで名が残るのは、従姉だ。滅多に顔は見ないが、補佐官として桂枝の傍で上手くやっていると聞く。

 いくらか、桂枝が老いを見せた事で、その話が現実味を増しただけだが、静瑛が指名される状況だけが、空想論を語っているのかと勘違いする程だった。


「待って下さい。芙蓉ふよう従姉君はどうされるのですか。それか、利閣りかく兄君は?」

「利閣は、残念だが私よりも先に老いて死ぬだろう。芙蓉は悪くは無いが、お前が今から学んでも遅くはないと考えている」


 今更の話では無かった。静瑛が、祝融と共に業魔討伐に名乗りを上げた時から、父には散々言われていた事だった。

 ゆくゆくは、お前を後継に指名する予定だからと、再三文官としての道に進む様には言われていたのだ。息子を想う気持ちと、息子二人が危険な仕事を請け負う事に揺れていた。

 祝融、静瑛共に優秀で、文の領域はどちらも最良の成績を残していた。

 それに比べると、他はどれも見劣りした。が、祝融を思えば、傍で弟が支えるべきという考えも、桂枝の中にはあったのだ。

 そう、確かに、息子を想う気持ちが確かにあった筈だ。それが残っていたならば、桂枝が静瑛を後継になどと言う筈が無い。


「本当に、変わって終われたのですね」


 静瑛が、小さくも零した言葉に桂枝は首を傾げた。


「何を言う、私は何も変わりはしない。流石に、禹姫と阿遜が立て続けで堪えたが、もう大丈夫だ」


 憂いた表情に、二人を偲んでいるのだろう。僅かに顔色は曇るも、それもすぐに戻る。


「そこでだな、お前を右長史に任命する。陛下からも既に承認は得ているから、明日からでも取り掛かってもらう」


 右丞相補佐を意味する役職に、考える間もなく強制的に任命が勧められている事に、流石に静瑛も黙ってはいられなかった。


「お待ち下さい!私には使命が……」

「……それがどうした。神に言葉を賜ったわけでもない。気にするな」


 何を言っている。

 父の姿は異常だった。神を蔑ろにし、信仰が消えつつある。


「……父上、それを我等が鳳凰神に向かって言えますか?」


 戸惑う静瑛に、桂枝は冷めた目を見せる。はあ、と溜息を吐いては気怠そうに肘をついている姿は、静瑛が今まで見た事の無い姿だった。

  

「静瑛、信じるに値せんよ。神意惑わされたからこそ、私の息子は、に殺されたのだ」


 あってはならない言葉だった。静瑛も、神意なるものを問うことはある。その意味を勘繰る事もある。時に疑い、時に嫌気も差すが、その存在が絶対だからこそ、静瑛は道を突き進んできたのだ。

 それを、今、父は全てを否定した。それも、呆気なく。

 父の中の悪意を見るべきか、それとも信仰心を疑うべきか、それとも、父に芽生えた何かを探るべきか。

 そんな静瑛の戸惑いを知らずか、桂枝の顔は、朗らかに息子を想う父の顔へと戻っていた。


 ――

 ――

 ――


 祝融は、右丞相の部屋を出た後、そのまま左丞相の執務室へ向かった。そして、今扉の向こうへと声を上げようとした時だった。背後から馴染みのない声を掛けられていた。


「祝融殿下、御機嫌麗しゅうございます」


 真っ当な挨拶が、これ程嫌味に聞こえる事も無いだろう。祝融が相手に振り返ると、見慣れない青髪の文官が背後で恭しくも頭を下げていた。

 男は、蘭と名乗った。聞けば、左丞相の側近の一人だという。


「左丞相は本日登城されておりません」

「……そうか」

「ですので、私がご案内する様に仰せつかっております」

「待ってくれ、左丞相は俺が今日ここに来ると?」

「此処に殿下がきた場合、ご案内する様にと」


 相変わらず抜け目の無い男だ。祝融も、そこだけは見習わねばと感心する。


「では、殿下。行きましょう」

「待ってくれ、静瑛が……」

「静瑛殿下は、別の者が伝えます。ささ、こちらへ」


 蘭側近は、その青髪を揺らしながら、祝融を馬車へと乗せた。蘭側近も同時に乗り込むと、馬車は揺れ始めた。何処に向かうかは、聞いていない。

 馬車に乗る間、蘭側近はニコニコと笑顔を絶やさないが、何も話はしなかった。


 そして、馬車を走らせ辿り着いた先は、風家邸だった。特に隠す場所でも驚く場所でも無い。


「あ、もしかして変な所連れてかれるとか思いました?」


 本当に皇孫を相手にしていると思っているのだろうか。不遜とも捉えられる態度に、祝融は蘭を無言で見つめた。


「嫌だなぁ、そんなに睨まないで下さいよ」


 ちょっと雰囲気作ってみただけじゃ無いですか。と、ちゃらけた拍子を続ける。その雰囲気に引っかかってしまった事が、祝融を一番腹立たせていた。

 流石に、それ以上は続ける気は無いらしく、口に手を当て咳払いをすると、その顔は真剣そのものへと変貌する。漸く文官宛らの顔を見せた蘭側近に続き、祝融は久方振りに訪れた風家邸を見回しながら、屋敷の中へと参じていった。

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