その熱が憎い

天宮さくら

その熱が憎い

 デパートを出ると外は吹雪だった。道路には雪がうっすらと積もり始め、遠くの視界は白く濁っている。天気予報では雪が降り始めるのは夜中だと説明していた。それなのに既にこんな天気になっている。現実を目の前にして、私は酷く裏切られた気持ちにさせられた。

 けれどこのまま長時間、デパートの入り口で立ち止まるのは嫌だ。コートの襟元を握りしめ、吹雪の中に一歩踏み出す。歩き始めてすぐに鼻先が痛み始めたけれど、どうすることもできない。寒さに震えつつ、感情を殺して黙々と歩いた。

 今日はバレンタインデー。好きな相手や感謝している人たちにチョコレートを配るイベントの日。だから普段は近寄らないデパートにわざわざやって来た。

 デパートで相手に送るチョコレートを買う。恋している女性なら誰でも一度はしたことのある行動をしているに過ぎない。

 行ってみると、デパートのチョコレート売り場はかんさんとしていた。当然だろう、デパートがかき集めた素晴らしいチョコレートのほとんどは完売していたのだから。

 本命に渡す特別なチョコレートを手に入れたいと願うのなら、バレンタイン当日に買いに来てはいけない。一番良いものを買いたいのならチョコレートの販売ブースが作られた後すぐに行動すべきだ。そうしなくては競争には勝てない。そのことは何度も買いに来たことがあるから理解していた。けれど、当日になるまでどうしても買いに行こうという気持ちになれなかった。

 私は彼との関係を解消するかどうかを悩んでいる。



 彼と出会った場所は職場だった。彼は私よりも八歳年上。ほがらかで温かみのある人柄。親しみやすく、普段の立ち居振る舞いが紳士的に思えた。いいなと思っていたら彼が反応し、次第に深い関係へと発展した。

 彼が妻帯者だと知ったのはひと通り体験し終わった後だった。

 既婚者と関係を持ったことに対する不安。彼が私だけのものにならない苛立ち。見抜けなかった情けなさ。そういった感情が入り混じり、途方に暮れた。

 そんな時、彼が口にした言葉は私を吹雪に放り込むようなものだった。

「妻とは別れようと思っているんだ」

 恋愛ドラマでよく聞く不倫男の最低な言葉。テレビで観た時は信じるに値しない言葉だと思っていたのに、彼が口にしたことで私はどうしようもなく動揺した。

 ──本当に彼は妻と別れてくれるのだろうか?

 彼を信じるべきなのか、それとも諦めるべきなのか。揺れ動く感情を振り払うことができず、流されるようにして関係を続けた。続けている間に過ごした時間で彼の家庭環境が垣間見え始めた。

 彼の妻は仕事好き。家の雑事を片付けるよりも外で活躍するのを好んでいる。食事は基本、外食か冷食。時々宅配。

 アットホームな家庭を望んでいる彼からしたら理想とはかけ離れた家庭だった。

「来年にはきちんとケリをつけるから」

 その言葉を信じて、五年経った。



 玄関の鍵は私が開けるよりも先に開いていた。中からはシャワーの音がする。突然の吹雪で体が冷え切ってしまい、とりあえず風呂に入ることにしたのだろう。

 彼が来ているのだ。

 何も言わずに中へと入る。玄関には彼の靴が無造作に転がっていた。それを直し、コートについた雪を払う。けれど手で触れたところから雪は水滴に変化し、指先が冷えるばかりで綺麗にはなれなかった。

 諦めて部屋に上がり室内を見回す。エアコンは稼働し、カーテンは仕切られたまま。机には彼が買ってきたであろうワインのボトルが一本置いてあった。それを見ながら私は冷え切った体が温まるのを待つ。けれどエアコンの空気は表面を撫でるばかりで少しも温まらない。

 女の一人暮らしには少し広すぎる部屋の中心で、私は彼との関係を考える。

 彼との逢瀬のために、私は自分の人生をコントロールしてきた。その証拠がこの部屋だと思う。

 彼が妻帯者だと知り、私は気持ちを切り替えるために引っ越しをした。職場からは少し離れた場所を探し、知り合いがいなさそうな所を選んだ。部屋は二人で住むには少し手狭で、一人だと寂しく感じるサイズにした。

 ひとはばかる関係。初めはそれがむなしかったけれど、いつか一緒になれる。そのための試練だというのなら我慢しよう。

 そう心に決めて、私は彼が訪ねてくる日を心待ちにした。

 初めの一年は、彼の来る日が楽しみで仕方なかった。二年目から心の底に何かが沈殿してきて、今では濁って重苦しくなった。

 ──もう終わりにしたい。

 気がつけばそのことばかりを考えるようになっていた。一人で家にこもっている時は特に酷く、精神的に病んでいるのではないかと自分自身を疑うほどだった。

 今年で三十歳。知り合いの大半は結婚にたどり着いている。それなのに私はいまだに浮気相手。そこから何も変われていない。その事実が将来に暗い影を落とし続けている。

 彼は妻と離婚をするつもりがないようだ。

 最近、ようやくその事実と向き合うようになってきた。

 私はコートを脱ぎ、手に持っていたバレンタインのチョコレートを袋から取り出す。ピンク色にラッピングされた、少し安っぽく見えるしろもの。中身は一応全国チェーンのちゃんとしたものだけど、それ以上の付加価値は何もない。

 ──まるで私みたい。

 チョコレートを見ながらそんな自嘲をしてしまう。

「おかえり。ごめん、シャワー借りたよ」

 振り返るとそこに彼がいた。バスタオルで髪を拭いている。彼は私の家に来れば必ずお風呂に入るから、どこに何があるのかを把握している。私がいてもいなくても、彼はこの家で時間を潰すことに苦労はしない。

 手に持っているチョコレートを渡すかどうか、一瞬躊躇する。

 私はこのチョコレートで将来を決めようと考えていた。

 ──彼が喜んでくれたのなら、あと一年、彼と付き合う。妻と離婚し、私と結婚してくれると信じてみる。けれど、彼が少しでも嫌な素振りを見せたのなら、別れを切り出す。これで終わりにする。

 そう心に決めて、わざと安っぽく見えるチョコレートを購入した。けれど賭けに勝ちたい気持ちもあるから、わざわざデパートまで足を伸ばした。

 どちらに転んでも後悔がないようにしたかった。

 彼は私が差し出すよりも早く、チョコレートの存在に気づいた。

「バレンタイン?」

 穏やかに笑う彼を私は無意識に睨みつけてしまう。そして少しだけ唇を噛んだ。

 ──どうかその笑顔で私をまどわせないで欲しい。別れる決心がにぶってしまう。すがりつきたくなってしまう。

「毎年ありがとう」

 彼がそっと私を抱き寄せた。冷えた体が彼の熱で溶けていく。我慢できずに彼の背中に手を伸ばす。

 ──ああ、憎い。

 深く口づけを交わしながら、私は手に持っていたチョコレートを床に落とした。そして無心になってひたすらに、彼の熱を深いところで感じた。

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