君の知らない王子様の嘘

 リチャードが自分のタウンハウスに帰った時、時刻は既に午前二時を回っていた。

 リチャードを出迎えたのは、しんと静まり返った邸内。どうやら家族の誰もまだ帰ってきてはいないらしい。使用人からの報告に、リチャードは『だろうな』と頷き返す。

 社交期シーズン真っ盛りの五月、家族がてんでばらばらに活動しているガードナー家ではごくありふれた風景だ。だから今さらリチャードが違和感を覚えることはない。

 母は社交と名のつくものをこよなく愛していたし、父は家族よりも仕事を優先する男だ。昔からそうだった。この家には、どこか冷たい空気が流れている。それを疑問にも思わないのがガードナー家だった。

 リチャードは寝室には向かわず、書斎に入った。自分だけの部屋。本に囲まれた、静かな空間。屋敷の中で、この部屋だけが唯一自然と息つくことができた。家族も使用人も容易に立ち入らない、この部屋だけが。


 ──あぁでも、彼女と過ごした時間はひどく心地のいいものだった。


「随分とお疲れのご様子ですね。向かう前はあれほど楽しみにしていらしたのに」


 軽食を手に入ってきたのは従僕のシドニーだった。長い付き合いになる彼は、この部屋への入室を許可した数少ない人間のうちのひとりである。無表情がデフォルトの彼はリチャードのよき理解者であり、優秀な使用人だった。

 そんな彼であったから、むろんリチャードの初恋についても重々承知している。わかっているからこそのこのセリフ、リチャードは眉を寄せ、「……揶揄ってくれるな」と呻くような声を洩らした。……とはいえ、気恥ずかしいものは気恥ずかしいのだ。


「申し訳ございません。かようなリチャード様をお目にかかる機会は早々ございませんので。……あの方と何かありましたか?」


 今この屋敷に聞き耳を立てている者はいない。

 けれどシドニーは声をひそめた。【彼女】のことを知っているのは彼以外の他にいなかったから、これまでもそうするのが当たり前だった。

 だが改めて考えるとなんとも滑稽な話だ。そう、リチャードは苦笑した。


 ──とうに成人した大人の自分が、少女の一挙手一投足に翻弄されているなんて!


 恋とは病、熱病のようなもの。かつて詩人はそうたとえ、少年だったリチャードもまた『そういうものなのか』と納得していた。自分には関係のないことだから、どこまでも他人事だった。

 母親から紹介される令嬢たちに、昔から関心を持つことはなかった。名前しか知らない家の、同じような仮面を被った少女の群れ。違いなどわからなかったから、興味の持ちようもなかった。

 だから今になって──ただの憧れに過ぎなかった少女が手の届くところに現れて──こんなにも思考がかき乱される。情けない話だが、彼女のために自分に何ができるのかまるでわからなかった。


「彼女とは関係のないことだ。……いや、関係はあるが、彼女に非はないし、俺の勘違いかもしれない。だがどうにも俺には……彼女が何かに悩んでいるように思えて仕方なかったんだ」


「悩む……お心当たりは?」


「そうだな……」


 シドニーの視線を感じながら、リチャードは記憶を辿った。

 レンジャー伯爵家のパーティー、そのあとに始まった舞踏会のこと。それを順番に思い返しながら、リチャードは考えを纏めていく。自分の心に広がる暗雲、その原因と正体を。

 伯爵家へ向かう馬車の中での彼女──メイベル・ロックウェル嬢に特段の翳りは見受けられなかったように思う。

 パーティーで見かけるのと同じ、滲むような微笑。瞳は地中海の清らかなる蒼。それが親愛の情を伴って花開く時、リチャードは途方もない幸福感を覚えた。

 たとえそれが友人に向けられるものであっても構わなかった。容易に他者を受け入れない、そんな彼女に必要とされるのは、まるで自分がかけがえのないものとして認められたかのようで──自分というものが唯一無二の存在に思われて──、とても心地よかった。

 けれどそんな彼女の目が曇りがちになったのは、果たしていつからだったか。

 ……いくら考えてみても、ひとつしか思い当たらない。


「……だが、レディ・キャンディに何ができるとも思えないんだが」


「レディ・キャンディ・レンジャー……伯爵が養子に迎えられた方ですね」


「表向きはな」


「しかし経歴に不審な点は見受けられなかったはず。特筆すべきところのない、労働者階級の娘であると聞いておりましたが」


「だから確信が持てない。彼女とは初対面のはずだし、敵対する理由だって……」


「理由……リチャード様が原因の可能性は?お二人の接点といえばそれくらいでしょう」


 極めて淡々と。まるでそれが真実であるかのような調子で言われ、リチャードは一瞬言葉につまる。

 「……まさか」そんなはずはない。リチャードだってキャンディと会うのは今夜が初めてだった。伯爵からの期待を感じないでもなかったが、明確な言葉として言い渡されたこともない。

 それにもし、もしも仮に『そうだった』として──それでもやはり、メイベルが思い悩む理由にはなりえないだろう。彼女にとってのリチャードはあくまで友人であって──

 ──だが、可能性としてはまったくのゼロなのか?もしも彼女も同じ気持ちだったら?もしも本当に──シドニーが言ったように──


 ──いいや、そんな都合のいい展開、あるわけがない!


「ですが今、『ちょっといいな』と思ったのでは?」


「──シドニー、」


「失礼。出過ぎたことを申しました」


 リチャードは鉄面皮を睨めつけるが、さして堪えた様子は見られない。リチャードは渋面のまま、シドニーの持ってきたティーカップを傾けた。

 だがそんなものは気休めでしかなく、ティーカップには狼狽した男の顔が浮かんでいた。


「とはいえあの場にいた人間となると限られてくる。……頼めるか?」


 よその家の、それもさして親しくもない未婚の女性。そんな人間の素性を調べろといきなり命じられ、しかし従僕は静かに『是』と顎を引く。些か干渉しすぎの傾向にあるとはいえ、基本的には頼りになる男なのだ。だからこそリチャードは側に置いているし、彼にだけは彼女への想いも打ち明けた。

 そんな彼も書斎を出ていって、そこでリチャードは今夜初めてひとりの時間を持つことができた。

 リチャードは引き出しに書類ケースの鍵を開け、その中にあった一通の手紙を慎重に取り出した。

 その手紙は何年も前に書かれたものだった。書いた当人ですらもしかするとその内容を忘れてしまっているかもしれない。けれど繰り返し繰り返し──飽きることなく読み返してきたリチャードならば、一言一句違わず暗唱できるだろう。

 何しろこの手紙が──メイベル・ロックウェルが、従兄のクロード・トレメインに宛てて綴った言葉が、リチャードのこの数年を支えてきたのだから。


「……なんて、とても彼女には聞かせられないな」


 親愛なるクロード・トレメイン様──誠実さを感じさせる文字をなぞり、リチャードは目を閉じる。




親愛なるクロード・トレメイン様


 休暇にも帰ってこないと聞いてずいぶん心配していました。でもまさか、そんなことで悩んでいるなんて!

 でもあなたにとっては大事なことなんでしょうね。私には想像することしかできないから、あなたは『軽々しく言うな』と思うかもしれないけど、根をつめすぎても良くはならないとあなた自身もよくわかっているでしょう?

 どうか無理はしないで。一番の成績を収めなきゃならなきゃいけないなんて思い詰めないで。爵位の代わりになるものを手に入れなきゃ生きていけないなんて、そんなことないんだから。

 そりゃあこの世界じゃ色々と難しいこともあるでしょう。でもいざとなったら私だって働けるのよ?例えば……そうね、お針子なんてどうかしら。舞台の衣装を作るなんて楽しそうじゃない?それともいっそのこと女優でも目指してみようかしら。その時は付き人として雇ってあげるわよ。

 ……つまり何が言いたいかっていうと、どんな甲斐性なしになってもあなたはひとりじゃないってこと。もっと私を頼ってくれてもいいんじゃない?……あぁでも、政治とか経済とか、そういう相談なら馬にでも聞いた方がマシかもね。私よりずっと賢いもの。

 とにかく、これだけは忘れないで。かのジャック・ドーソンだって言っているでしょう?『人生は贈り物、次にどんなカードが配られるかはわからない』って。『与えられた人生が来るだけ。だから、毎日を大切にしたい』──私も、今が幸せだと思う。

 ……あなたのいない聖夜はちっとも楽しくなかったけど!

 お詫びは次の休暇まで待っててあげるから、ちゃんと考えておいてね。そうそう、それから……




 この手紙を拾ったのはリチャードがまだ寄宿学校に在籍していた時だった。封筒に入っていない手紙、それを偶然リチャードが手にした。

 手にしたからには落とし主に届けなくては。そう思って、悪いとは思いつつ内容に目を走らせた。……けれど中程まで読んだ時にはもう心を奪われていた。

 リチャードは伯爵家の嫡男だった。そうであることが当然で、それ以外の自分のことなど考えたこともなかった。その肩書きを失ったら、『自分』というものも同時に喪失するのだ。そのことに気づき、やるせなさを感じていた。そんな時だったから、手紙に綴られた言葉に胸を打たれた。

 首席じゃなくてもいい。爵位がなくてもいい。──そんなこと、誰にも言われたことがなかった。

 肩書きと自己はイコールで結ばれており、そのために寄せられる期待も、それに応えるのも、すべて当たり前だと思っていた。当たり前だと思っていたから、苦しかった。比べられることも、競い合うことも。

 当時、次席にはレオナルド・クレイトンがいて、それが結構なプレッシャーになっていたのだろう。時が経った今だからこそ冷静に振り返ることができるが、その頃は焦燥感に追われることしかできないでいた。

 だからメイベル・ロックウェルの手紙を読んで、勝手に救われた気持ちになった。と同時に、そう言ってくれる人のいるクロード・トレメインがひどく羨ましく思った。

 だから──だろうか。返さなくてはと思っていたのに、いざ彼に『手紙を見なかったか』と問われて、咄嗟に嘘をついてしまった。ひとつ下の後輩のことは決して嫌いではなかったのにも関わらず、だ。

 『弱ったな、どこに落としたんだろう』本当に困っているといった様子で頭をかくクロードに、良心が痛んだ。しかしリチャードはそ知らぬ顔で『……そんなに大事な手紙だったのか?』と返した。他でもないリチャード自身がその手紙の価値を知っていたのに。

 目の前に探し物があるとは知らず、クロードは『ええ、まぁ』と口許を緩めた。それは自然と生まれでたもので、彼が手紙の差出人を思い浮かべているのは疑いようもなかった。

 だから『恋人か?』と続けた時、リチャードの心臓は嫌な音を立てた。聞いて何になる?知ってどうするというのだ?何をする勇気も度胸もないくせに。

 リチャードはクロードに見えないよう手を握りしめた。まだ寒さが続く季節だというのに、その手のひらは汗ばんでいた。

 しかしクロードは『いいえ』と答えた。『小うるさい従妹からの手紙ですよ』いとこ。……いとこ、なのか。本当に?

 彼の表情に疑問を抱いたが、さすがに口に出すことはしなかった。『先輩がこういったことに興味を示すとは珍しいですね』と言う後輩に『そんなことはない』と否定して、結局そのまま。手紙は今もリチャードの手元にある。


「……本来は君の手を取る資格もないのだろうな」


 罪悪感を抱きながら、リチャードは手紙を元の場所に戻した。

 返さなくてはと思い続けてきた。この美しい言葉たちはリチャードではなくクロードへ向けられたものだ。彼女のためにもあるべき場所へ帰るべきだ、……そんなことはわかっている。


 わかっている、けれど──


 リチャードは深々と溜め息をつき、皮のソファに身を沈めた。

 せめて、彼女の抱えている気がかりだけは晴らしてやりたい。それが自分の犯した罪への償いでもあるのだとリチャードは考えていた。

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