第10話

 その翌日、アダレイは、あの人がどこからか食べ物を持ってきてくれるから心配はいらないと言いました。でも不思議なの、あの人は眠る様子も食べる様子もない、あの人も人ではない、とも言いました。

 アダレイが村から姿を期したことは、誰も気にしていないようでした。どこかへ逃げたと思われたのでしょう。伯父さんは、アダレイが自分の芋を盗んだために殺されたと本気で思い込んでいたのかもしれません。一度、泣き顔でさまよっているところを見ましたが、後悔していたとしても、アダレイの居場所を教えてやる気にはなりませんでした。

 それよりも気になったのは、子供はみんな一人では出歩かないようにとお達しがあったことでした。それに、遊ぶ時は広場で、林の中には入らないようにとも母から言われました。村長が緊急集会を開き、しっかり子供たちに言い聞かせるようにと、子供を持つ大人たちに指示したようです。さらにわたしは、タリアと小屋に行く時は、タリアを家に迎えに行くようにとも言われました。

 わたしはそのわけを母に尋ねましたが、わからないと言われました。危険な動物が出たのならすぐに話が広まるはずだし、わたしの村は幸いにも、害獣の被害には遭いにくい地域で、熊が出たこともありません。

 わけは教えられないけれどとにかく気をつけろと言われて、気をつける人は少数派でしょう。わたしたち子供は、不安はどこか心の中に持ちつつも、普段通りに過ごして、林の中にも普通に入っていました。

 ある日、言いつけられた畑の水やりを終えた時には、日が暮れかかっていました。確か、水桶が壊れていたかなにかで、いつもより時間がかかってしまったんです。

 一緒に作業していた友達は先に帰ってしまっていたので、わたしは一人で家路を急ぎました。その時、林の中から出てきた村人と鉢合わせました。

 その人は、体が弱く、家で臥せっていることが多い若者でした。以前、母とわたしの前で近所の人がその人の噂をしていたことがあります。遠回しに、しかしはっきりと、その若者のことを役立たずだと罵った人の話を聞いたあと、家に帰って母は言いました。

「働けない人は役立たずじゃないよ。どんな人にも、生まれてきた意味があって、必要な存在なんだよ」

 生まれてきた意味ってなに?とわたしが尋ねると、母は続けました。

「偉い人も、ネズミ一匹もみんな、宇宙を進めるために生まれてきたんだよ。畑仕事ができない人も、普通の人には見えないだけで、みんなとは違う方法で働いてるの。だから、みんなに優しくしなくちゃいけないんだよ」

 わたしは、「伯父さんにも優しくしなくちゃいけないの?」と尋ねました。

「そうだよ。でも、優しさが返ってこなかったら、我慢してたくさん優しくする必要はない。でも、その人が生きるのを邪魔しちゃいけないよ。どんな人であってもね」

 母の話はその時のわたしには難しかったですが、言葉は心に留め置きました。

 その人と遭遇した時、その話を思い出したわけです。その人は、散歩しているところに出くわしたことはありますが、挨拶以外の言葉は交わしたことはなかったので、その人から連想することといえば、母のその話しかなかったのです。

 その若者は、わたしと目を合わせながら、ふらふらとこちらへ歩いてきました。その様子が普通ではなかったので、わたしは足をとめました。

「助けて」

 と彼は言いました。その目はわたしを見ていましたが、両目がそれぞれ、ふうっと別々のほうを向きそうになっては、再びわたしに戻りました。わたしは恐怖を堪えて「どうしたの?」と尋ねると、彼は自分が出てきた林のほうを指差し、「助けて」と繰り返すと、ふらふらと歩いていってしまいました。

 わたしはほっとしました。薄暗い林の中より、彼のことのほうがこわかったからです。

 気になって林の中に入ってみると、かすかにすすり泣く声が聞こえてきて、その声のほうへ向かうと、わたしよりいくつか年下の女の子が木の根元に倒れていました。

 走って大人を呼んできて、女の子の無事が確認されると、村長から質問をされ、わたしは正直に答えました。林から出てきた若者と会ったこと、「助けて」と言われたこと。

 わたしは褒められて家に帰されましたが、その夜はなかなか寝つけませんでした。怪我をした女の子を見たことより、あの若者の様子が頭から離れなくて。

 父も母ももう寝ついたと思ったのですが、かすかに両親の部屋から物音が聞こえるような気もしました。わたしは耳をそばだてればいいのか、耳を塞げばいいのかわからず、ただカーテンを開けて、窓から夜の闇へ目を凝らしました。そうすれば気がまぎれると思ったのか、なぜか引き寄せられるように、月明かりに照らされた裏道を見ていました。

 時間の感覚もなくなってきた頃、道の向こうから、細長い人影がしっかりとした足取りで歩いてくるのが見えました。

 それは、あの小屋の人でした。小屋の外で彼女を見たのはそれが初めてです。わたしは驚きましたが、不安な夜に見知った顔、といっても、黒の中に銀色の目が浮かんでいるように見えたのですが、そんな姿にもわたしはどこかほっとして、窓ガラスを軽く叩いて彼女の注意を引きました。

 十メートルほど離れた道を歩いてくる彼女は、すぐにわたしに気づいたようで、わたしに手を振りました。その手が濡れたように光ったのを憶えています。月明かりの道から、照明をなにもつけていない暗い室内がどうして見えたのかと今なら思いますが、その時は目がいいんだとしか思いませんでした。

 わたしは手を振り返し、小屋がある方角へ歩いていく彼女の後ろ姿を見送りました。白いワンピースは闇に浮かび上がるようで、髪と顔、黒っぽい絵に覆われた腕は闇に溶けるようでした。先ほどわたしに振った右手は指が開かれて自然に下されていて、左手はなにかを握っているように指が閉じられていました。

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