8.水着回なんて間違いなく荒れる。

 八月のど真ん中。よく晴れた、平日の午前中。

 バスの窓を開けて、シエルが目を輝かせる。


「母なる蒼き海神わだつみ……リヴァイアサンの咆哮が聞こえる」


 車窓の向こうには、どこまでも真っ直ぐな水平線が伸びている。雲ひとつない晴天の下、きらきらと波間を輝かせる壮大な海。

 興奮するシエルを横目に、キルが言う。


「本当だー、窓が開いてると波の音が聞こえるな」


 前の座席でキャッキャする声を聞き、俺もぼうっと外を見る。シエルが開けた窓からは、潮の香りが漂ってくる。

 俺の隣にいる陸も、窓の向こうを見て感嘆していた。


「すっげえ。見てるだけでわくわくするな。咲夜、どっちが泳ぐの速いか勝負しようぜ。勝った方は焼きそばを奢ってもらえるルールで!」


「戦うまでもなく陸の勝ちだろ。お前の身体能力、ずるいくらい突出してんだから」


「おいおい、そこは燃えてくれよ」


 俺と陸がくだらないやりとりをしていると、背後の席でくすくすと笑い声が聞こえてきた。


「もう、ふたりとも面白い」


 座席越しに笑っているのは、髪をポニーテールにしてうなじを露わにしたラルである。


「陸くん、今日は連れてきてくれてありがとう。いっぱい楽しもうね」


 座席越しに陸へ顔を寄せてくる。陸は照れ笑いで返した。


「うん。ラルちゃんに久々に会えて、俺も嬉しい」


 なにがどうしてこうなったのか……。それは、三日前に遡る。



 俺がキルを絞めて遊んでいた、あの日。


「で、陸。お前なにしに来たの?」


 俺は陸に麦茶と茶菓子を出して、彼に向かい合う形で、ローテーブルを囲んだ。


「近くに来たから寄った。ほら、咲夜んちにホームステイの子が来てるって聞いてたからさ。会ってみたいなと思って」


 そう言っている陸の横には、シエルが座っている。ふたりでローテーブルの前に並んで腰掛けて、一緒に麦茶を飲んでいた。


「咲夜が言ってたとおり、かわいい顔した子だな。でも前髪うぜえ」


 陸がぱらっとシエルの邪魔くさい前髪を触れると、シエルは大袈裟に仰け反った。


「やめてくれ。僕の左目の封印を解いたら……君の命を奪う」


「あっはっは! 面白いなー。日本語上手だし!」


 シエルのどうしようもない発言も、陸の性格ならこうして笑い飛ばしてくれる。そんな陸の反応を、シエルの方は気に入らないみたいだが、反撃したりはしない。多分、キルやラルが陸を「凄腕の暗殺者」だと信じているからだろう。実際はただの一般的な高校生なのだが、無実を証明するというのは意外と難しい。

 陸はシエルをからかうついでに、キルも弄った。


「キルも咲夜に遊んでもらってよかったな。そういやお前ら、以前にもああやって部屋の中で暴れてたよな。普段からあんなパワフルな遊びしてんのか」


「うーん……まあ、そんなとこ」


 未だにキルを従姉妹の小学生だと思っている陸へ、俺は苦笑いで誤魔化した。

 キルはというと、ふてくされてテレビを観ている。俺ごときに捕まえられて絞められたのが、相当悔しいらしい。床に胡座をかいてクッションを抱き、つまらなそうに昼下がりのワイドショーを睨んでいた。

 陸が麦茶のグラスを傾けて、ひと息つく。


「そんなやんちゃな朝見家を、ぜひともお誘いしたいんだけどさ」


 彼は茶菓子のあられをひとつ手に取り、ニッと片頬を吊り上げた。


「お前ら、海に遊びに行かないか?」


「海!」


「海?」


 反応したのは俺ではない。テレビを観ていたキルと、陸の横にいたシエルだ。キルはぴょこんと背筋を伸ばし、陸に注目する。シエルの方は、けだるそうな顔をしていた。陸はふたりのリアクションを見て、機嫌良さげに言った。


「俺んちの親戚のおじさんが、夏の間だけ海の家を開くんだって。といっても、田舎の小さい海水浴場だから、あんまり忙しくはないらしいんだけどな」


「海かあ。日本に来るために海を渡ってきたけれど、遊ぶような場所には見えなかった。楽しいの?」


 シエルが訝っている。どうやら彼には、海は海路でしかなく、遊ぶという感覚がないみたいだ。

 陸はクッションの上で胡座をかき、鞄からスマホを取り出すと、彼はスイスイ操作して茶菓子の横に置いた。


「こういうとこ」


 俺とキルとシエルは、陸のスマホを覗き込んだ。

 画面いっぱいに青い海と白い砂浜が映し出されていたかと思うと、カメラが向きを変え、平たい屋根の小屋が映る。砂浜にパラソルが並んだ先に、建物の軒に取り付けられた「氷」の旗が潮風に揺れて、いかにもな風情があった。


「このPR動画、バイトに来てもらってる人に作ってもらったんだってさ。すごく気に入ってるみたいで、わざわざ俺にもこうして送ってきてんの」


 陸がのほほんと笑う。画面が切り替わり、海の家のフードメニューが映りはじめた。キルが一気に食いつく。


「わー! 焼きそば! かき氷! おいしそう!」


「食い気の権化だな」


 俺が呟くも、キルは夢中で画面を見ている。

 動画が流れる枠の下には、動画につけられたタグが並んでいた。地名や店名が書き込まれている中に、ひとつだけ見慣れない言語のタグがある。多分、動画を見た外国人がタグ付けしたのだろう。

 動画の終わりには、砂浜に「来てね!」と書かれて締め括られた。グローバルな目線で作られているのか、「Come visit!」などと五、六ほどの言語で書かれている。


「ん……!」


 シエルが目を見開いた。外国から来たシエルにも馴染みのある言語があったのか、食い入るように見つめていた。

 動画が終わると、陸がスマホを引っ込めた。


「でさ、『暇なら遊びにおいで』って言われたから、咲夜とかキルでも誘って行ってみようと思ったんだ」


「そっか。ありがとう」


 俺も、茶菓子の皿から海苔付きのあられを手に取った。

 海に行ったのは、いつが最後だっただろう。多分、小学四年生の頃だ。まだ保育園児だったまひるも一緒に、陸の両親に連れていってもらった覚えがある。

 折角の夏休みなのだ、ぜひとも遊びに行きたい。キルとシエルも一緒に連れていけば、アンフェールや日原さんが襲われる心配もない。


「いつ行くの?」


 一応聞いてみる。陸は壁のカレンダーを一瞥した。


「すぐで悪いんだけど、十九日。三日後だな」


「十九!?」


 俺もカレンダーを振り向き、叫ぶ。十九日ということは、二十日に予定されているスイリベールの政権交代の日の前日ではないか。

 なによりあと三日で十九日、期限である二十日までこんなに差し迫っていたことを実感して驚いた。夏休み中のせいか、自分の中の日数の感覚が狂っている。

 二十日までに、アンフェールはSPと合流しなくてはならない。SPもアンフェールを捜しているだろうから、合流は時間の問題だろう。

 逆にピンチなのは、シエルの方だ。こいつは限られた日数で、アンフェールを殺さなくてはならない。シエルは遊んでいる暇などないはずだ、海に出かけるのは嫌がるかもしれない。

 と、思った矢先、シエルが声を上げた。


「行きたい!」


 陸のTシャツの袖を握って、立ち膝になっている。


「行く行く行く、絶対に行く」


 早口に捲し立てるシエルに、俺もキルも驚く。


「どうしたシエル、そんなに食いついたの初めて見たぞ。ていうかお前、そんな余裕どこに……?」


「さっきまでつまんなそうだったのに。動画見たら行きたくなった?」


「あっ、えっと」


 シエルは我に返って、少し落ち着いた口調になる。


「スイリベールは内陸国だから、海が見えないんだ。渡航してきたときに初めて海を見て、もっとちゃんと見たいって思ってた」


 俺はキルと顔を見合わせた。シエルがこんなことを言うとは。ただの無邪気な少年のようだった。暗殺者らしくないし、中二病も引っ込んでいる。

 シエルのきらきらした反応は、陸も嬉しそうだった。


「よしよし、いっぱい遊ぼうな。キルも、もちろん行くよな」


 陸が振ると、キルはこくこく頷いた。


「行く行く行く! 海の家の焼きそば、かき氷、フランクフルトー!」


 キルのグルメアンテナが早速おいしいものの気配を察知した。大きな黒目を輝かせ、食べたいものを指折り数えている。機嫌が直ったキルを見て、陸は一層にこにこした。


「夕方は浜辺でバーベキューするのもいいな!」


「わあっ、最高だ! サク、行こう! 海!」


 キルがテレビの前から立ち上がり、転げそうな勢いでこちらに駆け寄ってくる。

 この流れは、願ってもない幸運だった。想像以上にシエルがバカだった。こいつが二十日まで海に気を取られていてくれれば、その間はアンフェールも日原さんも安全。俺も夏休みを楽しめる。最高だ。


「ありがとう、陸。キルとシエルも一緒でよければ、参加したいな」


「OK! じゃ、水着とか水鉄砲とか、準備しとけよ!」


 陸がニーッと笑い、麦茶を飲み干して立ち上がった。帰りがけの陸を見送ろうと、俺も腰を上げる。付いてこようとしたキルが、わくわく顔から一転、急にふっと顔を強ばらせた。


「ん……! そうだ! 美月も誘おう?」


 その提案を聞いた途端、俺と陸は同時に叫んだ。


「なに!?」


「なんだと!?」


 しまった、キルが気づいた。食べ物に気を取られていたキルだったが、今急に仕事を思い出したのだ。大人しく食べ物のことだけ考えていればいいものを。

 俺はキルとシエルを連れ出して、日原さんとアンフェールから引き離すつもりでいた。しかしキルはそれを逆手に取り、むしろ日原さんたちを海に招こうというのだ。海は危険がいっぱいだ。偶然を装って事故を起こし、ふたりを殺すつもりか。

 なぜか俺と一緒に青くなった陸は、真顔でわなわな震えている。


「美月ちゃんを海に呼ぶなんて……そんな……あの日原美月に水着を着てもらうなど……」


 陸が神妙な顔で、俺に目配せをしてきた。


「それを見てしまったら俺は、いよいよ残りの人生が消化試合だ」


「いつものことながら、陸って安い人生だよな」


 言いたいことは分からないでもないが、今はそれどころではない。キルは陸の反応を窺って、ニヤッとした。仕事モードのキルが、無邪気を装って話を詰めていく。


「美月は、サクやりっくんと遊ぶのが楽しいんだろ? 誘ってあげないと拗ねるじゃないか」


 キルの様子を見て、シエルがぽつりと言う。


「美月さんって、今、僕の双子を片割れと暮らしてるお姉さんだよね」


 すぐさま、キルが拾った。


「そうそう。アンフェールもシエルと同じで、海を見たいと思ってるはず。あの子も一緒に誘えないか?」


「えっ!? そんな事情が!?」


 アンフェールを知らない陸は、シンプルに驚嘆した。


「なんかよく分かんないけど、シエルの双子のきょうだいがいるんなら、その子にも海を見せてあげたいな。美月ちゃんが共に暮らしてるなら、流れで美月ちゃんも呼んでも不自然じゃないよな……?」


 小心者の陸が、ちらちらと俺に確認を取ってくる。当然、俺は首を横に振った。


「たしかに日原さんは、俺や陸によくしてくれる。だけど今回は呼ぶのはやめよう。レベルが高すぎる」


 折角キルとシエルを連れ出すのだ。アンフェールと日原さんが参加させるわけにはいかない。だがなにも知らない陸は純粋にぐらついている。


「でも、シエルの双子がいるんなら、シエルだけ連れてくのも変な感じじゃないか。それで美月ちゃん抜きにするのはもっと変だ。なにより、美月ちゃんに来てほしい」


「俺だって日原さんと海に行きたいよ! 正直に言うよ! 行きたい!」


 俺はがしっと、陸の両肩を掴んだ。


「でもね。ビーチと水着と日原さんなんて輝かしい景色を目の当たりにしたら、まず俺と陸の網膜は眩しさに耐えきれず焼け死ぬ。そして夏休み明けにクラスメイト諸君にバレて嫉妬され、村八分にされる。お前にその覚悟があるか」


「代償がでかい。でかい気もするが、日原美月の価値を鑑みればそんなもんか。もしも咲夜が、俺の関係ないところで美月ちゃんの水着姿を見てたら絶交すると思う」


 陸が眉間に皺を刻む。俺は陸と自分との友情の脆さに一瞬言葉を失ったが、そのまま続けた。


「日原さんは、俺らから誘うべきじゃないと思うよ。実際こうして、ちょっとでも邪なことを考えちゃうんだしさ」


「それもそうか……」


 陸が納得しかけたところで、キルが待ったをかけた。


「サクとりっくんだけのところへ美月を誘うんだったら、警戒されるかもしれないけどさ。今回は私もいる! シエルと、その双子の片割れであるアンフェールもいるぞ」


「だめ! だいたい、そんなに大勢呼んだら陸の親戚のおじさんに負担がかかるだろ!」


 俺は陸が揺らぎはじめる前に言い返した。言いくるめようとしてあれこれ思考していたキルだったが、上手い言葉が思いつかなかったらしい。


「うー、シエル、あんたもなんとか言って」


「僕はアンフェールは別にいいかな……」


「よくないだろ! あー、もう、えーと」


 キルは頭を掻いて唸り、やがて言い返す語彙が尽きたのか負けを認めた。


「分かった。急な誘いだと美月も困るかもだしね。今回は諦めよう」


 俺は勝利を確信した。しかし、その油断がいけなかった。


「そんじゃあさ、ラルを呼ぼうよ。ラルもりっくんと遊びたがってたから、喜ぶよ」


 キルが軽やかに提案してくる。アンフェールと日原さんの危機を回避した俺は、すっかり気を抜いていた。


「そうだな、まあラルならいいんじゃない?」


 特に深く考えもせずに返事をした後、俺はハッとした。キルを見下ろすと、彼女もこちらを見上げていて、ニヤーッと口が裂けたような笑みを浮かべている。

 しまった。やられた。

 ラルは陸を自分の虜にして、利用するつもりでいる。陸に方言を聞かれてしまってからは離れていたようだったから、そこまで気にしていなかった。だがキルはこのとおり、ラルの色仕掛け作戦復活の時を虎視眈々と狙っていた。

 アンフェールと日原さんを呼び出せないと踏んだキルは、ここで作戦を変更した。陸を誑かす方向に舵を切ったのだ。

 アホの陸はあっさり引っかかった。日原さんのときとはまた違ったそわそわを見せはじめる。


「ラルちゃんか! もちろん呼びたいけど、どうだろう。俺、嫌われてるかもしんないし……。最近、連絡取れてないからな」


 彼のその感情は、日原さんに対するものとは違う。日原さんへの気持ちはアイドルを称えるようなもので、ラルへの気持ちは、危なっかしい彼女を放っておけない愛情深いものなのだ。

 その危なっかしさもラルの演技や色気によるまやかしなのだが、動かされる陸の心は本物なのだ。

 俺が止める前に、キルと陸が盛り上がっていく。


「嫌われてる要素なんかないって。りっくんは頑張ってたよ。心配なら、それこそこのタイミングでいいとこ見せて、謝って関係を修復したらいいじゃないか」


「そっか、そうだよな! 咲夜も応援してくれるよな」


 そう言った陸のはにかみを見たら、俺はもう、ラルを呼ぶなとは言えなかった。


「……うん、応援する」


 もう仕方ない。こいつらは、陸を騙す気ではあるが仲間にするのが目的であって、命を狙っているわけではない。そう考えれば、アンフェールと日原さんの危機を回避できただけでも上出来だ。

 とはいえ陸を悲しませたくない。俺はラルから陸を守ろうと、改めて心に誓った。


 陸を玄関まで見送って、リビングに戻る。と、その前にリビングの扉の前に立つと、向こうからキルが怒っている声がした。


「シエル! 王女殺しはあんたの仕事だろ。美月とアンフェールを誘い出せたら儲けものなのに、なにぼさっとしてたんだ。もうちょっと協力してよ」


 頑なに日原さんを誘おうとしていたのは、予想どおりの理由だったみたいだ。キルはガアガア叱った後で、急に落ち着いた声を出した。


「あまりにも非協力的だったから、逆にアンフェールがいたら困る理由でもあるのかと勘繰った」


 なるほど。日原さんを誘うのをいきなり諦めたのは、そういうわけか。

 シエルの返事が聞こえない。俺はそろりと、扉を数センチだけ開けた。リビングを覗く。キルとシエルは、異様に至近距離で寄り添っていた。シエルがキルに耳打ちをしている。


「ふむふむ……なるほどね」


 キルが腹落ちした声で言い、シエルから体を離す。嫌な予感がした俺は、すたすたとふたりの元へ歩み寄る。


「おい。なんの話をしていた?」


「なんでもなーい」


 キルはぴょんと立ち上がり、小躍りしながら耳の通信機を弄りはじめた。


「さあ、ラルに報告だ。仕事だぞラルー! ラルの色気を爆発させる大チャンスだぞー!」


 ご機嫌なキルを横目に、シエルがふっと鼻で笑った。


「白き狂犬キル。咲夜さんの制止を躱し、上手いことイベントの影の主導権を握ったね。彼女の話術は賞賛に値する。僕が出るまでもなかったね」


「出るまでも……っていうか、シエルはむしろキルに加勢してなかっただろ」


 したり顔のシエルに、俺はため息をついた。

 アンフェール暗殺は仮にもシエルの仕事なのに、シエルはキルに任せっぱなしである。


「で。今なにかキルに耳打ちしてただろ。なにを企んでるんだ?」


 キルには逃げられたので、シエルを捕まえる。彼はしばし黙っていたのち、急に頬を綻ばせ、えへへっと無邪気な笑顔を見せた。


「海、楽しみ!」


 あどけない顔を見て、俺は拍子抜けした。もしかして、シエルは純粋に海で遊びたいだけなのか? キルの交渉に協力しなかったのは、海と仕事とを切り離したかったから。アンフェールが来るのは嫌だった、とか……。

 俺は自分の疑心暗鬼を恥じた。そうだ、威張っていても暗殺者でも、この子は十三歳の少年だ。背負わされた使命など忘れて、思い切り遊びたいときだってあるだろう。だというのに俺は、警戒ばかりして疑ってかかってしまった。

 反省すると同時に、シエルの「普通の少年」っぽさにほっこりしている自分がいた。


 *


 その一時間後には、ラルが我が家を訪ねてきた。ラルは海行きを快諾し、その足で必要なものを買い出しに出掛けたのだった。

 新しい水着や、水鉄砲やビーチボールなんかのおもちゃ、海を知らないシエルのために浮き輪も買った。

 俺は暗殺者たちが悪巧みしないよう目を光らせていたのだが、俺自身も浮かれてしまって、バーベキュー用の食材を下見したり、いい炭を買ってみたりと楽しんでしまった。


 そしてそのまま三日が経った。海行き当日、冒頭に至る。

 田舎の海水浴場に向かうバスの中は、時間が半端だったせいもあり、がらんどうだった。貸切状態のバスは、なんだかちょっとテンションが上がる。

 天気は快晴、絶好の海日和だ。きらきらと輝く波間を見つめ、俺は遠い記憶を懐古した。


 まだ俺が小学校に上がったばかりの頃。母さんが存命の頃に連れていってくれた。俺は海に入ってみたり貝殻を拾ったり、砂で山を作ったりと、ひとりで気ままに過ごした。母さんは、パラソルの下でじっと俺を眺めているだけだった。思えばあの頃にはすでに、体の具合が良くなかったのかもしれない。

 母さんが本格的に体を壊して以降は、レジャーに興じることは殆どなくなった。親父は当時から既に海外出張ばかりだったので、遊んでくれた記憶がない。そのくせ、帰ってくると鬱陶しいほど俺たち兄妹に構って、そしてすぐにまたいなくなる。

 母さんとのきれいな追憶が、途中から親父の忌々しい記憶にすり変わって、なんとなく腹が立った。


「なあシエル、本当に大丈夫なんだろうな?」


 前の座席から、キルの声がした。隣にいるシエルに、小声で話しかけている。


「私はあんたの補佐が仕事だから、シエルが舵を切った方に私も進む。しかしリミットは明日だぞ……」


「分かってる。大丈夫だよ」


 シエルは堂々とこたえた。後ろで聞いていた俺は、無言で神経をピリつかせた。どうやらなにか、作戦があるみたいだ。

 海行き決定から今日までの三日間、驚いたことに、シエルになんの動きもなかった。強いていえばキルが時々日原さんの家の様子を見に行っていたようだが、なにもせずに帰ってきている。ものすごく怪しいのはたしかだし、なんらかの作戦が動いているのは間違いない。日原さんには、一応外出は控えるようにとは伝えている。盗聴器は残機がないらしいから、盗聴の心配はないとは思うが、念のためそれも警戒するようにメールした。「大袈裟」だなんて笑っていたので少し心配だった。が、そのままなにも起こらずこの日を迎えたのだ。


 アンフェールが女王に即位するのは二十日である。それまでに彼女を暗殺しないと、シエルは処分される。だというのに、シエルはこの余裕だ。一時はもしや仕事を忘れたのではないかと思ったりもしたが、そんなわけはない。日原さんの家をチェックしているのだから、相手の動きは見ているのだ。

 しかし俺が作戦を聞いたところで、教えてもらえるわけがない。なにをするつもりなのか、こちらから気づいて止めるのがベストだったが、とうとう分からずじまいだった。

 シエルの動かなさも謎だが、アンフェールの方も問題だ。

 明日、スイリベールではアンフェール本人不在の即位式が行われる。アンフェールは女王になるのだ。しかし未だに専属SPが見つかっていない。こちらの件も心配である。

 後ろの席から甘えた声が聞こえる。


「ねえ陸くん。日焼け止め、塗ってくれる?」


「えっ……俺が塗るの?」


 どぎまぎしている陸の声を聞いて、俺は我に返った。ラルが陸の座席に擦り寄って、後ろから顔を出している。油断も隙もない。俺は慌てて注意した。


「こらラル! ちゃんと座らないと危ないだろ」


「もう、咲夜くんってばお固いんだから」


 ラルがむすっと唇を尖らせて、座席に戻る。俺は背面の座席に身を乗り出し、陸に聞こえるか聞こえないか微妙なくらいの小声で、ラルに呟いた。


「陸に方言聞かれて、会うの躊躇してたくせに」


「ずっと逃げ腰ではいられないのよ。そろそろ巻き返さないとね」


 陸の目の届かない席にいるラルは、同じく小声で、そのくせ堂々とツンとした顔をする。


「垢抜けない姿を見せてしまった分、それを忘れさせるほどの刺激を与えなくちゃ。今日は最大のチャンスなのよ」


 シエルのなんらかの作戦に加え、こちらにも気を抜けない。隙あらば陸に付け入ろうとするこの悪女から、幼馴染みを守らなくてはならないのだ。

 ラルの毒霧に当てられていた陸だったが、彼は照れ隠しのように鞄を漁りはじめた。


「そうだ、これを見てくれ」


 陸の鞄から出てきたのは、水鉄砲である。クリアブルーのボディにオレンジ色のタンクがついた、ハンドガン型のものだ。


「じゃーん! 俺専用陸戦型水鉄砲インターギャラクティックカスタムⅡ!」


「えっ? なに、なんだって?」


「これな、圧倒的水圧を誇るライフル型インターギャラクティックカスタムを、威力をそのままに軽量化するためにマズルだけハンドガン型に移植したんだよ。更に給水タンクを追加取り付けして持続力を強化。それとクランクトリガー式に改造して連射可能にしてみた」


「なんだって?」


 陸が生き生きと水鉄砲を自慢してくる。俺にはもはや内容を聞き取れなかった。

 やんちゃな性格の陸は、おもちゃを改造するのが好きである。勉強はできないくせに、こういう知識だけは豊富なのだ。違うところに活かせばいいのにと思うが、活かすところがこれくらいしかないから仕方ない。

 それにしても、あちこちに神経を張り巡らせるこの状況下で、陸だけが平和だ。不覚にもほっこりしてしまう。

 陸が鞄から他の水鉄砲を取り出す。


「これはシャルウィーダンス改。これも連射可能。水圧と給水量は劣るけど、軽いしなにより連射のスピードはピカイチだ。そんでこれがハイドロスクリュー・ローリング花吹雪。水流に回転が加わるタイプ」


「よくわからんが、すごいな」


 陸の説明はもはや耳から入っても頭に届かず、俺は間抜けな返事しかできなかった。

 しかし、俺たちを囲む暗殺者らは違った。


「なっ……これは! なんでこれがここに!?」


 前の座席から振り向いたシエルの目線は、陸の膝の上に置かれたインターギャラクティックカスタムⅡに釘付けになっていた。彼のただならぬ反応を見て、キルとラルが座席から立つ。


「どうしたシエル」


 キルが慎重に尋ねると、シエルも声を低くして、警戒気味にこたえた。


「この拳銃はスイリベール王朝のSP部隊が持ってる『銀河』と呼ばれる銃だ。銃弾に特殊な加工がなされている関係で、王朝の一部とSP部隊の幹部のみが知るルートで特注で製造されてるものだ」


「なんですって?」


 後ろの座席のラルが、珍しく真面目な声を出す。陸がぽかんとしている。キルも、顔色を変えた。


「……どうも、美月狙いのただの野良アサシンってわけじゃなさそうだな」


 俺はざわつく暗殺者三名を、呆れ目で見渡した。


「なにを言い出すかと思えば。これはただの水鉄砲だろ。いきなり変な冗談捩じ込むなよ、陸がリアクションに困ってるじゃねえか」


 するとシエルが、真剣な顔を俺に向けた。


「咲夜さんこそ、なんでそんな平和ボケしてられるんだ。これは間違いなく『銀河』だよ。このクリアブルーのボディにオレンジ色のパーツ。こんなおもちゃみたいなカラーリングの銃は、『銀河』以外に聞いたことがない!」


「いや、だからおもちゃだよ!」


 俺の言葉には聞く耳を持たず、シエルは探るような目を陸に向けた。


「油断していた。いや、させられていたと言うべきか。僕は陸さんに“あのメッセージ”を見せられて、君を仲間だと錯覚してしまった」


「あのメッセージ?」


 陸が小声で聞き返す。しかし、シエルはそれは取り合わなかった。


「この僕を罠に嵌めるとは、なかなかやり手だね。これを持ってるということは、スイリベール王朝のSP部隊のメンバー、或いは彼らと密接な繋がりのある関係者だろう?」


 その真剣そのものな声を受け、陸が目をぱちくりさせる。キルとラルが、真顔で陸の返事を待つ。俺は謎の緊張感に呆れ果てた。あまり陸を困らせるなと言おうとした、そのときだ。


「ふっ。よく知ってるじゃねえか。まあ、シエルはスイリベールの出身だもんな」


 陸が両手に持っていた、シャルウィーダンス改とハイドロスクリュー・ローリング花吹雪をぽいっと座席に放る。そして膝の上に放置していた、インターギャラクティックカスタムⅡを拾い、引き金に人差し指を通した。


「そのとおり。これは王朝SP部隊にのみ所持を許されている拳銃……『銀河』だ。オリジナルで改造を加えたから、今は『インターギャラクティックカスタムⅡ』と呼ぶべきかな」


 水鉄砲をくるんと指先で回し、彼は滔々と続けた。


「なにを隠そう、俺はスイリベール王朝SP部隊、特命事案特攻隊の分隊長だ」


 なんとノリのいい陸は、暗殺者たちの仮説にしっかり乗ってきたのである。

 幼馴染みの俺はすぐに冗談だと分かったが、他の三人は違った。全員が、電撃の走ったような顔で息を呑む。

 暗殺者らは、以前から陸のポテンシャルに注目していた。陸のあほらしい冗談を真に受けたのだ。シエルが目を見開き、声を潜める。


「なっ……! 特命……!? 聞いたことがない部隊だ。分隊長ということは下士官クラス!」


「そうだよ。軍曹だ」


 したり顔でふざける陸を俺が止める暇もなく、キルとラルはより顔を険しくした。


「待て……混乱してきた。りっくんは美月を狙ってたはず。美月とスイリベールに関係があるということか?」


「そうなるわね。美月ちゃんがアンフェールちゃんを素早く保護したのも、もしかして予め知っての行動だったのかしら。だとしたら、キルもシエルも王朝サイドに躍らされてたことになるわね」


「マジか」


 キルが眉間に皺を刻む。


「りっくんがフクロウの暗殺者じゃないのは分かってたけど……てっきり日本の野良アサシンだと思ってた。まさか海外の、しかもそんなでかい組織で地位まで持ってたとはな……」


「ええ、期待以上ね。ますます魅力的だわ」


 ラルが艶然と微笑むと、陸は一瞬どきっとした顔をし、それからすぐにノリよく余裕の笑みで返した。


「光栄だよ、ラルちゃん。任務のためとはいえ、この国にして美しい君と出会ったことは奇跡だろう」


「素敵ね……いいわ、私と組みましょう?」


 ラルは口元は微笑んでいたが、目つきは真剣な駆け引きの色をしていた。

 陸はふざけてキザな真似をしているだけなのだが、暗殺者たちはそれすらも真面目に信じてしまう。俺はこれ以上厄介な誤解が深まる前に、はっきりと空気を乱した。


「はいはい! そこまで。陸、お前コテコテの日本人だろ。なにがスイリベール王朝のSP部隊だよ」


 しかし、シエルが言い返してくる。


「スイリベールの王朝や政治家や軍隊には日本人は多いよ。二十年くらい前に反乱軍を抑えたのが日本人だった影響で、今も日本人を優遇するから」


 そういったって、陸は日本の一般人というのが現実だ。スイリベールのSP部隊どころか、陸は海外旅行すらしたことがなく、十六年間この町にいる。公園デビューから小中高と、幼馴染みで腐れ縁の俺は、こいつをずっと見ていたから間違いない。

 俺がなんとか誤解を解こうとしているというのに、能天気な陸は冗談を盛り上げている。


「俺が日本に長く住んでるのは、シエルが言うようにスイリベールが親日国だからだ。王家の関係者が反乱を避けるために日本に隠れる事態に備え、日本での暮らしに支障が出ないように整えておくのが俺の任務だ」


 よりにもよって、まさにアンフェールの状況を言い当てたような冗談だ。そのせいで、一同がざわつく。シエルが目に焦りを滲ませる。


「その事情を知ってるなら……本当なんだね。つまり僕の存在も、すでに嗅ぎつけていたわけだ」


「んっ?」


 陸が急に素の表情に戻る。シエルが暗殺者だとは知らない彼は、シエルの言葉の意味が純粋に分からなかったのだ。シエルが前の座席から前のめりになって捲し立てる。


「とぼけなくていいよ。陸さんがSP部隊のメンバーで、且つ王朝のために日本の状態を維持していたのなら、継承権第二位以降の勢力図は分かってるはずだ。僕が第二位の支持者から遣われてる、王女狙いの暗殺者だってことも、もうとっくに見抜いていたんでしょ。だからあのメッセージを僕に見せた」


 シエルはあっさりと、自身の正体を明かした。そしてまた「あのメッセージ」と口走る。なんのことだか、俺には全く心当たりがない。

 相変わらず調子のいい陸は、シエルのこの発言も遊びと捉えて乗ってくる。


「ようやく気づいたか。そうだよ、だからシエルを海に誘ったんだ。ここで決着をつけようと思ってね」


「く……っ、今まで泳がされていたというわけか。メッセージを見せてきたのも、僕に協力するつもりだったんじゃなくて、僕をおびき寄せるためだったか。嵌められた……。やはりこの男、ひと筋縄ではいかないな」


 シエルが青くなる。そこで、キルが口を挟んだ。


「ちょっと待て。りっくん、そんなら私やラル、それからサクの正体も、知ってたのか?」


「んん?」


 なにも知らない陸が目をぱちくりさせる。キルはラルと目配せし、頷き合い、そして話し出した。


「私とラルは、日本の国家公認暗殺者組織フクロウの暗殺者だ。そしてサクは……」


 キルの瞳が、俺に動く。


「サクは、フクロウのエージェントの息子だ」


「お、おい!」


 俺は思わず、座席から立ち上がった。それは、陸にも言っていなかったことだ。自分が暗殺者組織の関係者だとは言いたくなかったし、言ったところで信じてもらえるとも思えなくて、話していなかった。俺は咄嗟に取り繕おうとした。


「なに言ってんだよキル。そんな意味不明な組織あるわけねえだろ。陸も信じるなよ!?」


 我ながら情けないが、慌てて否定すると却って怪しい。

 陸がちらりと、俺を一瞥する。


「へえ、そうだったのか。それは気づけなかったな」


「陸! 信じるな!」


「それでシエルを匿っていたと。知らなかったよ咲夜。俺はてっきり、善人のお前がシエルに利用されてるだけかと思ってた」


「あっ……えっと……」


 俺の頭の中は大混乱だった。隠していた真実を勝手に吐露され、一気に余裕を失った。完全に焦って「信じるな」などと言ってしまったが、陸は冗談と受け取っている。


「そう。じゃあもう私も、ありのままの私を見せちゃおうかしら」


 ここへきて、ラルが素早く切り込んできた。


「陸ちゃん、私は別に、シエルくんとは協力関係にはないのよ。キルとの関係も、あくまで友人。仕事とは割り切ってるわ。私が今日、ここに出向いたのは……」


 陸が全てを見破っていると踏んだラルは、清楚ぶるのはやめたようだ。ラルの指先が、陸の頬に触れる。


「今日、ここに出向いたのは、他でもない。あなたと会いたかったからよ。私はキルもシエルくんも切り捨ててでも、あなたと組みたいわ」


「んっ、ううう……。そうか。それは都合がいい」


 陸はラルの刺激に戸惑いながらも、強気な態度で返す。キルとシエルの視線が、ラルに集中した。


「ラル! お前、私の味方じゃなかったのか!?」


「そんな……ラルさんは陸さんを取り入れるための最終兵器だと思ってたのに!」


「そもそも私はミスター右崎から頼まれてるわけじゃないもの。私は強い方の味方よ。当然でしょ」


「なんて強かな女だ」


 演技を捨てたラルにしれっと言い切られ、キルがギリギリと歯を噛み締める。

 そんな様子を横目に、陸がシエルを見下ろした。


「ちょうどいいや。なあシエル、ちょっと勝負をしてみないか?」


 陸に振られ、シエルが険しい顔で陸と目を合わせる。陸はニヤリと目を細めた。


「あんたはひとつ、誤解してる。それは俺があんたの敵で、あんたをおびき寄せるために海に誘ったという点だ。俺はシエルを処分する目的で、君を誘い出したわけじゃない」


「なんだと?」


「実は俺は、王朝の待遇に嫌気が差していたところでな。シエルの様子次第で、あんた側に寝返ろうかと考えてたんだ」


 陸がすらすら喋る。アドリブでよくそんな設定が出てくるなあと、俺は頭を抱えつつ妙に感心していた。


「この後、海でゲームをして、お前らが俺に勝ったら、王朝を裏切ってお前らについてやってもいいぜ」


「なに……!?」


 シエルが目を見張る。陸は水鉄砲をくるくる回して、堂々と続けた。


「その代わり、俺が勝ったら……そのときは、分かってるな?」


 陸の不敵な笑みを前に、シエルが一瞬固まる。そして意を決したように、こくりと頷いた。


「君は王朝のSPで、僕は暗殺者。君にとって害悪である僕が排除の対象になるのは、当然だ」


「分かってるなら話は早い」


 陸が水鉄砲をカチャッと手に構えた。


「海なら海の遊びで勝敗を決めるのが筋。水鉄砲で勝負だ。いいな?」


「なるほどな……」


 キルがちらりと、シエルに目配せをした。この勝負に負けたら、シエルはSPの陸から放ってはおかれない。

 少し不安げだったシエルだが、キルと目を合わせ、覚悟を決めて陸に向き直った。


「その勝負、受けて立つ。というか、受ける以外に道がない」


「なに。勝てばいいだけの話だ」


 キルもニッと口角を上げた。


「願ってもないボーナスステージじゃないか。SP部隊側の人間が味方につけば、王女暗殺は成功したも同然。サク、お前も十六年培った友情が大事なら、すべきことは分かってるな?」


 俺にまで視線を投げてくる。なんだか、面倒くさいことになってしまった。


「俺は王女暗殺には大反対だから、陸の味方だぞ」


「なんだと。サクはフクロウサイドなんだから私の味方をしろ!」


「何度も言ってるとおり、俺はキルの仲間じゃない!」


 そうこうしているうちに、バスが停車した。陸が座席を立つ。


「着いたぞ!」


「海……! いよいよ勝負の時が来た」


 次にシエルが、そわそわと立ち上がった。続いてラル、キルと腰を上げる。


「ふふっ。わくわくするわね」


「よっしゃ、負けらんないな」


 バスのドアへ向かう通路で、キルが悪魔のような片笑みを浮かべた。


「派手にぶちかまそうぜ」


 こんなの、俺はどうしたらいいのか。このルールだと、キルとシエルが陸に勝てば陸が巻き込まれてしまうのだから、陸が勝てばいい。まさか陸が本当にスイリベール王朝のSPなんてことは有り得ないのだから、陸が勝ったところでシエルがどうにかなるわけではない。

 問題は、逆のパターンだ。


「なあキル。仮に、キルとシエルが勝って陸を服従させたとするじゃん。でも実は陸はスイリベール王朝なんかなにも知らなかった、としたら、どうするんだ?」


 先へ行くキルに小声で聞くと、キルはちらっとこちらに目をやった。


「りっくんが約束を破って、協力してくれなかったら、ってこと?」


 ちょっと捉え方がずれているが、結果としては同じだ。

 仮に、陸が勝負に負けたとしよう。その場合、陸は協力などできない。彼は本当になにも知らない一般人なのだ。陸からすれば遊びでも、キルとシエルからすれば、約束を破られたことになる。

 キルは陸が降りたバスのドアを一瞥した。


「スイリベール王朝に不都合な情報を叩き出す。口を割るまで拷問。本当になにも知らないなら、死んでもらう」


 しれっと言葉にするには、恐ろしすぎる単語だった。俺はしばし、硬直していた。


「そこまでしなくても……」


「そこまでするだろ。だって、りっくんには私たちの正体を明かしちゃったんだぞ」


 この勝負、万が一キルとシエルが勝利してしまったら、ただの一般人の陸は拷問にかけられて殺される。俺は頭を抱えた。どうやって切り抜けたらいい。勝負そのものを無効にするか、なにがなんでも、陸を勝たせるか。

 俯いていると、キルがぽんと俺の肩を叩いた。


「なんてね。冗談だよ、りっくんを殺しはない」


「え……?」


 俺は恐る恐る顔を上げた。キルがにこっと目を細める。


「りっくんは身体能力が高いから、スイリベールの件関係なく、使えるなら使いたいというのが本音だよ。ひとまず王朝から引き離して、フクロウにスカウトするさ」


「そうなのか?」


「とはいえりっくんは地位のある人間だから、味方に取り入れたつもりでも、反対にこちらが探られて裏切られる可能性は充分にある。そうなればシエルは大打撃だし、フクロウも危うい。りっくんは、美月とスイリベール王朝に関連性があると知っていて、美月を狙っていた。フクロウの情報が日原側に売られたらまずい」


 キルは腕を組み、先に行ったラルを目で追う。


「いずれにせよ、りっくんに妙な動きがあればラルが察知する。王朝の待遇に不満があるというのが本当なら、フクロウの一員として迎え入れようじゃないか」


 ラルが素早く陸側についたのは、そういう目論見があったからなのか。とりあえず、陸がすぐに殺されてしまう心配はなさそうだ。

 そこへ、陸の平和ボケした声が飛んできた。


「おーい、早く降りてこいよ」


 始まる前から疲れてきた。ため息とともに、座席を立ち上がる。重い足取りでバスを降りて、直後、俺は目を細めた。照りつける日差しが、肌や髪を焼くような勢いで降り注いでくるのだ。

 バスの外には、晴れ渡る青空と潮の香りと、さざめく青い海が広がっていた。砂浜にはすでに、海水浴客がぱらぱら集まっている。白っぽい砂浜にカラフルなパラソルが無数に開いていて、その鮮やかな色が眩しかった。

 移動のバスの中では緊張感を滲ませていた暗殺者たちだったが、海を目の当たりにする頃には勝負心を燃え上がらせていた。


「行っくぞー! りっくん獲得は絶対外せないぞ、そのためにもまずは準備体操からだー!」


 キルが砂浜へ駆け出しながら、犬耳の外套を脱いだ。続いてキャミソールを脱ぎ捨て、ショートパンツもするりと下ろす。中に着ていたワンピースタイプの白い水着が露わになる。その上からふわっと、オレンジ色のパーカーを羽織る。

 走りつつ服を脱ぐという器用な技に、俺も陸も驚かされた。立ちすくむ俺の横で、シエルがバッとシャツを脱ぎ捨てた。


「キル先輩、その早着替えはまさか縄抜けの応用?」


 シエルも中に深緑色の水着を穿いており、キルと同じようにパーカーを身に纏っていた。白と黒のボーダー柄のそれを翻し、ビーチサンダルでキルを追いかける。パーカーが浮くと覗くシエルの背中は、アンフェールと同じくらい色白だった。肌が浅黒いシエルだが、やはりあれは日焼けによる色だ。本来は、双子であるアンフェールと同じ肌の色をしている。

 そんなことを考えていた俺は、我に返ってふたりが脱いだ服を拾い歩いた。のそのそ屈んで歩く俺の横を、ラルがすたすたと通り過ぎる。


「全く、野生児たちは野蛮ね。私はちゃんと更衣室で着替えてくるわ」


 通り過ぎたくせに、ラルは俺の前で立ち止まり、前屈みになった。薄手のTシャツの襟周りからちらりと胸元を覗かせ、陸に届かないくらいの小声で囁く。


「水着、一緒に選んでほしかったんだけど、咲夜くんたらバーベキューにばっかり気を取られて見てくれないんだもの。まあ、楽しみにしててくれたなら嬉しいけど」


「お前な……」


 陸を手中に収めようとしつつも、俺にまでちょっかいをかけてくる。


「そういうの本当やめてください」


「あら、つれないのね。照れ屋さんなんだから」


「拒絶だよ」


 俺が威嚇すると、ラルはわざとらしく肩を竦めて、くるりと背を向けた。


「陸ちゃん、おじさんのお店って、あそこに見える海の家よね」


 ラルが指さす方には、平たい屋根の小屋がある。鮮やかな色のパラソルと潮風に揺れる「氷」の旗を見ても、陸から見せてもらっている、動画で見た店で間違いなさそうだ。


「そうそう、あそこだよ。更衣室もそこで借りられるぞ」


「ふふ。早速ご挨拶に行かないとね」


 ラルは軽い足取りで小屋へと歩き出した。ラルが歩くと海水浴客の視線が彼女に集中する。隠密の存在である暗殺者としてどうなのだろうと思うが、ラルから滲み出す色気は、他人からの注目を浴びやすいのである。特に海水浴場なんてナンパの温床だ。ラルはあっという間に声をかけられていたが、今のラルは遊んでいる暇はないので冷たく突き放していた。

 俺はそんな光景を眺めつつ、キルとシエルが脱ぎ捨てた服を拾う。キルのショートパンツを回収し終えたところで、陸が後ろから話しかけてきた。


「いやあ、楽しくなりそうだな」


「陸……ごめんな、こんなことになって」


 俺は即座に謝った。キルが口にした、「拷問」「死んでもらう」という言葉が頭の中を渦巻く。冗談だと言っていたが、裏を返せば、それもありうるような勝負であるということだ。

 当の陸はへらへらしている。


「なんで謝るんだよ。俺は、あいつらが面白いから誘ったんだ。いきなり始まったからびっくりしたけど、仲間に入れてもらえて嬉しいよ」


 陸は水鉄砲を片手に、機嫌良さげに言った。


「キルもシエルも面白いこと考えるよな。国家公認で暗殺者がいるとか、スイリベールの王女暗殺とか、あんなにガッツリ設定作りこんで。しかも演技もやたらと上手で。ラルちゃんも乗っかってるしさ。俺の呼び方も、『くん』から『ちゃん』に変わって、それはそれでグッとくるよな」


 キルたちの話が全て本当だったとは知らずに、呑気に水鉄砲をくるくる回転させている。


「でもいちばん面白かったのは、咲夜が暗殺者のエージェントの息子ってやつ。どうしたらそんなキャラになるのやら」


 陸に言われて、俺は苦笑しつつ問うた。


「それ、もし本当だったらどう思う?」


「ん? おじさんが暗殺者のエージェントで、咲夜がその息子だったら?」


 陸は遊びだと思っていても、悲しいことにこれは事実だ。言っても信じてもらえないわけだが、騙しているみたいでもやもやする。陸は数秒もかけず、即答した。


「『全然似合わないな』って思う! そんだけ!」


「そんだけ!?」


「うん。だってそうだったとしても、なんも変わらんだろ」


 そう言って、陸はぐっと伸びをした。

 俺はキルとシエルの服を抱え、ぽかんとした。こいつは俺が人殺し組織の家系に生まれていたとしても、なにも変わらないのか。

 今はこう言っていても、事実だと知ったら流石に違うかもしれない。そのときになってみないと分からない。だが、陸は俺の母さんが亡くなったときも、変に気を遣って慎重になったりはせず、それまでと変わらない態度でいてくれたな、なんて思い出した。

 陸が足首をぐりぐり回して、腰を屈めた。


「ちょっとキルとシエル捕まえてくるわ。あいつらもおじさんに挨拶しに行かねえと」


 低姿勢で的を定めた陸は、直後、目にも止まらぬ速さでヒュッと俺の横から消えた。残っていたのは、脱ぎ捨てられたビーチサンダルだけ。


「とりゃあー! 捕まえたぞ」


「びえええ」


「おわあああ」


 陸の楽しそうな声と、キルとシエルの叫びがこだまする。あの素早い暗殺者たちを捕まえられるとは、陸は本当にSPに向いているかもしれない……なんて、思ってしまった。

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