11.そっくりなのに正反対。

 ほのかな畳の匂いが、鼻腔を擽る。うっすら開けた瞼に、照明がやけに眩しく感じた。


「サク。起きたか」


 頭上からキルの声が降ってくる。寝返りを打つと、白い犬耳がこちらを覗き込んでいた。いつもの外套に着替えたようだ。

 のそっと体を起こす。周囲を見渡し、状況を確認する。場所は、陸のおじさんが営む海の家の食堂だ。客はおらず、閑散としている。

 俺の横には、陸がぐっすり爆睡していた。水着姿で、タオルケットをかけられている。俺も肩からタオルをかけられていたが、それ以外は記憶が途絶える直前のままである。


 記憶を遡及した。たしか俺は、水鉄砲合戦をしていたはずだ。そこへ本物の拳銃を持った、アンフェールの専属SPが乱入してきて、日原さんまで参加して、彼女が麻酔針を撒き散らし……全員撃沈させられたのだった。


「あれ。日原さんは? ラルは? シエルもアンフェールも……あのおねえさんも。どこ行った?」


 まだ完全には覚醒していない頭で、むにゃむにゃ問うた。キルはテーブルに頬杖をつき、つまらなそうにこたえる。


「美月は店の外。ラルはさっき起きて、着替えに行った」


 それから、テーブルの向こうを指さした。


「シエルとアンフェールは、そこ」


 示されるまま覗き込むと、テーブル越しにシエルとアンフェールが見えた。ふたりとも、畳に寝そべってすやすや眠っている。シエルは手足を少し曲げて横になっており、よく見れば両手首を縄で縛られている。アンフェールはそんな彼に向かい合って、手を握っていた。

 寝顔までそっくりだ。同じ顔が寄り添って眠る姿は、どことなく神秘的に見えた。それなのに、あどけない。


「ふたりとも、無事でよかった」


「シエルの腕に痣があるけどな。アンフェールに掴まれたとこ、内出血してる」


 起こさないよう、キルが小声で言った。


「ほらな、アンフェールは怪力だった。握られたら痣ができるほど、強い握力をお持ちだ」


「未だ信じられないけど、この目で見たからなあ……。こんなに脆そうに見えるのに、人は見かけによらないな」


 俺もアンフェールに放り投げられたから、今ならよく分かる。頭では分かるけれど、気持ち的には受け入れられない。

 無言になった俺を横目に、キルは再び切り出した。


「そんで、もうひとり。あのおねえさんは……」


「目を覚ましたか、少年」


 背後から声をかけられ、俺はびくっと振り向いた。気配を消して立っていたのは、茶髪のショートカットの、エプロン姿の女である。


「フラム……さん、でしたっけ」


「貴様は朝見咲夜、というそうだな」


 フラムの腕には盆が乗っており、人数分のグラスと麦茶の入ったピッチャーが置かれていた。

 俺を見下ろす彼女の視線は、相変わらず鋭いものの、今まで感じていたような敵意はない。彼女は盆をテーブルに下ろし、グラスに麦茶を注いだ。そして自分も、テーブルを囲んで座る。


「この麦茶は、この店の店主から受け取ってきたものだ。毒は入っていない」


 そう言って、彼女は自らひと口飲んでみせた。キルが上目遣いでフラムを眺める。


「こいつ、私たちがスイカ割りで大騒ぎしてたのを見て、シエルを見つけたらしい。最初は髪を切ったアンフェールと見間違えたみたいだけど、言動を見てシエルが暗殺者だと見抜いたそうだ」


 一旦眠って、興奮が冷めたのだろう。どうやら早くに目を覚ましたキルとフラムは、俺が寝ている間にお互いしっかり話し合いをしたようである。


 フラムの言い分は、こうだ。

 彼女は旅路の途中でアンフェールと離ればなれになり、この近くの漁港にひとりで辿り着いた。アンフェールの居場所の手掛かりがなく、途方に暮れていたところを、陸の親戚のおじさんに拾われたのだという。


 身を置かせてくれたこの店でバイトをしながら、動画を作成した。アンフェールに居場所を訴えかける動画である。明らかに潜んでいる敵に悟られないよう、店のPR動画にカモフラージュして投稿した。

 アンフェールがメッセージに気づいて訪ねてくる、或いはコメント機能などを用いての返信があるのを待っていたさなか、今日、シエルが現れた。髪を切って日焼けしたアンフェールではないかと観察していたが、アンフェールには生き別れの双子がいると思い出した。


 その後、彼女はシエルや彼を取り巻く俺たちの言動を観察した。そしてシエルが、アンフェール殺害のために送られてきた暗殺者であると断定したのだ。


「んで、サクがひとりで散歩に行ってる間、フラムはシエルを処分しようとして、砂遊びをしていたシエルに襲いかかった」


 キルが胡座をかいて言う。


「シエルの奴、いきなり拳銃を向けられてびっくりして動けなくなっててさ。私が気づいて、咄嗟に水鉄砲ぶっ放って止めたさ」


 それを受け、フラムは眠りこける陸を一瞥した。


「そこへ、こいつが出てきた」


 キルは水鉄砲で、フラムの奇襲を止めた。その様子を見ていたアホの陸は、水鉄砲合戦が開戦したと判断したのだ。フラムのことも緊急参戦のファイターと認識し、彼女にも的になるポイを配った。

 フラムがため息をつく。


「この少年のせいで混乱させられた。彼は我らスイリベール王朝SPのみが所持する銃『銀河』を扱っていた。それなら私の仲間のはずなのに、シエルとも親しげだし、そうかと思えばシエルにも銃口を向ける。正直言って、戦っているのか遊んでいるのかよく分からなかった」


「でも、どっちにしろ騒ぎに乗じて危険因子を処理するには好都合だったんだろ」


 キルに言われ、フラムは黙って頷いた。キルが眉間に皺を作る。


「ややこしいことになっちゃったから、私はすぐにでもサクに事情を伝えようと思って、サクを捜した。でも、その間にでもフラムはシエルを殺しそうでさ……」


「だから、私が面倒見てたのよ」


 キルが話している途中で、横から口を挟まれた。振り向くと、白いカットソーにタイトなミニスカートに着替えたラルがいた。


「私がフラムちゃんを足止めして、シエルくんを間接的に庇ったの」


 そう言って、ラルも畳に腰を下ろす。麦茶をグラスに注いで、飲む。


「私はフラムちゃんの注意を引きつけるため、自らが重要な情報を持っているかのように見せかけたの。できれば武器を奪うか、事情を説明できればよかったんだけど、あの状況じゃ無理ね」


「そこへ、俺が戻ってきたわけか」


「そ。よりによって、美月とアンフェールを連れてな」


 キルは素っ気なく言って、麦茶を口に含んだ。

 あのとき俺が到着した頃には、既にフラムが参戦して事態が混沌としていた。キルは事情を説明しようとしてすっ飛んできてくれたのだが、俺の方も日原さんを連れてきているという予想外の展開。キルも俺に説明を求め、陸も日原さんも俺に質問攻めをし、一層混沌を極めた。


 そんな中、アンフェール出現によって、シエルは即座にアンフェールに飛びついた。自分がフラムに殺されるより先に、アンフェールを始末しなくてはならない。身軽になって機敏に動けるシエルは、水鉄砲一本でアンフェールの動きを封じ、あとは体術で意識を落として、それから武器を持ってしてしっかり殺す作戦だったのだろう。

 しかしシエルとアンフェールが揉み合っている内に、フラムもアンフェールに気づいて、ラルを放置して駆けつけた。


 そこからは、俺も知ってのとおりである。日原さんが壊れた麻酔銃をぶっ放ち、全員眠らせてひとりで大勝利をおさめてしまったのである。


「美月は私たちが死んだふりをしてるんだと思ってたみたいね。だけど誰も起きないから不安になって、とりあえず、近くの海の家に相談して、ここで休ませてもらったんだとさ」


 キルはテーブルにぐったりと突っ伏した。


「レンタルのライフル、完全に壊された……。どうしよ」


「それ、返却期限を守らないと一定期間レンタルできなくなるんだよな。武器を壊した場合はもっと重い罰が下るんじゃねえの」


 古賀先生からの受け売りの知識で言うと、キルは顔をうずめたまま低い声を出した。


「サクのくせに随分詳しいな。そのとおり、ペナルティがあるよ。武器を壊した前例は今のところ聞いてないから、どうなるか分かんないけど……」


 ものすごく憂鬱な声色で、キルは繰り返しため息をついていた。彼女には悪いが、俺からすれば、キルの危険行動が制限されるのは好都合である。


「シンプルに考えて、最低限、弁償だよな。『自分じゃ買えないような超一級品』って言ってた気がするけど大丈夫?」


「全然だいじょばない」


 俺とキルのやりとりを横目に、フラムが麦茶を啜る。


「美月なる娘は、麻酔銃であるとは知らずに無双していた。私ももはやなにが本物でなにがおもちゃか、分からなくなっていた」


 彼女はひとつまばたきし、緑色の瞳で俺を覗き込む。


「ひとまず、キルと美月から話を聞いて、大体把握した。咲夜、美月と貴様は王女を守ろうとしていたのだな」


「そうです」


「美月は王女を匿い、貴殿はシエルを監視下に置いて、王女を襲わないよう見張っていた」


「……そうです」


 返事に少し詰まったが、頷いておいた。シエルを監視していたついでに養っていたわけだが、それを言うとややこしくなるので言わない。なんであれ、俺はアンフェールの身を守ろうとしていたのは事実だ。

 俺の返事を聞くと、フラムはきれいに正座してぴしっと頭を下げた。


「王女から詳細を聞かず、貴殿を敵と断定して攻撃したことを謝罪する。申し訳なかった」


「わっ、頭上げてください。王女様を守ろうとするSPなら当然の判断だったと思います」


 反射的に、俺も姿勢を正した。俺はアンフェールを保護したいと考えてもいたが、同時に、シエルを傷つけたくもなかった。アンフェールを優先してはいたが、シエルの味方でもある。どっちつかずだった俺は、フラムから攻撃を受けても仕方なかった。


「びっくりはしたけど、結局こうして無事だったんだし。なにより俺は、あなたに会えて嬉しかったです」


 俺はちらっと、寝息を立てるアンフェールに目をやった。


「アンフェールを早く、安全な場所に引き渡したかった。あの子と知り合って以来、あなたを捜してました」


 すったもんだはあったけれど、これでようやく、アンフェールをSPに引き合せられたのだ。

 アンフェールからフラムに目線を戻す。フラムはまだ、正座して頭を下げていた。


「……王女を保護していただき、感謝する。王女が出会ったのが、心優しい日本人でよかった」


 深々とお辞儀するフラムを一瞥し、キルがふっと笑う。


「サクは日本代表善良の権化だからな」


 その途端、フラムはガバッと顔を上げてキルを指さした。


「しかし貴様は別だ、キル! 貴様は暗殺者シエルに協力的だった。日本は国家が認めた組織的暗殺が蔓延っていると聞く。貴様はその関係でシエルを支援していたのだろう!」


 大人しくしていたラルも、フラムに人差し指を向けられる。


「貴様もだな。咲夜とは違い、貴様らは完全にシエルを援護していた!」


「あらやだ。私はただ、お誘いを受けて海に遊びに来ただけよ。ね、キル」


 恐ろしいことに、ラルはしれっと保身に入った。キルも便乗する。


「うん。私はサクと一緒の家に住んでる居候。ラルは私の知り合い。シエルはうちで預かってたから、まあ一応、弟みたいな感覚だったんだよ。身内のシエルくんが怖いおねえさんに絡まれてると思ったから、守ろうとしただけ」


「そ、そうなのか……?」


 フラムが人差し指を引っ込める。


「でも、シエルが身軽に動けるよう指南していた! 重い装備を解けば、王女暗殺も安泰だとか言って」


「気のせいだ」


 キルはかなり雑に、そしてばっさり話を締め切った。


「気のせい!? そんなはず……」


 まだ不服そうなフラムはもうひと声投げかけようとしたが、キルに遮られた。


「で、あんたはシエルの正体を分かってて、よく放置してるよな」


「あっ!」


 そこで俺はやっと、心臓がひゅっと締まった。

 水鉄砲合戦が始まったきっかけを思い出す。キルに止められたものの、フラムはシエルをいきなり殺そうとしていたのだった。

 しかし今そこで眠っているシエルは、無事生かされている。

 キルがテーブルに頬杖をつく。


「王女を殺害しようとした暗殺者が、すぐ傍で爆睡してるんだぜ? 私がフラムの立場なら、今すぐ寝込みを襲って駆除するね」


「もちろん本来ならば、そうするべきだ。王女の殺害を企てている時点で、処刑対象だ」


 フラムは複雑な面持ちで、視線をシエルに送る。


「しかし……先の王女の反応を見たら、簡単には殺せない。この少年は、王女の双子の弟だ。私の敬愛する王女と同じ血が流れ、そして王女が会いたくてたまらなかった人物だ」


 眠るシエルの手には、アンフェールの手が添えられている。愛おしそうに寄り添う姿を目にしてしまうと、引き離すことすら胸が痛む。シエルはアンフェールを襲った暗殺者本人であるが、彼を殺すことは、アンフェールのSPであるフラムでも躊躇するようだった。

 数秒、沈黙が流れた。やがて、小さな呻き声が洩れる。


「んん……シエル」


 アンフェールが目を覚ましたのだ。フラムはさっとアンフェールの肩に手を置いた。


「王女様! 痛いところはございませんか!?」


「シエル……会いたかった」


 まだむにゃむにゃと眠そうな声を滲ませ、アンフェールはシエルの手を大切そうに撫でている。そんな彼女を見て、フラムは言葉を呑んだ。

 アンフェールはむくりと起き上がり、目を擦った。彼女の耳で、青い石のピアスが揺れる。


「ん。フラム? ここは……?」


 そして唐突に覚醒し、ハッと周囲を見渡す。


「美月さんは!? 咲夜さんは!? フラム、あのおふたりは敵じゃないの!」


「落ち着いてください、王女様。おふたりとも無事です。謝罪もさせていただきました」


 フラムが丁寧に答える。アンフェールは不安げに俺を見て、ひとつまばたきをし、それから自身の横で眠るシエルの手を引き寄せた。


「シエル……」


 か細い声で名前を呼んで、シエルの体を揺する。


「シエル、生きてる? 起きて」


「おやめください、王女様。危険です」


 アンフェールは爆睡のシエルを起こそうとするも、フラムに優しく制された。今にも泣きそうな顔で俯いて、シエルを見つめている。


「フラム、見れば分かるでしょう。この子は私の、血を分けた双子なの。傷つけたら、たとえあなたでも許さない」


「承知しております」


 やっと会えた、生き別れの双子だ。話したいことはたくさんあるはずだ。命の危機に晒されていても、それでも会いたいと願うほど。アンフェールにとって、ようやく巡ってきたチャンスなのだ。

 それでも、俺は心を鬼にして言った。


「フラムさん、どうかアンフェールを連れて、この国を出てください。シエルが後を追わないよう、俺が捕まえてますから」


「えっ!?」


 叫んだのはアンフェールである。


「待って。まだちゃんとシエルと話をしてない。お別れなんて嫌です」


「目を覚ませ、アンフェール。シエルは暗殺者だ」


 俺はフラムに代わり、アンフェールの青い目を見てはっきり告げた。


「シエルが起きても、ゆっくり話をすることはできない。こいつはまた君の命を狙う。だから、シエルが起きる前にこの場を立ち去ってくれ」


「そんなの……話してみないと、分からない」


 アンフェールは、まだ希望に縋りつこうとする。でも俺には分かる。シエルはもう、アンフェールの知っているシエルではない。


「話しても傷つくだけだ」


「嫌だ!」


 アンフェールが声を震わせる。俺だって胸が痛い。フラムも、アンフェールがこんな顔をするのは心苦しいのだろう。シエルに厳しい彼女でさえ、口を噤んで下を向いていた。

 こちらが真剣に話しているというのに、キルが横槍を入れてくる。


「そんなこと言うなよサク。双子水入らずで話し合いをさせてみようぜ? シエルだってアンフェールを目の前にしたら、殺せなくなるかもしんないだろ」


「黙れ。お前はそうやってシエルにチャンスを与えようとしてるだけだろ」


 一発で見抜かれて、キルは大人しくなった。ラルも口を挟んでも無駄だと察したらしく、ニヤニヤしながら黙っている。

 俺は今度は、フラムの瞳に訴えた。


「フラムさん。俺はアンフェールにスイリベールの王座についてほしい。そしてシエルにアンフェールを殺させたくない。アンフェールのためにも、シエルのためにも、ここを離れてください」


「フラム! 私は嫌。たとえシエルが私に殺意を持っていようと、私はシエルといたい。あなたは私の付き人でしょう。私の言うことを聞きますね?」


 アンフェールも頑固だ。柔らかな口調だが、フラムに有無を言わせない問いかけ方をする。

 フラムはアンフェールの険しい表情を、じっと見つめていた。彼女も葛藤しているのだ。アンフェールを守るには、俺の言うとおりシエルから離れた方がいいに決まっている。でも、シエルを大切に想い続けたアンフェールの気持ちを踏みにじることもできない。

 張り詰めた沈黙が流れる。

 と、そこで唸り声がした。


「んん……アンフェール。とどめだ……」


 シエルがうわ言を言いながら、うっすら目を開けた。アンフェールが即座に振り向く。


「シエル!」


 寝起きのシエルはぼんやりしていて、真横にアンフェールがいるというのに座り込んで微睡んでいた。そんな彼の肩を掴み、アンフェール自らがガクガクと揺さぶる。


「シエル! シエル、生きててよかった。ねえ、こっち見て。話したいことがたくさんある」


「んう!? わ、アンフェール! 待っ……えっと、アイスピックどこ? 咲夜さん、アイスピックどこ?」


 いきなりシェイクされたシエルは覚醒したものの、半分寝惚けてもたもたしている。なにしろ両腕を縛られているので、抵抗できない。俺はテーブルを飛び越えてシエル側に周り、彼の腕をがしっと掴んだ。


「はいはいはい、アイスピック取りに行こうなー。こっちおいで」


 フラムもアンフェールを取り押さえる。


「王女様! お気持ちはお察ししますが、離れてください」


 できればシエルが起きる前にアンフェールにいなくなってほしかったが、もう間に合わない。


「とりあえず応急処置として、シエルとアンフェールを引き離しましょう。俺がこいつどっかに連れていくので、フラムさんはアンフェールの無事を確保してください。さてシエル、立て。行くぞ」


「嫌だ嫌だ! そこにアンフェールがいる! さり気なく暗殺するー!」


「姿をとっくに見られてんだから、さり気なくは無理だろ」


 腕を縛られているくせに、シエルは往生際が悪い。俺はひとつため息をついて、爆睡する友人に向かって大声で呼びかけた。


「おい陸、起きろ! 手伝って!」


 すると陸はぱちりと目を開け、体を起こした。


「ふあ……あれ。ここは? あっ、海に来てるんだっけ」


 呑気に目を擦って、伸びをしている。


「ひょっとして俺、遊び疲れて寝ちゃった? 子供みてえだな」


「お前だけ頭が平和で羨ましい」


 ついそう口にしてから、俺は陸を手招きした。


「陸、シエルを更衣室に連れてくの手伝って。こいつわがままでさ」


「おー、いいよ」


 そう言うと、彼はひょいっとシエルを小脇に抱え、バカ力で運んでいった。


 *


 更衣室では、シエルの縄を解いてやった。武器を手にしたいシエルは、大急ぎで着替えはじめる。俺もさっさと着替えて、シエルの様子を窺っていた。

 悠長なのは陸だけだ。


「腹減ったな。なあ咲夜、この後すぐバーベキューやろうぜ」


 こいつは未だに、キルやシエルたちの行動を暗殺者ごっこだと思っているし、フラムは緊急参戦したその辺の人だと認識している。もう説明するのも面倒くさい域まで、彼の中で虚像が構築されてしまっている。

 ということで、俺もわけを話さず陸に合わせておく。


「その前にちょっと、アンフェールとフラムさんと日原さんを見送らないとな」


「えー、一緒にバーベキューすればいいじゃん」


「国際問題がかかってるから……ああ、いや、なんでもない」


 そんな会話をする俺の横で、シエルが外套からお気に入りのアイスピックを取り出していた。


「ふふ、これこれ。外套は着てると重いから、これだけ忍ばせて……」


 俺はそれを瞬時に横から奪い、床に投げ飛ばす。カーンというやけに響く音に、シエルのきょとん顔と、平然とした陸とが同時に振り向く。俺はアイスピックを蹴飛ばして遠くへ追いやりつつ、再びシエルの手を縛り上げた。シエルが青い顔で叫ぶ。


「なにをする!」


「大人しくしててくれ」


 怪訝な顔をする陸には、出任せで取り繕っておいた。


「スイリベールではポピュラーな罰ゲームなんだって。陸が見てなかった間に、こいつ水鉄砲合戦でルール違反をしてたんだよ」


「そうだったのか。ルール違反したなら罰ゲームは必要だな」


 陸はすんなり信じてくれた。こいつには、たとえ信じてもらえなくても、いつかちゃんと本当のことを話そうと思った。


 シエルの外套とアイスピックを回収して、更衣室から食堂へ戻る。アンフェールがふくれっ面で膝を抱えており、フラムが彼女を宥めている。その向かいでキルがふて寝していて、それを面白そうに観察するラルがいた。

 陸は先に駆け足で食堂を駆け抜け、外にいるおじさんと話をしに行った。その後ろから、俺がシエルの縛った腕を引いて現れる。途端に、アンフェールがばっと顔を上げた。


「シエル! よかった、一緒に帰りましょう」


「こんな縄すぐに解く! そしてお前を必ず殺す!」


 シエルがくわっと牙を剥く。俺は咄嗟に腕を固く握った。そして体を捻り、フラムに顔を向ける。


「シエルは俺に任せて、早く日本を発ってください」


「もちろん、そうしたいが……」


 憂い顔のフラムの後ろには、頑なに動かないアンフェールがいる。


「私は嫌ですよ。まだここで離れるわけにはいかない」


「しかしなあ、アンフェール。自分がこれから王座につくこと、自覚してるんだろ? その責任の重さを分かってるなら、自分の命がどれほど重いかも分かるはずだ。いや、軽い命なんてないとは思うけど、アンフェールは特に、国家がかかってるんだからね。シエルには近寄らない方がいい」


 俺はじっくりこってり説得したが、それでもアンフェールはそっぽを向く。キルが寝転がりながら、低い声を出した。


「諦めろサク。王女様はわがままだ。アンフェールのお気に召すまま、シエルを差し出せばいいじゃねえか」


「お前な。そうやってあっさり言うけど……」


 叱ろうとした俺の台詞を遮り、キルは言った。


「私は、シエルは王女様との謁見が許される立場にあると思うぞ。実際そいつ、アンフェールの双子の弟なんだし。それは紛れもない事実じゃん」


 他人事のキルは、金髪をぐちゃぐちゃにして気だるそうに喋っている。


「アンフェールは、自分の命が国にとって重要なのは承知してる。死にたいわけでもないはずだ。それでも危険を顧みずシエルに構いたいのは、国よりシエルの方が大事だからなんだよ」


 気だるそうだけれど、彼女が重ねた言葉の数々は、俺の胸にトストスと突き刺さった。

 アンフェールは決して、向こう見ずでわがままだったわけではない。立場や危険を受け入れている上で、それでもシエルへの想いの強さが、全てを上回ったのだ。

 俺はアンフェールの身の安全に集中するあまり、アンフェールの気持ちから目を背けていた。

 フラムと改めて、目を合わせる。


「シエルから武器を完全に奪って、手だけじゃなく足も縛って、俺とフラムさんが監視してる状況下でなら……」


「王女暗殺は未遂であれど死刑に相当する。王女と話す権利を持たせるのは特例になるが……」


 フラムはぶつぶつ呟いて、考えあぐねている。

 王女暗殺の任務にシエルが抜擢された理由が、今になってはっきり理解できる。双子の弟である――それだけで、アンフェールの同情を買い、処刑クラスの罪を犯しておきながら甘やかされている。シエルの血がこれほどまでに有利に働くものなのだと、予め想定できていたのだ。

 そこへ、テンションの高い可憐な声が飛び込んできた。


「ただいまー!」


 日原さんがパタパタと足音を響かせ、食堂に現れる。


「キルちゃーん! キルちゃんとバーベキュー楽しみー!」


 ひとり目をきらきらさせて、畳の上に滑り込み、ふて寝中のキルを抱きしめる。キルはぎょっと身構えたが、間に合わなくて躱せなかった。


「ぐあ! この私の首を押さえるとは……美月お前、本当に何者なんだ!」


 日原さんはキルの顔を胸に押し付けつつ、俺の方を振り向いた。


「あっ、朝見くんも起きたのね。ごめんね、あの水鉄砲で撃たれると眠っちゃうなんて、私、そんなおもちゃがこの世に存在するの知らなかったの。世間知らずで、本当にごめん」


 そんなおもちゃ存在しないからそこは君は間違ってないよ、と言おうと思ったが、面倒くさくなってやめた。

 日原さんはにこっと花笑みを浮かべる。


「さっきね、陸くんのおじさんから、朝見くんたちが今夜バーベキューするんだって聞いたの。私も一緒にどうかって誘ってくれたから、お父さんに許可とって参加することにしたの」


「え……!?」


 一瞬、シエルとアンフェールの問題が頭から吹っ飛んだ。

 目をぱちくりさせる俺に、日原さんは無邪気にニコーッと笑う。


「じゃーん! 追加のお肉、特上ランクを買ってきたよ。朝見くん、料理上手だもんね。期待してるよ!」


 手には白い袋を下げており、中にずっしりとした肉塊が透けて見えた。

 彼女に胸を押し付けられているキルが、もがくのをやめた。


「お肉!? でかした美月! 流石金持ち!」


 キルのご機嫌が秒で直った。ラルも肉に顔を近づけ、うっとり頬を赤らめる。


「おいしそうね。ねえシエルくん、こんな質のいいお肉、食べたことある?」


「ない……」


 手を縛られて不機嫌だったシエルも、特上の肉を見て目を輝かせている。

 日原さんの、というか肉の乱入で、アンフェールがフラムから日原さんに目線を移した。日原さんも、アンフェールの方を向いて微笑む。


「アンフェールちゃん、SPさんに会えてよかったね。ということは、もうそろそろお別れなんだよね。寂しいけど、アンフェールちゃんがいてくれたお陰で、特別な夏休みになったよ」


 純新無垢な笑顔が、殺伐とした空間には眩しすぎる。


「今夜はバーベキューだよ。パーティしよう。アンフェールちゃんお別れ会、というか、無事にSPさんと合流できたお祝いで、これまでありがとうの気持ちを込めて。ね、朝見くん」


 この人はどこまで心がきれいなのだろう。天然とはいえ麻酔銃で全員眠らせたスナイパーとは思えない。

 アンフェールは日原さんを見つめ、目をぱちくりさせた。それからフラムに向き直り、相変わらず真面目な面持ちで切り出す。


「お願いです、フラム。少しの間だけでいい。私たちを監視していてもいい。少しだけ、時間をください」


 そして微笑みながら、付け足す。


「それに。バーベキューなるもの、私も体験したいです」


「お、王女様……」


「シエルのこともそうですが、私、お世話になった美月さんや、助けてくれた咲夜さんと出会えた奇跡を、大切にしたいんです。明日のパレードまでにはまだ時間があります。最後に少しだけ、思い出作りをさせてください」


 凛とした青い瞳は、真夏の海のように澄んでいる。

 その瞳が純粋すぎて、俺は「国際問題」というデカイワードを頭の端っこに追いやってしまった。


 *


 太陽が水平線の向こうに隠れようとしている。元々まばらだった砂浜の人出は更に減り、殆ど俺たちの貸切状態になっている。


「なあ咲夜、炭はこんな感じでいいの?」


 砂浜に設置したバーベキューセットを組み立てて、陸が俺を呼ぶ。俺は自宅から持ってきたクーラーボックスを持って、彼に歩み寄った。


「上等、上等。日原さんが追加してくれた食材は、これから切るとして。持ち込んだ方は下ごしらえも済ませてきたし、あとは焼くだけだ」


 そんな俺の足元を、キルが駆け回る。


「いえーい! 早く食べよ食べよー!」


 レンタルの麻酔銃を壊されたとか、シエルの作戦が失敗したとかで不機嫌だったキルだが、バーベキューを前にすればこのハイテンションである。この切り替えの早さが、こいつの暗殺者としての長所なのかもしれない。

 炭に火をつける準備をする俺の足元では、ビニールシートの上でもぞもぞもがく影があった。


「くっ……フラムめ。こんなもので僕を封じられると思っているのか」


 不服そうに身じろぎしているのは、手足を拘束されたシエルだ。シートの上に転がされ、起き上がれずにいる。


「見ていろ……すぐに力を解放する。僕が本気を出せば、誰にも抑えられない」


「いきがるなよ。実際、文字どおり手も足も出ないじゃねえか」


 こいつの武器は全て、取り上げてロッカーにしまった。今のシエルは動きを封じられた、ただの中二病である。

 キルとラルはシエルの味方のはずなのに、助けてやろうとする素振りすら見せない。キルはもうバーベキューしか目に入っていないし、ラルは陸に甘える方に専念している。


「ねえ陸ちゃん、シエルくんの件はともかく、これからは私と組まない? なんでもしてあげるわよ」


 ラルに擦り寄られ、陸が狼狽する。アホのこいつは、自分で自分を「スイリベール王朝のSP部隊に所属している」と設定づけたことを忘れているみたいだ。

 フラムや日原さんの乱入により、水鉄砲合戦は強制終了した。陸は元から遊びのつもりだったから、王朝のSP部隊云々の発言に責任を負う気はない。しかしキルとラル、シエルにとっては素直に信じ込んでいたので、勝敗が曖昧なら力ずくで仲間に取り入れようという魂胆なのだ。

 俺はラルをぎろりと睨んだ。


「おいラル。風紀を乱すんじゃない」


「あらいやだ。そんなつもりないのに」


 ラルがわざとらしく陸から離れる。そんなつもり満々のくせに、よく言う。

 波打ち際に目をやると、アンフェールとフラム、そして日原さんが寄り添って座り、海を眺めていた。これまでのこと、今後のこと、しっかり話をしているのだ。

 穏やかな背中を見て、ほっと胸を撫で下ろす。アンフェールがフラムと合流できてよかった。シエルはこのとおり、攻撃ができない状態にあるし、これならアンフェールの無事は確保されたと言ってよさそうだ。ここまでいろいろあったけれど、なんとか解決した。

 炭火の上に食材を並べていると、寝そべるシエルが呟いた。


「暗殺者がいるのに一緒に食事をしようだなんて、アンフェールはやっぱりバカだね」


 暗殺者本人が呆れている。


「僕が縄抜けをして、キル先輩からナイフを借りて真っ向から刺しに来るかもしれないし、食事に毒を盛るかもしれない。だというのに呑気なものだよ」


「手の内を明かすとは、お前も呑気なものだな」


「あっ! 嵌められた」


「嵌めてねえわ」


 なんとか解決した、とは思うが、まだまだ油断は許されなさそうだ。条件はかなりこちらに有利だが、シエルの言うとおり縄抜けされることはありうる。暗殺者なんてなにをするか分かったものではない。今は大人しいキルとラルだって、突然アンフェールを襲うかもしれないのだ。

 ふいに、俺のポケットの中でスマホが歌いはじめた。トングを片手に、もう片手でスマホの画面を確認する。

 画面に表示されていた「クソ親父」の文字を見て、いきなりイラッとした。出ずに切ろうかと思ったが、思いとどまる。確認したいことが、いくつかあった。

 俺は陸にトングを押し付けた。


「ちょっと電話したい。その間バーベキュー頼む。とうもろこしの焦げ目、この辺いい感じ。頃合見てそっちのフランクフルトを……」


「分かった分かった。いいから早く電話出ろ」


 陸にその場を任せ、俺はシエルのいるシートに座った。

 電話はしつこく鳴り続けている。ため息をつきながらも、渋々応答した。


「はい……」


「さーくやー! 元気にしてる? パパは今日もすっごく元気ー! でも咲夜に会えなくて毎晩寂しさで枕を涙で濡らし」


「要件は?」


 相変わらずハイテンションな中年の裏声である。俺は容赦なく遮って問うた。親父が電話の向こうでくすくす笑う。


「せっかちさんだな。パパ個人の要件は、ただ咲夜とお話したい気持ちがMAXなんだけど……。まあ仕事の要件でいえば、シエルの様子を聞こうと思ってね」


 彼は俺の相槌を待たず、続けた。


「アンフェール王女、殺せなかったんだってね? あろうことか、SPと合流しちゃったんでしょ。折角引き剥がしたのになー」


「知ってるんだ」


「キルから報告が上がってるから。専属SPのフラム・ロウがやり手なのは分かってたから、離ればなれにさせて、更にこっちはキルを配備して完璧な布陣をとった。こんなにいたれりつくせりお膳立てしてあげたにも拘らず、失敗」


 親父はキルの報告を振り返った。


「うーん、聞いた感じ、フラムの潜む海の家に先回りする作戦自体はよかったと思うんだけどなあ。実行日が今日だったのが惜しかったね。時間的余裕がなかったのが厳しかった。結果的に、シエルの使えなさが浮き彫りになっただけだったね!」


 苦笑してシエルを労った後、その柔らかな口調のまま歯に衣着せぬ物言いを貼り付ける。俺はちらりとシエルの方を窺い見た。電話から少し声が洩れているようだが、内容までははっきり聞こえないらしい。芋虫のように寝そべって、夕焼けの海を見つめている。

 親父のお喋りは続く。


「王女暗殺に失敗したらシエルがどうなるか、咲夜は聞いてる?」


「……聞いてる」


 これがいちばん、胸に引っかかっている。

 図書館でキルから聞いた話が、頭の中に何度も蘇っている。


『シエルは暗殺者でありながら実績がないから、このままだとマフィアの親分に処分されちゃうんだよ。それを回避するためには、起死回生の大仕事をクリアしなくてはならない。それがこの王女暗殺の案件。これはシエルのラストチャンスなんだ』


 アンフェールが助かったのは、嬉しい。でも手放しで喜べない。アンフェールが助かれば、代わりにシエルの命がない。


「どうしても、なんとかならないのか」


 声は、自分でも情けなくなるくらい弱々しく掠れていた。親父が電話の向こうで、ふふっと笑う。


「そうなるように、シエルに抵抗していたのは咲夜じゃないか」


 そうだ。俺はシエルの処分の件を分かっている上で、シエルの仕事の邪魔をしていた。デリカシーのない親父は、そんな俺を煽る。


「かわいそうにねー。まだ十三歳なのに。アンフェールは国の最高権力者になろうとしているのに、片や双子の弟は、存在すら伏せられ誰にも知られず死んでいくんだね。これぞ天国と地獄だ」


 元々、アンフェールとシエルは仲のいい双子だった。大人の都合でシエルが捨てられた、その日までは。

 アンフェールは本人も戸惑っているうちに王様へと育てられ、シエルはどこまでもどこまでも、転落させられた。

 俺はまた、シエルの方を見た。潮風で銀色の髪が揺れる。自由を奪われた少年は、ただ真っ直ぐ海を見つめていた。自身の死を諦めているようにも見えるし、なにも考えていないようにも見える。

 俺はもう一度親父に向かって、「どうにかならないのか」と問おうとした。でも、どうにもならないのだと頭のどこかで分かっていたからか、声には出なかった。

 俺の心境を感じ取ってか、親父はやけに優しげな声で言った。


「『命あるものを大切にしなさい』……明子さん、つまりお前の母さんがお前に言ったことは、当たり前の道徳だね。咲夜が母さんの言葉を信じて優しい子に育ってくれて、パパは心から誇らしく思う」


 波の音が、鼓膜を擽る。


「けれど世の中は、清く正しいだけでは回らない。光があれば影がある。きれいごとの裏側には、残酷な世界がある。優しい世界だけ見ていると、優しくない世界が目に入らないだけ」


 夕日を受けた海がきらきらして、直視できないほど眩しい。

 横にいるシエルの髪も、オレンジの色に光っている。夕焼けと同じ色をした瞳は、遠くを見つめて憂いでいた。

 親父が急に、おどけた声を出した。


「なーんてね。即位式は明日だよ。まだ数時間だけなら足掻けるね! 咲夜よ、シエルを想うならもう邪魔せずアンフェールを殺させてあげてね」


「そういう問題でもないんだよな」


「明日の即位式の後、総裁と一緒に、シエルの雇い主のところへ行ってくるよん。それまでに結果出してねー!」


 弾んだ声がそう告げて、通話は切られた。スマホの画面が映す通話終了の表示が、やたら虚しく見える。

 ちらりとシエルの方を見ると、彼も赤い瞳をこちらに向けていた。アンフェールを死なせないように守ったのは、間違った選択ではなかったはずだ。だけれど、今ここにいるこの少年は、そのための犠牲になる。


「なんの話をしてたか、分かるよ」


 シエルがひとつ、まばたきをした。


「残りの数時間でアンフェールを殺せって話でしょ。任せなよ」


 処分が近いことを怯えているか、焦っているかと思ったのだけれど……。

 驚いたことに、シエルは目を細め、ニヤリと笑んでいた。


「ひと晩余裕があるんだ。こんなに要らないんじゃない? 闇の力で葬ってやるよ」


「なんでそんなに自信にまみれてるんだろう」


 こいつの運命に同情はするけれど、本人がこの態度だとかわいそうな感じがしてこない。なんとも言えぬ複雑な気持ちにさせられた。

 と、キルと陸が揉めている声が聞こえてきた。


「わー! りっくんりっくん、ド下手くそ! ああもう、私がやる!」


「落ち着け落ち着け、危ないから来るな」


「子供扱いすんな!」


 俺はのそりと立ち上がり、炭を囲むふたりの元へ向かう。


「あ、サク。このとうもろこし、やるよ」


 キルが俺に紙皿を渡してくれた。上には焦げちらかしたとうもろこしが載っている。


「これ、とうもろこしなのか。真っ黒じゃねえか」


 トングを陸に任せたのが失敗だったようだ。キルが焼いた肉の載った皿を手に持ち、それは寝転ぶシエルの前に置いた。


「シエルも、はい。これはまだマシかな。あ、手を縛られてるから食べられないな。でも解くとサクが怒る。サクを怒らせるとバーベキューお預けくらう」


「だからって目の前に置いて『待て』させることなくない?」


 シエルが不服そうにとうもろこしを睨む。と、そこへ日原さんが戻ってきた。


「そっか、シエルくん、それじゃあ食べられないね。食べさせてあげるよ」


 日原さんは紙皿の上の肉を箸で持つと、それをシエルの口元へと持っていった。


「はい、あーん」


 見ていた俺、キル、やや離れていた陸もラルも、雷に打たれた顔で絶句した。古典的ではあるがだからこそ普遍的な、夢のシチュエーションを突然見せつけられた。シエルの奴、罰ゲームを受けているはずなのにおいしい思いをしてやがる。

 シエルは肉を口に含み、もぐもぐと咀嚼して飲み込み、日原さんを見上げた。


「美月さん、アンフェールを保護してた人だよね?」


「そうだよ。初めましてだね」


 日原さんが愛想よく微笑む。シエルは一層困惑した。


「僕がアンフェールの命を狙ってるの、知ってるよね?」


「知ってるよ。未だに雲を掴むような話だと思ってるけど、アンフェールちゃんって王女様なんでしょ。シエルくんは双子で、そしてアンフェールちゃんの命を奪うように指示されてるんだって聞いてる」


「知ってるのに、よく僕に近づいてこられるね」


 うっかり感覚が麻痺していたが、言われてみればド正論だ。拘束されているとはいえ、目の前に暗殺者がいて、恐れもせずに近寄ってくるのは肝が据わっている。

 日原さんはそれでも笑顔を崩さない。


「怖くないといえば嘘になるけれど、嫌いになんてなれないよ。あなたも被害者だもの」


「え?」


「シエルくんも、暗殺を指示されて従うしかなかったんでしょ。本当は暗殺者になんてなりたくなかったはずだもの」


「なんでそんな決めつけ……」


 眉を寄せるシエルの頭を、日原さんはぽんと撫でた。


「誰だって、人殺しなんてしたくない。まして家族を、双子の相棒を自らの手にかけるなんて、そんな残酷なことしたくないでしょ。シエルくんは、命令されて逆らえなかったんだよね。つらかったね」


 頭を撫でられるシエルは、口を半開きにして絶句していた。彼を繋いでいる俺も、なにも言えなかった。

 日原さんにとっては、殺人はどんな理由があれど誰しもしたくないことだと認識されている。衝動的に殺意を見せるキルとは大違いだ。彼女の心はどこまでも澄み渡っている。

 俺がなにを思ったのか察したらしく、キルが焼いた椎茸を口の前で止めて舌打ちをした。俺にだけ聞こえる程度の声で、ぼそっとぼやく。


「甘ちゃんが。おいサク、美月は心がきれいなんじゃなくて、単なる経験不足だ。美月はぬるま湯に浸かって優しい世界で愛されて育ってるから、殺人をリアルな距離で感じたことがないだけ」


「歪んでるな……と言いたいところだが、そのとおりかもな」


「現にお前もそうだろう。私に会うまで、『仕事』を理由にして人を殺すなんて発想、サクにはなかっただろ」


 そう言われると、自分も徐々にダークサイドの世界を知りつつあるなあ、なんて思ったりした。

 俺は皿の上のとうもろこしを見つめ、ひとつまばたきをした。そして日原さんに向き直り、頭を下げる。


「日原さん、俺がシエルを匿ってたこと、黙っててごめん」


 今更ながら、謝った。


「シエル、身寄りがなくてさ。アンフェールを狙う暗殺者だと知りながら、ずっと家に置いてた」


「本当。びっくりしたよ! 暗殺者が家にいるなんて」


 日原さんは素っ頓狂な声で言い、じろっと俺を睨んだ。


「なんでそういう危ないことするの! 朝見くんが無事だったからよかったものの……」


「あ、そっち?」


 俺の身を案じてきた日原さんに、今度は俺の方が素っ頓狂な声を出す。日原さんははにかんだ。


「図書館に行ったとき、冗談のふりして言ってくれたの覚えてるよ。今ならあの意味が分かる。アンフェールちゃんが会いに行きたがったから、危ないと判断して濁した。当たり?」


「……当たりです」


 自分の言動を改めて見通されると、なんとなくこそばゆい。目を伏せた俺に、日原さんはくすくすと笑った。


「シエルくんは身寄りがなかったんだものね。暗殺者と分かってても預かっちゃうのは、朝見くんの優しさだよね」


「いや、そんな……有無を言わさず引き取らされてただけで……」


「いずれにせよ、シエルくんを見張っててくれたのは、アンフェールちゃんのためだったんだよね。だけどそれを私に相談してくれないで、自分ばかり危険な状況だった、って件については謝ってほしいな」


「ごめんなさい」


「よし」


 やはり日原さんの心はどこまでも澄み渡っている。経験不足とかなんとか以前に、この人は思考回路が清い。その胸焼けするほどの眩しさに当てられて、キルもシエルも無言になっている。

 日原さんは、今度はキルの頭を撫でた。


「朝見くんの家にはキルちゃんやまひるちゃんもいるんだから、安易に暗殺者を匿っちゃだめだからね! さて、アンフェールちゃんとフラムさんも、呼んでくるよ」


 そう言い残して去っていく。日原さんの後ろ姿を睨み、キルはまた舌打ちをした。


「そのキルちゃんも暗殺者だっつうの。しかもターゲットはお前だ、日原美月! 今日のところは、高級お肉に免じて見逃してやるけどな!」


 小声でキレて日原さんにメンチを切っているが、日原さんにはまるで届いていない。なんともまあ見苦しい。

 キルがバタバタと走って、新しい肉を貰いに行く。陸が彼女から皿を受け取って、肉をたっぷり盛り付ける。それを見てラルがからかい、キルがなにか言い返す。バーベキューセットを囲んで、賑やかに談笑している。波打ち際には、アンフェールとフラムの後ろ姿があり、そこへ走っていく日原さんがふたりを呼ぶ。

 その様子を、俺はシエルと一緒に見ていた。

 潮風が吹きつける。シエルの銀の髪がふわりと、空気を孕んだ。


「僕は……」


 シエルの瞳に、夕日が映り込んでいる。


「僕は、かわいそうなのか?」


 シエルはふっと目を下げ、紙皿の上のとうもろこしを見つめた。


「美月さんが、『つらかったね』って」


 俺は、日原さんの言葉を胸の中で反芻した。


『誰だって、人殺しなんてしたくない。まして家族を、双子の相棒を自らの手にかけるなんて、そんな残酷なことしたくないでしょ。シエルくんは、命令されて逆らえなかったんだよね』


 シエルは王族の血を引いていたにも拘らず、双子だからという理不尽な理由で、王朝の外へ捨てられた。王女との関係を悟られないために表には出てこられず、生きていく術は選べなかった。

 そんな彼だけれど。


「僕は別に、自分を不幸だと思ったことはないんだ」


 シエルは不思議そうに首を傾げた。


「王宮は退屈だし、いい子ちゃんでいなくちゃならなくて、つまんなかったから。勝手に外に出るの好きだったけど、いつも連れ戻されてムカついてた。王宮から出て、一生戻ってこなくてよくなったときは、嬉しすぎて走り回ったし……」


「お前……ポジティブだな」


 俺はキルから貰ったとうもろこしをかじりはじめた。見た目は黒焦げでまずそうだが、意外にも醤油の加減が絶妙だった。焦げた苦味の奥に潜むとうもろこしの甘味を、上手い具合に引き出している。


「日原さんが言うのはさ、シエルを不幸者だと決めつけたんじゃないよ。常識的に考えると人殺しなんてしたくないものだから、まだ子供なのにそんなことさせられてるシエルが不憫に見えたんだよ」


「なんで? 暗殺者の仕事、闇の眷属である僕にぴったりでしょ?」


 シエルは尚更、不思議そうに首を傾げる。

 そこへ、サリ、と砂の擦れる音がした。


「シエル」


 俺とキル、それからシエルが同時に振り向く。そこには海を背にして立つ、アンフェールの姿があった。アンフェールの後ろにフラムが控えているが、あくまで身構えているだけでアンフェールを止めようとはしない。

 銀色の長い髪が、潮風に乗って横に流れる。シエルが眉を寄せた。


「なんだよ。死にに来たのか。今ごはん食べてるから後にして。食事中に暴れるのはマナー違反なんだ」


 彼の赤い目が、ちらっとキルを一瞥する。どうやらこの子も、来たばかりの頃よりは少し成長したみたいだ。

 シエルの挑発的な態度にも動じず、アンフェールは賑やかな方向を手で指し示す。


「食事を共にしたいと思いまして。おいしいものがたくさんありますよ」


 バーベキューの煙の中から、陸が大声を投げてきた。


「咲夜ー! だめだこれ、俺が焼くと生焼けか炭しかできない。お前、焼くの楽しみにしてただろ。来いよ!」


「なんで両極端なんだよ! 今行く!」


 俺は返事をしつつ、シートから立ち上がった。背後ではシエルが、縛られているくせに顔だけ強気な態度で言った。


「分かった。アンフェールの最後の食事だ、好きにさせてやろう」


 アンフェールの方は、くすくすと苦笑いしていた。


「ふふ。よかった。では今度は私が、あーんしてあげる」


 風上から焦げた肉の匂いが漂ってくる。


「わー! もうりっくんは引っ込んでろ! お前は焼くな! サークー! 早く来てー!」


 キルの悲鳴が、砂浜にこだましていた。



 空に星が浮かびはじめている。

 日原さんが買ってきてくれた巨大な肉を焼き終え、バーベキューはいよいよ終盤になってきた。キルもようやくお腹が満たされてきたようで、ぼちぼちお開きムードが漂っている。


「これが最終便のお肉か。サク、この辺もう焼けてる?」


「それ、まだ火が通ってないから持ってかないで」


 せっかちなキルに手を焼いていれば、どこからともなくひそひそ声が耳に入ってくる。


「ねえ陸ちゃん。咲夜くんがバタバタしてるうちに、こっそり抜け出しちゃいましょ?」


「そこ! 陸を誑かさない!」


 俺はトングの先をビシッとラルへと向けた。ラルがわざとらしく肩を竦める。

 暗殺者たちは相変わらず元気で自由奔放で、苦労する。大騒ぎの俺たちの側では、シートに座って寄り添う、双子の姿があった。


「はいシエル。口を開けて」


「ん……」


 異国人なのに、アンフェールは器用に箸を使いこなしてシエルの口に食べ物を運んでいた。ふたりの後ろには、フラムが控えている。アンフェールはぺこりと頭を下げた。


「ねえ、シエル。先程は取り乱して一方的に押さえつけてしまい、ごめんなさい」


 水鉄砲合戦のどさくさに紛れてシエルを捕まえた、あの件を謝っている。


「そして、そのときの質問のこたえを聞きに来ました。今までどこで、なにをして過ごしていたの?」


「そんなこと聞いて、どうするんだよ。お前は死ぬんだよアンフェール」


 シエルはアンフェールから食べさせてもらっていながら、態度だけは尊大だった。オフェンシブなシエルを前にしても、アンフェールは至って落ち着いて返した。


「私は、シエルが暗殺者だとか、私の命を狙ってるかとか、そんなのもうどうでもいいの。あなたが今までどこでどうやってどんな暮らしをしてきたのか、聞かせてほしいの」


「そんなこと、お前に話してなにになるんだよ」


「なににもならなくてもいい。私が知りたいだけ」


 青い瞳に真っ直ぐ射抜かれ、シエルは目線を迷わせた。砂浜に視線を落として、黙りこくる。そんな彼から目を逸らさず、アンフェールは口を開いた。


「私の方は、地獄だったよ」


「え?」


 シエルが目を上げる。まだ振り向けない彼に、アンフェールははっきりと言い切った。


「シエルが一般的な男の子になれたように、私もそうなりたかった。だけれど私は立場上、本当の姿は封じていなくてはならない。それはまるで民衆を騙しているようで、自分を騙しているようで、何度も死にたくなった」


 その後ろで、フラムが目を見開く。SPとしてついていた彼女でも知らなかった、アンフェールの本音だったのだろう。

 アンフェールは髪を耳にかけ、ひとつ、まばたきをした。


「その上あなたがどこにいるか、それすらも分からないんだもん」


 はにかむ彼女に、シエルはやっと目を合わせた。彼の赤い目が、海の波間の星を反射させている。しばらくアンフェールを見つめていたかと思うと、シエルはまた、目を伏せた。


「僕は、これまでの生活、幸せだったと感じてる。上手くいかないことも多かったけど。怒られても殺されそうになっても、自由気ままに逃げて、また好きな場所で好きなようにやり直せばよかったし。『アンフェールはいつまであの王宮に閉じ込められてるんだろう、早く出てくればいいのに』って思ってた」


「そう。よかった」


 アンフェールは青い目を細めた。


「これからあなたは、どうなるの?」


「アンフェールを殺す」


「あははっ。殺せなかったら?」


 無邪気に笑うアンフェールに、シエルは一瞬、言葉を呑んだ。俺もフラムも、いつの間にか同じ方を見ていたキルも、黙って様子を窺っていた。


「殺せなかったら……」


 そのとき初めて、シエルはふっとアンフェールに微笑みかけた。


「殺せなかったら、僕は女王の双子の弟になる」


 炎のような赤い瞳が、まっすぐにアンフェールを見つめている。


「君はそれだけ覚えていてくれれば充分。僕自身がどうなるかは、知らなくていい」


 アンフェールは数秒見つめ返し、諦めたようなため息とともに、膝を抱いた。

 人のいなくなったビーチに、シエルが作った砂の城が残っている。西日を浴びたそれは、シエルの瞳のように赤く光っていた。

 アンフェールはしばらく下を向き、やがて意を決したように顔を上げた。


「ねえシエル。あなたは、私が女王になるから、私を殺そうとしてるんだよね」


 その慎重かつ芯の通った声に、俺やキル、フラムも、シエルも、ピリッと緊張した。シエルが声を沈める。


「そうだけど。……なにを考えている?」


 すっと、アンフェールが立ち上がった。バーベキューセットの方へ歩いてきたかと思うと、俺が肉を切り分けた包丁に手を伸ばす。

 そしてこちらが止めるより早く、彼女は自身の髪に包丁の刃を当てた。柔らかそうな長い髪が、切れてはらはらと落ちていく。そこにいた全員が、言葉を呑んだ。俺も、驚いたのと、散っていく銀色の髪が美しかったのと、その両方で声が出せなかった。

 肩につかないほどの短い髪になったアンフェールは、凛とした顔で立っていた。

 フラムが掠れた声を絞り出す。


「王女様……」


「その呼び方、もうやめて」


 アンフェールが包丁を持った手を下ろす。


「私、これからはもう嘘はつかない。シエルと同じように、男の子として生きていく」


 一瞬、なにを言ったのかよく分からなかった。

 男の子?

 俺が口を半開きにしているうちに、日原さんが優しい声で言った。


「そっか。そうね、ずっと誤魔化し続けるのは窮屈だったよね」


「……ん?」


 俺は日原さんの方を振り向く。彼女もこちらを向き、きょとんとした顔で小首を傾げた。


「アンフェールちゃん、複雑そうだったもの。かわいい服は好きだけど、女の子になりたいわけじゃないって」


「んん? 待って、日原さん……?」


 一層混乱を極めた俺に、キルがとどめを刺した。


「なんだサク、知らなかったのか。アンフェールは男だぞ」


「へっ!?」


「だってシエルとアンフェール、一卵性双生児だろ。一卵性は、男女の双子になることはほぼないらしいし」


 キルに言われて、俺は図書館で読んだ双子に関する本を思い出した。一卵性の双子は、ひとつの受精卵が分裂して双子になったタイプで、DNAがほぼ同じ……。

 そう言われてみると、目の前で包丁を握るアンフェールがだんだん少年に見えてきた。とはいえ、今までなんの疑いもなく女の子だと思い込んでいたのだ。突然そんな事実を突きつけられても、まだ脳が事態を処理しきれていない。


「ま、マジか……」


 目を回す俺に、陸がさらっと言う。


「なんだよ咲夜。今更? 俺はひと目で分かったぞ」


「すごいな、お前」


「スカート着てるからって、女とは限らないだろ」


「視野が広い」


 そこへラルもやってきて、陸側につく。


「私はふたりが一卵性双生児だって話を先に聞いてたから、分かってたわ。ぱっと見、女の子みたいではあったけど、ちゃんと歳頃の男の子の匂いがする」


「じゃあ気づいてなかったの俺だけ!? あれ、でもキルもアンフェールを『王女』って呼んでたよな?」


「そりゃ便宜上、あいつの肩書きは『王女』だからな。スイリベールは王位継承権があるのは女だけだ」


 キルが呆れ顔で返してくる。

 スイリベールの王位継承権は、女にのみある。つまり男であるアンフェールは、本当は王位継承権がなかったが、女であると偽って女王に即位しようとしていたのだ。

 アンフェールは髪を切った包丁を手に、シエルに歩み寄った。そして素早く、シエルの手足の縄を切る。フラムがアンフェールの手首を掴んだ。


「王女様! なにをなさる!」


 しかしアンフェールは逆の手でフラムの手首を掴み返し、包丁を捨て、立ち上がると同時にぐるんと腕を回した。そして見事、フラムを背負い投げする。小柄なアンフェールに投げられ、背の高いフラムが宙に浮く。

 自身のSPを放り投げたアンフェールは、即座にシエルの手を握った。


「私もう、いい子でいるのはやめる」


「アンフェール……!?」


 シエルですら戸惑っていたが、引っ張られた彼は立ち上がった。アンフェールがシエルの手を引いて走り出す。

 砂浜に伏せていたフラムが、よろりと起き上がる。


「待ちなさい……!」


 彼女は足をもつれさせて追いかけた。アンフェールに投げられたときに捻ったようで、左足を引きずっている。

 しばし唖然としていた俺も、ハッと我に返った。まずい、シエルとアンフェールを逃がしてしまった。


「待て、ふたりとも!」


 追いかけようとすると、日原さんも俺についてこようとした。しかし、もうだいぶ日が傾いている。これ以上この人を拘束できない。


「陸、ごめん。日原さんを送っていってくれ!」


 振り向いたのは陸でなく、日原さんの方だ。


「なんで。私もシエルくんとアンフェールちゃんが心配だよ」


「俺がちゃんと捕まえる」


 ごねる日原さんにそれだけ言って、陸に目配せする。付き合いの長い陸は、すぐに承知してくれた。


「分かった。俺が手え貸せることあったらすぐ連絡しろよ」


「待ってよ朝見くん!」


 日原さんはまだ悲痛な声で叫んでいたが、俺はもう振り返らなかった。フラムに続いて、シエルとアンフェールを追いかける。空はすっかり暗くなっていて、目立つ銀髪の双子はとっくに見えなくなっていた。

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