第2話 まさかのドラゴン退治
ロシェが西門を出てほど近くの目的地に到着したときは、既にドラゴンは何人かと交戦中だった。
おおむね睨み合っている膠着状態だったが、双方の威嚇の声と共に、時折硬い鱗が剣撃を弾く音が鋭く響く。
ドラゴンは熊の2倍程の大きさで、鱗の隙間を狙えば武器攻撃による人力でもぎりぎり倒せるように思われた。
だが当面は、生身の危険な死闘を繰り広げるよりは、これ以上街に近付けないよう魔物の注意を引きつつ、市警隊の大砲や
その間にドラゴンが戦意を削がれて逃げてしまえば御の字である。
しばらく女冒険者と共に威嚇人員に加わっていたロシェだったが、自らの集中力が少し切れたことを自覚すると、いったん前衛を引いて一瞬周りを確認した。
目の前のドラゴンに気を取られているうちに、別の魔物に背後から襲われた、という状況はままあるのだ。
そして、視界の端でフェリクスを見つけて、ひえっと小さく悲鳴がでるほど驚いた。
彼は遠巻きにこちらを眺めているが、万が一巻き込まれた場合、非戦闘員を庇いながら剣一本でドラゴンと戦う技量はロシェには無い。
「おい、足手まといは待ってろって」
フェリクスのせいで完全に集中力が霧散してしまった。
このままでは自分が危ない。
ひとまずは戦線を離脱して彼を追い返すことに決めた。
野次馬するには、あまりに安全性に欠ける見世物である。
このお坊ちゃん僧侶が観劇気分で見物しているなら、今すぐお帰り願わねばならない。
「僕にちょっとした秘密の特技があるのですが、」
しかしフェリクスは腰がやや引けているものの、先程の食堂とほとんど変わらぬ調子で話し始めた。
「僕は、魔物の使う魔法を封じることが出来ます。理論上は」
魔物――魔法を使う厄介な生物が魔物と総称されている。
しかも魔物は野生動物と違って人を襲いがちだ。
そして魔物はドラゴンのような分かりやすく暴力的な見た目をしているとは限らない。
兎のように人畜無害に見えて魔法を駆使して暴れる魔物もいるのだ。
「魔法を封じるだって? 便利じゃないか! でも理論上って何だ」
「僧侶崩れの冒険者はともかく、普通の真っ当な神官は魔物と直接戦ったりしませんからね。出来るだろうと思うけど、実戦で試したことはないのです」
原理はロシェの頭にはよく分からないが、きっとエリート的な修行の果てに身に着けた加持祈祷の強化版なんだろう。
何にせよ使えるものは何でも使うべきだ。
「ただし、ある程度は対象に集中する必要がありますし、長時間の継続も難しいです」
「……ドラゴンの風の魔法を一瞬止めるだけで良い」
大抵のドラゴンのような魔物は、翼の下に魔法の風を起こして空を飛ぶ。
それを阻止出来れば、かなり有利に戦える。
「少し飛び上がったところで片翼――右の翼の風を止めて欲しい。体勢を崩すはずだ。タイミングは伝える。俺の声が届く範囲に居てくれ。多少敵に近いが、来れるか」
「行きましょう」
「無理ならすぐ退避しろ、俺はお前を守って戦えるほど強くない」
「承知しました、
不釣り合いに軽い口調は、おそらく危険を前に緊張を逃がすためだった。
早速ロシェは戦線に戻り、再びドラゴンに対峙する。
ドラゴンの右側面やや後方寄りに陣取り、剣を構えた。
迂闊に斬り込んで相手の反撃を食らえば一撃で致命傷になりかねない。
しかも相手は硬い鱗を持つ。
だが勝利への希望はロシェに先程よりもいっそうの勇気を奮い起こさせた。
ロシェは少しずつドラゴンを牽制しながら、ちらりとフェリクスを振り返る。
すると、彼は頷いてみせた。
ドラゴンの尾に注意しつつ、かつ他の冒険者には目立たぬよう、隙を見て後脚への攻撃を執拗に繰り返す。
これはドラゴンの飛翔を誘発する行為だったから、今の全体の作戦にはそぐわない事は分かっていた。
ロシェが何度か足の鱗に小さな傷を付けた辺りで、ついにドラゴンが数歩後ずさりして翼を高く持ち上げた。
飛翔の予備動作だ。
冒険者たちが慌てて妨害を試みるが間に合わず、ばさりと翼を打ち下ろす。
ドラゴンは低く宙に浮いた。
さらにもう一度打ち上げ、また下ろそうとしたところで、
「フェリクス、今だ!」
ロシェが合図を送る。
直後、ぐらりとドラゴンの体が傾ぎ、腹を横にして墜落した。
それを見るやロシェは鱗の隙間の皮膚を狙って腹に突きかかる。
他の冒険者たちも各自追撃に回った。
赤毛の冒険者が身も軽くドラゴンに飛び乗り、翼の付け根を深々と斬り払ったのが見えた。
しかし傷を負ったドラゴンはなおも起き上がると、怒り狂って吠えながら荒々しく体を回旋させ、群がる冒険者たちを振り払う。
そして、大きく口を開けた。
そこに急速に熱が集まっていくのが分かる。
火を吹くぞ……!
冒険者たちに緊張が走る。
こういうときは誰か一人が囮になり、その囮はドラゴンの攻撃を引き付けつつ全力で回避行動をするのが定石だ。
囮になるのはドラゴンの視線の先にいる人物――今の場合はロシェになる。
みるみる内に熱は光に変わり、ドラゴンの口中の火球が膨れ上がっていく。
「ロシェ!」
背後からフェリクスの声が聞こえる。
と、ドラゴンの火球が小さくなった。
フェリクスならあの魔法の吐息を封じられる。
確信を胸に、ロシェはドラゴンの口元へ飛び込み、勢いそのままに剣の切っ先を開いた顎の奥へ押し込んだ。
「下がれ!!」
女性の鋭い声で指示が飛ぶ。
赤毛の冒険者が怯んだドラゴンのその喉元に斬撃を叩き込む。
ようやくドラゴンは血を流しながら動きを止め、どうと地響きを立ててその場に倒れた。
歓声が上がる。
冒険者たちは各々健闘を称え合い、また無事を喜び合った。
ロシェがドラゴンの口から引き抜いた剣を鞘に収めたとき、
「見事だった、スラジア神殿の祭主ロシェ殿。助かったよ」
声を掛けてきたのは、先程食堂にいた赤毛の女冒険者だった。
ロシェのことを知っているようだ。
背は高く精悍な顔立ち、豊かな髪は三編みにして、背中には先に房のある長い尾を揺らしている。
獣のような房尾を持つのは、ナトニの先住民族と言われる森人族だ。
ロシェがどこかで会っただろうかと少し戸惑っていると、女は言った。
「あたしはアベイユ。スラジア神殿に森人族の大工が出入りしているだろう。この辺りの森人は結束が強くてね。何か変わったこと、変わった奴がいればすぐ皆に伝わるんだ。神官ながら剣を取れば勇猛果敢、噂に違わぬ武人振りだ」
大工たちが尾鰭もつけてそう言っていたのだろう。
「武人なんて、そんな立派なもんじゃない」
「でも、その剣筋はなかなかの訓練をしたものだろう」
とても神官の仕業とは思われない、とアベイユ。
側で見ていたフェリクスも寄ってきて同様の感想を口にした。
「……ただの元傭兵だ」
神官としては半人前の自覚がある。
そもそも神官として上手くやっていれば、きっと剣を取る必要もない。
武勲はもはや誉れではないのだ。
僧侶になる以前に傭兵団に所属していたことは、隠すつもりはなかった。
だが、多少引け目を感じてもいたから、生まれついての僧侶たるフェリクスが何を思うか少し気になって、ロシェは彼を見遣った。
すると、琥珀の瞳もまた曖昧な表情を浮かべてこちらを向いた。
しかし彼は何も言わなかった。
「大工たちによれば、君は荒れた神殿を整え、神様を敬う善良な男らしいね。あたしはこの街で冒険者に登録しているから何か依頼があればよろしく。――ええと、そちらの方は?」
アベイユが遠慮がちにフェリクスに目を向けると、フェリクスはすっと手を胸に当て膝を深く折る。
「オルクス大神殿付き一等神官巡察使のフェリクスです。今日からロシェ祭主の補佐としてこちらに派遣されてきました」
優雅な王国式の挨拶に、アベイユは顔を赤らめ少しどぎまぎしている様子だ。
あの宮廷風はこんな田舎では、大仰で芝居がかっていて大変気障なのだ。
ただ本人に気取りが無いから、ぎりぎりのところで滑稽さを免れている。
そしておそらくは、アベイユはこの気障な所作に気を取られて彼の長い肩書は覚えられなかっただろう。
もしかしたらフェリクスも覚えさせる気は無いのかも知れない。
「初日でドラゴン騒ぎとは災難だったね」
流石に今回のような大きさの魔物は頻繁には出没しない。
ここに来て2年ほどのロシェも、過去3回遭遇しただけだ。
いや、本当はこれだけでも高頻度なのだ。
「最近この辺りは確かに魔物が異常に多い。どうか、この地のために祈って欲しい」
「僧侶なのに、まさかのドラゴン退治を目の当たりにするとは、大分怖かったですけどね」
フェリクスは苦笑いで答えた。
「秩序の乱れを正すよう、この土地の神々に執り成し、魔物たちを鎮めるのが、僕の、いえ祭主と僕の仕事ですから」
頼もしいことだ、とアベイユは屈託なく笑った。
「それと、先程食堂でご一緒でしたので、お会計は僕が払っておきました」
「流石は都会人、男前だな」
「普通に嬉しい」
アベイユは大喜びで、その日一番の感謝を伝えた。
「ええと、これからドラゴンの後始末をするけど」
それからアベイユは表情を変え、遠慮がちに何かを要請するかのような視線をロシェに送り、そしてちらりとフェリクスにも目を遣った。
「それは俺の“管轄外”だ」
ロシェもアベイユと同様にフェリクスにちらりと目を向ける。
フェリクスはこの事ありげな両者の目線の意味に気付かないで、黙って2人を見返すだけだ。
ということは、彼もまた“管轄外”だろう。
ロシェはそう判断した。
「そう、ありがとう」
小さく肩を竦めるロシェにアベイユは軽く頭を下げ、またドラゴンの方へと戻っていった。
「死体の後片付けは、手伝わなくてよいのですか?」
倒れたドラゴンに群がる冒険者をよそに、ロシェはそっとその場を離れようとしていた。
「魔物は普通の動物と違って死ねば数日で消える。時々固い部分だけが残ることはあるが」
「教科書にそんなこと書いてあったかしら」
フェリクスは首を傾げた。
彼がそんな基礎的なことを知らないのをロシェは意外に思う。
ロシェは教科書などという上等な書物は見たことがないが、世間の常識過ぎてむしろ書いていないというのだろうか。
聞けばフェリクスは魔物の駆除はおろか、本物の魔物もあまり見たことが無いらしい。
彼が長く暮らした王都はもちろんのこと、生まれ育った街でも、野生動物同様にいない事はなかったが、居住区域の周辺に出没することは稀で、あえて危険を冒して倒すものではなかったそうだ。
魔物の生態は図鑑や学校の授業の中でしか知らないのだ。
それでもその知識だけを頼りに、初見でドラゴンに挑んで勝利するとは、座学というのも侮れないものだと、ロシェは感心する。
「死骸を解体しているように見えるのは、みんな牙とか爪とか、あとに残って換金出来そうな部位を採取しているだけだ」
「あっ、違法な呪術屋で売っている違法な魔物素材ってこうやって流通するんだ……」
さも意外な新発見と言わんばかりに驚くフェリクス。
確かに魔物を倒したら残った部分を売り飛ばしましょう、とは教科書には書いていないだろう。
「神官は取り締まる側だろうが……。知らなかったのか? もしかして畜肉はそのまま畑から収穫されると思っている口か?」
「……」
「え、嘘だろ」
「考えたこともなかった。なるほど、魔物が増えると呪術師が儲かるのですね」
呪術師は、呪具などを使って独自の加持祈祷を個人で行う、いわばもぐりの神官と言える。
中には効果が見込めるものもあるが、一方で詐欺も多く、厄介なことにその区別は非常に付きにくい。
なお、呪術において魔物の力を使うのは、体の一部だったとしても犯罪だ。
「神官は呪術屋を摘発するだけでなく、魔物の発生を根本から減らさないとならない訳ですか。大変勉強になりました」
違法呪術師と魔物素材の取り締まりはフェリクスの専門ではないそうで、倒れたドラゴンに群がる冒険者たちをただ物珍しげに眺めている。
彼の目には、おそらく猪狩りのような田舎の習俗として映っているに違いない。
「とはいえ魔物討伐はああいった冒険者の1つの収入源でもあるんだ。呪術師もそうだが、連中はおそらく神官の言う“全き秩序”なんて求めていないんだろうな」
そういうところが冒涜的なのだ、と誰かが言っていたのを聞いたことがある。
ロシェも一理あるとは思っていた。
「全き秩序、ね。僕は求めようにも決して実現しない、神々でさえ不可能に一票ですが」
フェリクスは何の感慨もなさげに言った。
その穏やかな無表情には、仄かな諦念が滲んでいる。
「不可能であるから目の前の現実を、我々の秩序を生きるべきだと僕は考えています。――あなたはどうです。ここは擦り合わせないと宗教戦争になりますよ」
「俺は……、」
不可能とまで断言は出来ない、と思う。
それは自分の願望でもある。
全き秩序とはきっと美しいものに違いない。
しかし、“全き秩序”は実現するのか?
そんな神学的に高度かつ直接的な質問はニウェウス師匠から訪ねられたことはなかった。
師匠は新米ロシェに対して手加減していてくれたのかも知れない。
うっかり話題を振ったのはロシェ自身だ。
こんなに食い付かれるとは思っていなかった。
何とかそれらしい答えを返さなくては。
ロシェは焦りが顔に出ないよう繕いながら、一方で頭を必死で働かせる。
ニウェウス師匠ならどう答えるだろう? 師匠は折に触れて“全き秩序”のことや、神官ならば当然把握すべき“世界の秩序”をロシェに話して聞かせてくれた。
混沌に浮かぶこの世界には、神々の創った様々な“秩序”が重なり合って存在している。
我々人間には人間の従う秩序があり、死者には死者の従う秩序がある。
精霊の秩序があり、神々の秩序がある。
これらの“秩序”こそがこの世界を混沌から分かち、この世界と有らしめるのだ。
人間の従う秩序とはつまり、生き物が男女の交わりによって生まれ、時とともに育ち、そして老い、やがて死ぬ、その営為のことであり、植物が生え出で、枯れ、また芽吹く、その円環のことであり、例えば流れる水が、夏には乾き冬には凍り、高いところから低いところへ必ず落ちてゆく、そのような摂理である。
しかし、あらゆる秩序は常に波立ち、揺らいでいる。
互いに異なる秩序の波がぶつかったとき、生者は見えるはずのない亡霊を見、精霊や神々の声を聞く。
『僧侶とは異なる秩序の揺らぐ間に立ち、その調和を取るものだ』
そうニウェウス師匠は言っていた。
ロシェには、まだその言葉の本当の意味は良く分からない。
秩序は不完全に揺らぎ、異なる秩序は衝突を繰り返す。
秩序が破れ、綻びれば、そこに混沌の化身、魔物が生まれる。
魔物はさらなる秩序の破壊を求めて彷徨う。
神々の秩序に抗い、神々の手ずから創った人間を憎み、神のみがただ自在に変えることを許された秩序、この世の人の従うべき秩序を
だからこそ、混沌の澱とも言える魔物の牙や爪を人間が利用するなどは涜神的だとされるのである。
しかし、師匠は時々こうも言った。
だがいつか、初めに大いなる秩序を創った神が再び顕れ、全き秩序をこの世界に敷き、全き調和をもたらすであろう。
生者も死者も等しく神々の秩序に和し、死も苦しみもない黄金時代が来るであろう。
――という説教用の題目はちゃんと覚えている。
神官が厳かに祈りと願いを込めてこう宣言することを、一般民衆は割と喜ぶ。
この祈りが本当に黄金時代を引き寄せるような、そんな気持ちにさせるのだ。
またそんな気持ちにさせるような祈りを僧侶はすべきである。
それを師匠との経験を通してロシェは知っている。
とはいえ、その全き秩序の素晴らしい到来を頭から本気で信じているか、と問われれば……
「……」
「おや、宗教戦争ですか」
フェリクスがいくらでも受けて立ちますよ、と笑う。
「考えたこともなかった」
「えっ、嘘でしょ」
各々には各々の考えていることと考えていないことがあるものだ。
ロシェは自分を、あらゆる事を何でも知っている1人前の神官であると見せることを諦めた。
どうせ、多分、このエリートには付け焼き刃の虚勢などすぐ見透かされる。
張りぼてを真実らしく飾ることに汲々とするよりは、バカ正直だと笑われた方が、ロシェには好ましく思えるのだった。
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