第4章

第22話

 頭上にあった太陽が少し傾いた頃。

 二人の男が、箱根方面から小田原宿に向かって東海道を歩いていた。

 向かう先には遠く小田原城の天守を望む。小田原城は、はるか戦国の北条氏康ほうじょううじやすの時代には難攻不落と呼ばれた名城である。

 山伏やまぶしと薬売りの組み合わせ。

 山伏の方は鬼童衆の金嶽剛斎かなだけごうさい。岩から削りだしたような面長の巨漢。

 少し後ろから従う薬売りは、同じく鬼童衆の月ノ輪紅之丞つきのわこうのじょう。こちらは女のようにも見える美形だが、肩を丸めた姿で青白い顔をしきりに左右に動かして、周囲に目を配りつつ歩いている。

「紅之丞よ。そうびくびくするな」

「いや、しかし。相手は闇丸を斬った奴らですよ」

「闇丸の奴めは山岡鉄太郎どもを侮っておったのだ。だが、わしらはそうではないであろう」

「ですが……」

「この剛斎がついておる。安心せい」

 剛斎は割れ鐘のような笑い声をあげた。

 しばらくすると、小手をかざして道の先を見る。

「ほ。あれはなんだ」

「ど、どうしたんですか」

「こちらに駆けてくる者がおる」

「敵ですか」

「いや……」

 貧相な農夫がみるみると近づいてくる。なにごとかあったのか、血相を変えて走ってくる。

「お、お助けくだせえ!」

 二人の前まで駆けてきた農夫は地面に手をついて座り込んだ。

 陽によく焼けた顔が汗と涙でぐっしょりと濡れている。

「おた、おた……あの……」

 農夫は息も乱れてまともにしゃべることができない有り様だ。

 剛斎はしゃがんで、竹の水筒を農夫に差し出す。

「一口飲んで落ち着かれるがよい」

 農夫は竹筒を握ってごくりと喉を動かす。しばらくすると農夫の息も落ち着いてきた。

「さて、何かあったのか」

 剛斎は農夫が返した水筒を腰に吊るした。

「さ、三人のお侍に娘を人質に取られて、家に立て籠られたのでございます」

「なんと。その侍とは何者だ」

「会津藩士だとか。そのうちの一人は人斬り弥助と名乗っておりました」

「ふむ」

 剛斎は立ち上がって顎を撫でた。

「あのう」

「どうした、紅之丞」

「早く行かないと……」

「まてまて。助けを訴えている者を放ってはおけぬだろう」

「ですが、相手は人斬りとか。関わらない方がいいんじゃないですか」

「ふむふむ」

 剛斎はさらにひとしきり顎を撫でてから、屈んで農夫に顔を近づける。

「よし、親父。わしらが助けよう」

「ええ!」

 紅之丞は飛び上がらんばかりに驚いた。


 剛斎と紅之丞は農夫に続いて、東海道から逸れて渺茫とした青い草の中にある道を分け入った。

 二人は道中でこれまでの経緯を聞いた。

 農夫の家に立て籠っているのは三人の元会津藩士たち。旧幕府軍として参加した京での鳥羽伏見の戦に破れたので、会津藩から離れて江戸に向かっている途中らしい。

 仲間を率いているのが大文字弥助だいもんじやすけという、逞しい体で関羽髭を生やした豪傑然とした男。

 京では人斬りで名を馳せて人斬り弥助と呼ばれていたらしい。

 その者たちが突然農夫の家に押し入って、食い物と金を出せと言いい、十六になる一人娘を人質にしているとの話であった。

 これは農夫のたどたどしい説明を剛斎たちの知識で補った内容ではあるが。

 やがて青草は開け、田畑が広がる地に出た。そこに一軒の家がある。

 家の外には数人の男女が身を寄せ合っている。

「あそこでごぜえます」

 三人が近づくと、群がっていた男女がわっと寄って来た。

「あんたあ、お菊が。お菊が」

 叫んでいる女は農夫の妻。さらに赤子を背負った女の子、年老いた男と女。農夫の家族たちだ。

「大丈夫だ。この旅の方たちが助けてくださる」

 農夫一家の期待の眼差しが剛斎と紅之丞に向けられる。

「食い物と金はまだかあ!」

 家の中から男の声ががなり立てる。

「村中から集めてこい。さもないと娘はいただいて行くぜ」

 一家の者たちは怯えて固まっている。

「かつては幕府を支えるために奔走していた者たちであったろうに。落ちぶれたものだ」

 剛斎は一歩前に出て家の周囲に目を向ける。

「いや、彼奴きゃつらはただ刀を振って暴れていただけかもしれぬがな。うふふ」

「どうするんですか、剛斎」

「左様。おまえは家の前で彼奴らをひきつけろ。わしが裏に回って一網打尽にしてやるわ」

 剛斎は荷物を置いて足早に田んぼのあぜ道を駆けて行った。

「ちょ、ちょっと」

 紅之丞はしばらく家の裏に回って行く剛斎を眺めていたが、ふと農夫の家族たちが自分を見つめていることに気づいた。

「はいはい。わかりましたよ」

 ため息をひとつついて、家の方に歩き出した。

 やれやれなんでこんな羽目に。まあ、剛斎が弥助一味を蹴散らしてくれるのを待てばよいだけだ。よもや剛斎が返り討ちに合うこともあるまい。

 などと考えていると、家の入口から三人の武士がでてきた。

 狂乱の京を生き抜いてきただけあって、壮絶な面構えの男たちだ。

 とくに真ん中に立つ男の迫力は凄まじい。

 白い総髪で関羽髭を生やした偉丈夫。筒袖つつそでを肩に羽織っている。

 この男が大文字弥助であろう。

「あわわ。これは強そうだ」

 紅之丞はここに立っていることを後悔した。

「なんだ貴様は。食べ物と金は持ってきたのか」

 弥助の右に立つ男が吠えた。

「え、あの、その……」

 吠えた武士が刀を抜いて近づいて来る。

「ちょ、ちょっと」

 武士が刀を振るう。

 へっぴり腰ながらも紅之丞は刀を避けた。

 そのあとも、武士が振るう刀のすべてを紅之丞は辛うじて避けた。

「あいつ避けるのは上手いぞ」

 弥助の左にいる男が笑っている。

 剛斎はまだなのか。そう考えている紅之丞の目の前に、いつの間にか大文字弥助が立っていた。

「え――」

 硬い拳骨が紅之丞の鼻柱にめり込んだ。無言で弥助が殴ったのだ。

 声にならない悲鳴をあげながら紅之丞は後方に転がった。

 武士たちが笑い声をあげる。

「ああ……」

 膝をついた姿勢で紅之丞は激しい痛みで痺れた顔を右手で触ろうとする。

 そこに、涙と涎にまじって鼻から血が雨のように垂れて来る。

 手のひらが真っ赤になった。

「弥助さんに殴られても動けるとは、女のような顔をしてはいるが、思ったよりも頑丈な奴だ」

 再び弥助たち三人は並んで立つ。

「ふうー」

 紅之丞が呼気を吐く。

 武士たちの動きが止まった。紅之丞の口から白い呼気が出たかのように見えたのだ。

 先ほどまでと紅之丞の雰囲気が変わったことを察した。凄絶な気配が身を包む。

 ゆっくり腰の大刀を抜く。鼻血は止まっておらず刀身を濡らす。

 顔をあげると瞳の光は消えて昏い三白眼になっている。

 紅之丞は刀を横に薙いだ。

 弥助たち三人との距離は二間(三・六メートル)。間合いの外だ。

「げくっ」

 蛙のような呻き声をあげて、弥助の左右の男の首が同時に落ちた。

 どうしたわけか、紅之丞は刀が届かない場所から二人の男の首を落としたことになる。

「八瀬忍法紅落花くれないらっか

 紅之丞がぽつりと呟いた時には、大文字弥助が肩に羽織っていた筒袖をその場に残して、斬りかかっていた。

 鋼が弾かれる音。

 弥助が握っていた刀が宙に飛んでいた。

「弱い、弱い」

 うっすらと笑みを浮かべた紅之丞は、驚愕を浮かべた顔の人斬り弥助を唐竹割にした。

「やあ、紅之丞。目覚めたな」

 家の入口から剛斎が娘を抱いて出てきた。

「いつ見てもまさに妖剣士だなあ」

 剛斎は武士たちの亡骸を見て回る。

 紅之丞は剛斎に刀を向ける。

「剛斎、おぬしはかったな」

「わはは、ばれたか」

 この一件――。

 農夫一家も含めて、すべては剛斎が仕組んだことであった。

 紅之丞はしばらく剛斎を睨んだ。

「まずもって紅落花を使えるようにせんと山岡鉄太郎は倒せん。そうであろうが」

「おお、山岡鉄太郎。ぜひともこの手で斬りたいのう」

 紅之丞は先ほどまでの出来事を忘れて、強敵との立ち合いを夢想して妖しい笑みを浮かべる。

 剛斎は農夫家族たちのもとに行って、救い出した娘を返した。

「早う行くぞ、剛斎」

 紅之丞は東海道の方に戻って行く。

 その姿を見てにやりと笑ってから、剛斎はあとを追った。

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