EP13.瀬名くんと新島くん

 空港まで向かうバスに乗るため早朝に集まった生徒の数を各クラスの学級委員が確認する。私は女子の数。セナくんは男子の数。みんなが揃っていることを確認してそれをセナくんに伝えれば、彼はそれを滝川先生に伝えた。


「みんな体調崩さずに参加できて良かったね」


 爽やかにそう言った今日のセナくんは、カミングアウトする前の瀬名くんの姿をしていた。と言っても、ボサボサの髪が顔の上部を覆っているだけ。瓶底眼鏡でもなければ、大袈裟な猫背でもない。それでも彼の魅力的な瞳が隠れていることは大きかった。


「今日はセットしてないの?髪」

「ん?あぁ、これ?先生に頼まれてさー」


 先生は修学旅行先で騒ぎに巻き込まれることを危惧して頼んだのだろう。「僕も落ち着いて参加したいしね」と、苦笑いしながら掻き上げた前髪の隙間からセナくんの黒々とした瞳が覗く。まん丸な瞳はどこまでも純粋そうなのに、それが意味ありげに細まれば、途端に蠱惑的に私を誘う。ドキドキとして直視できない私をよそに、セナくんは「自由時間、一緒に回ろうね」と朗らかな声を出した。


 


 バスの座席は、私が紗良と仲違いする前に選んだので当然に隣同士だ。そんな紗良に同情したのか、一番後ろの席を陣取っている日村さんグループが「補助席余ってるよ」と紗良を呼び寄せた。その誘いを断る理由がないどころか、渡りに船だというように紗良はそちらへ向かう。私は空港までの道のりを一人で過ごすことになるが、それは一向に構わなかった。

 だって私、悪いことなんてしてないし。信憑性のない噂話に振り回されて、勝手に嫉妬して、勝手に怒ってるのは紗良を含めた日村さんたちだ。そんな自分勝手な人たちに媚びたくないし、心を痛めたくない。堂々としていることこそが、最大の仕返しだと思った。


「あれ、もしかして沙耶香ちゃんの隣空いてる?」


 ゾロゾロとみんなが席に着いていく中、私の横で止まったセナくんがそう言いながら徐に隣の席に腰を下ろす。


「セナくんは新島くんの隣じゃないの?」

「違うよ?僕も一人席だったから……横に座っててもいいよね?」


 そうか、座席を決めたのはセナくんが"モデルのセナ"だと公表する前だ。基本的に一人行動だった瀬名くんの横に座る人はいなかったようであった。


 みんなが座ったことを確認して、バスが発車する。楽しみにしていた修学旅行の始まりにはしゃぐ声をBGMに、私は窓の外を眺めていた。


「楽しみだね」

「!!……セナくんっ、」

「ん?」


 何も分かっていないような表情を浮かべたセナくんが、態とらしく小首を傾げる。私は何も、ボーッとしていたところに突然声をかけられたから驚いたわけではない。セナくんの指が私の指を絡め取り、唆すようにやわやわと指の間を刺激しだしたから。それだけに止まらず、制服のスカートを僅かに捲り、その中に隠された太ももを柔い力で触り始めたからだ。


「や、なにっ、」


 何を考えてるの?、と咎める言葉をつい引っ込めてしまう。それは久しぶりの恋人らしい触れ合いが素直に嬉しかったから。ここが修学旅行中のバスの中で、セナくんの行為がどれだけ常識から外れていても、私は心嬉しい気持ちを誤魔化すことができなかった。


「北海道行くのって初めて?」

「っ、小学生のときにっ、いっかい、」

「じゃあ久しぶりだねー」

「……、っあ、セナく、ん」

「んー?僕はこの前撮影で行ったよ?」


 違う、そうじゃない。それにそのことは知っている。そうじゃなくて!私は下着の表面を上下するこの指を止めてほしいの。

 いつ間にか太ももに飽きて、もっと直接的な性感帯を刺激するその手を制止の願いを込めて握れば、セナくんは「濡れてるのに?」と耳打ちをした。わざわざ言われなくても分かっている事実をハッキリと指摘され、羞恥心がこれでもかと高まる。


「ずっと沙耶香ちゃんに触れたかった」「我慢してたんだよ?」「伊織のことばっかり構ってて寂しかった」「もしかして伊織のこと好きになった?」「ダメだよ、沙耶香ちゃんの心も体も僕のものなんだから」


 ついに下着の中に指が侵入してきた。その間も私の耳元で、セナくんは一方的に言葉を並べる。くちゅり、と水音が聞こえたのは気のせいだと思いたい。ワイワイと騒がしい車内で、私たちだけが異様な雰囲気を纏っている。

 恥ずかしい、消えたい。こんなはしたないこと今すぐ止めてほしい。クラスメイトや先生がいる中で、こんなこと間違ってる。非常識だ。最低。最悪。

 ツラツラと責める言葉は頭に浮かぶのに、それでも私の心を支配しているのは"嬉しい"ただそれだけ。セナくん、私のことまだ好きなんだ。こんな風に善悪の区別がつかなくなるぐらい、私に夢中なんだ。もっと激しく求めてほしい。みんなの前でもう一度、「この子は僕のもので、僕はこの子のもの」だと宣言してほしい。


「……っ、……」

「イキたいね、けどこんなゆっくりで弱い刺激じゃイけないね」


 愉しそうな軽い声と共に吐息が耳にかかる。思わず顎が上がり、背中を反らせて、快感を受け入る体勢を整えてしまう。そんな私を見て、セナくんはさらに愉しそうに肩を震わせた。


「ほんとかわい。僕の愛しい子」


 指を引き抜いて、私に見せつけるようにそれをペロリと舐めたセナくん。今ここが修学旅行中のバスの中だという事実に愕然とした。今すぐセナくんの部屋で思いっ切りセックスしなければいけない。そうしなければ、私の道徳心全てが消え去ってしまう予感がした。





 降り立てばそこは雪が薄っすらと積もっていた。これでも最近は少雪になっているというのだから驚いてしまう。私たちが住んでいる地域は滅多に雪が降らない。降っても積もるか積もらないか、雨か雪か判断がつきづらい、そんな程度だ。 

 みんな口々に「寒い〜」と訴えている。アウターの前をきっちりと閉めて、女子たちなんかは少しでも暖を取ろうと仲の良い子同士で体を寄せ合っていた。そんな光景を横目で見ていた私に「うらやましいの?」と声をかけてきたのは、思った通り新島くんだ。


「なにが?」

「いや〜、ここんとこ完全にハブられてんじゃん?」


 随分と嫌味なことを言う男だ。そもそもの原因は誰にあると思っているんだろう。

 

「新島くんが誤解を解いて、私に近づかなかったらすぐに解決するんだけど?」

「あっはっはー、残念、それは無理だわ〜」


 新島くんと話していると、割と大抵のことが馬鹿らしく、どうでもいいようなことに思えてくる。軽薄な彼はある種楽観的で、何事にも動じない精神力を持っていた。周りの目を気にせず自由気ままに振る舞う彼のことを羨ましく思っていたし、当初は嫌気が差していたそんな性格を彼の魅力だと捉えるほどに嫌悪感は無くなっていた。だからこそ、紗良にあんな誤解をされてしまったんだけれど。





 修学旅行はスケジュール通りに滞りなく進んだ。展望台から眺めた景色、伝統芸能鑑賞に工場見学、間近で観察した動物たち。どれも興味深く、とても楽しかったし、貴重な経験だった。ただやはりその感情を共有できる友達がいないこと、それが辛く惨めであった。

 セナくんは人前であからさまにベタベタしてこない。あのバス内での奇行こそ彼の本性なのだろうが、セナくんはその異常な本質を隠すことに長けていた。みんなしてセナくんのことを聖人君子だとでも思っているみたいな扱いをする。そんなセナくんが時折見せる私への特別扱いや独占欲は破壊力が凄まじく、それは周りを巻き込んでやっかみの感情を増幅させる力があった。そこにベタベタと私について回る新島くんの存在がプラスされ、彼女たちの妬み嫉みの感情をさらに刺激する。しかも修学旅行中はクラス行動が主なので、普段の学校生活よりもそれが鼻につく。そうなれば、女子たちに爪弾きされることは至極当然の流れだと思えた。


「ねぇ、あなたたちがやってることって立派なイジメだよ?」


 しかし私はそれを甘んじて受け入れ、耐えることが正しいと思わない。いずれ誤解は解け打ち解けられると期待していた。だけどいつまで経っても関係は改善されない。それどころかこの修学旅行期間でさらに溝が深くなった。彼女たちの良心が芽生えることを待っている時間が馬鹿らしい。


「……どこが?」


 和気藹々と明日の自由行動の行き先を話していたところに、突然冷や水を浴びせられたわけだ。不機嫌に顔を歪めた紗良が声を低くした。


「分からない?噂に振り回されて私のこと仲間外れにしてるじゃん」

「…………」

「高校生にもなって恥ずかしくないの?そんなことしてるといつか一人になっちゃうよ?」


 私の話を黙って聞いていた紗良と日村さんたちは口を揃えて「無視はしてないけど?」と開き直った。確かに話しかければ答えはしたのでその通りなのだが、それは余りにも幼い屁理屈。反論しようとした私の言葉を遮り、この場に居る女子たちの総意だとでも言うように紗良が口を開いた。


「一緒にいたらストレスが溜まる子と距離を置くことがそんなに悪いこと?」

「……なにそれ、そんなこと思ってたの?」


 最早日村さんやその周りの子は関係なくなってきて、私と紗良が一触即発のピリピリとした雰囲気の中心にいる。そんな空気を察した関わりのない生徒たちが、チラチラとこちらを窺っていることが分かる。通路で声をかけるんじゃなかった……。


「はーい、ストップ」


 柔らかい声で前触れなくふわりと現れたセナくんが、私たちの間に割って入った。私を守るために現れたヒーローさながらの頼もしい背中を見て、ふいに涙が溢れた。端的に言えば安心したのだ。味方が誰一人としていない敵地に突如姿を見せた救世主。


「セナくんっ!」


 徐に抱きついて胸に顔をうずめた。それは庇護欲をくすぐって守ってもらおうとか、同情を誘おうだのという下心ではない。ただひたすらに心が求め、自然と引き寄せられたのだ。幼い子供が母の胸で泣くように。

 しかしその光景を見た紗良たちと、それを遠巻きに見ていた生徒たちは、私の純粋な行為を抜け目のない態とらしいものに感じたようだ。その場の白けた空気がそれを如実に表している。


「……あのさ、沙耶香ちゃんって誤解されやすいけど、本当に純粋な子だからさ、」


 セナくんは私の背中から腰にかけてを優しく撫でながら、紗良たちに態度を改めるように諭した。紗良たちはさすがに言い返すことができず、黙ったままだ。


「沙耶香ちゃんも。あんな風に人格を否定するようなことは言っちゃいけないよ」

 

 みんな傷ついたよ。と、未だにセナくんの胸元に顔を寄せている私にも優しく言い聞かせた。ほぅ、と感嘆の溜息がどこかから聞こえ、紗良たちが「そうだね。あたしたち言いすぎたよ、ごめん」と素直に謝罪の言葉を口にした。


「ほら、沙耶香ちゃんも、」


 とセナくんに促され、ぐしぐしと鼻を啜りながら「私もごめん」と謝れば、その場は一先ず丸く収まった。こうしてまたセナくんの株が上がった。




 そんな思春期真っ只中の揉め事が起こった翌日は修学旅行最終日。みんなが一番楽しみにしていた自由行動の日である。午前中はレトロな雰囲気の運河や街並みをクラス毎に散策し、オルゴール堂や美術館に入ったりした。それが終われば昼食なのだが、ここからが自由行動の時間だ。私とセナくん、そして新島くんは駅横にある市場で海鮮丼を食べることにした。


 3人で歩いていると他クラスの生徒たちの不躾な視線に晒される。紗良たちとの昨夜の言い合いが広まったようで、不名誉な噂は更に激しさを増しているようだった。


「え、すご。まじで二股なわけ?」

「日村さんから寝取ったって?」

「瀬名くんとも付き合ってるんでしょ?」


 散々言われてきたことだ。修学旅行先でもそんな話をするなんて余程暇なんだろうと、噂話を口にする子たちに哀れみの視線を向けた。


 昼食後の自主研修は事前に立てた予定をもとに、一番栄えている市街地を見て回った。この地は日没も早く、16時半にはイルミネーションが点灯する。それを一目見ようと、今まで散り散りに散策していた生徒たちがテレビ塔前に集まって来た。私たちももちろんそこに足を運ぶ。


「すごい、綺麗……」


 今時イルミネーションなんてどこでも見られるし、なんなら私たちの地元にはもっと華やかなイルミネーションだってある。しかし修学旅行先で見るそれはやはり特別で、そんな特別をセナくんと共有できていることに感動した。

 イルミネーションを見るフリをして、セナくんの横顔を見つめる。私の視線に気づいたセナくんが「ん?」と、柔く頬を緩めた。そんな一生忘れられそうにない耽美的な光景。それを軽い気持ちで壊したのは控えめにセナくんを呼ぶ、ある一人の女の子。


「瀬名くん、話があるんだけど……今いい?」

「……え、今?いや、今は、」


 セナくんが断りそうな雰囲気を察知した女の子は、私の方に視線を寄越し「いいですか?瀬名くん、お借りしても」だなんて言ってのけた。本当は非常識だと思った。何考えてるの?と詰め寄りたかった。だけど私の些細なプライドが邪魔をした。彼女なんだから、余裕見せなきゃ、と悪魔が囁いた。


「いいよいいよ、私のことは気にしないで」


 努めて明るく、彼女の余裕たるものを醸し出せば、女の子は「やったぁ〜」と喜び、セナくんの腕を引っ張った。困惑しているセナくんに手を振り送り出す。そんな私の本当の気持ちを察しているのか、新島くんが「強がっちゃって〜」と背後から声を出した。


「別に、強がってなんか、」

「そ?あれ絶対告白だよ?」

「……分かってるけど、それぐらいさせてあげたらいいじゃん」

「わぁ、嫌味〜」


 私を揶揄いながら新島くんはケラケラと愉しそうだ。そして、そっと私の指に自分の指を絡める。


「!ちょっと、やめてよ」

「いいじゃん、セナいないんだし」

「……良くないから」

「良くないかぁ!」


 軽口を叩きながらも新島くんはその指の絡みを解くどころか、さらにきつく握りしめた。


「ふっ……地獄のはじまりはじまり〜」

「ん?なんか言った?」

「いや、なにも?」


 私の空耳だったようだ。切れ長の目をまん丸にした新島くんはすぐさま目を細め、「一生の思い出になるわ」と愉しそうに笑った。

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