第7話 穢れ
半六は五歳までは忍びの郷で暮らしていた。風邪や高熱が出ると皆が代わるがわる看病してくれた。まだ青年だった藤夫も冷えた布の交換にきていた。
――夜中、目が覚めると額に濡れた布を替える者がいた。布の隙間から男が座っているのが見える。着ているものは表家が着ないような上等な羽織だ。裏家の者だと思った……。裏家に住む者はわざわざ表家には来ることはないはずだ。その頃は分からなかった。ただこの忍びの者は誰なのだろうと思った。
そうか……あれは、茂吉さんだった。
意識が朦朧としながらも、
郷から戻った時、もしも十和がいなかったら。俺はそのまま自死していたかもしれない。どうして茂吉さんはあんなことを語ったのか、知りたくなかった。
「お前さんにすっかり世話になっちまったな」
半六は寝床から起き上がり、梅干しと鰹節がたっぷりのったお粥を食べた。
「だから十和ですってば。夫の病気を看病するのは妻のつとめです」
十和は目を吊り上げ、キリっとした顔で半六を見る。
「ははは」
「もう、そこ笑うところじゃないです。でもいいわ。名を呼んでもらえなくても私はめげる気はないですから」
「お前さんは強いな……」
「私は強くないです。半六さんが弱いんです」
「なに? ワシが」
「そうですよ。自分が穢れ者だと言って私を遠ざけて」
「……ワシは、人殺しだ。生まれる子供が可哀そうだ」
「半六さんが快楽で人を殺めたならお断りだけど、孤児で間者として育てられ、拒否もできない状況で与えられた任務を遂行した。失敗すれば自害するしかない危険な仕事をあなたはやり遂げただけです。それも含めて私はあなたの妻になりたいの」
「ワシは……お前さんには幸せになってほしいだけだ。こんな穢れ者なんかより普通の村の男に嫁いで間者のことは何もかも忘れろ。あんたは少しばかり縄を緩めただけの男に恩を感じる必要はない」
「一切を忘れて普通の娘などなれない。私がどれだけ半六さんの言葉で生きる希望になっていたか。人の幸せを勝手に決めつけないで。半六さんが穢れているって……じゃあ帝は間者に依頼して穢れていないって言うの?」
「神と同等の帝と孤児のワシらを一緒に並べるな! 言葉を慎め。殺されたいのか!」
「いいえ。黙りません! 間者が陰の仕事を引き受けるから民は安寧でいられるのでしょう。事実、民は不要な争いに巻き込まれていないじゃない。平和でいいことよ。違うでしょ。あなたが私を避けるのは別の理由があるのよ」
「……!」
「あなたは郷から帰ってきた時、死ぬ気だった――」
「……」
「どうして……何があったの?」
急に足音が近づいて、振り向くと郵便脚夫の竹道さんが血相を変えて入ってきた。いつもなら足音を立てないので、ただ事ではないと緊張が走った。
「大変だ、郷がやられた。何者かが火を放って大火事になった!」
***
体調が優れないまま半六は一人で再び郷に帰った。
風が強い。もう冬の訪れなのか、空っ風が吹き、空気は乾燥している。山火事は、燃え広がるのに時間はかからなかった。忍びの郷は炎と煙の中では無力で、何も残らなかった。
(茂吉さんの告白で、もう二度とここに来るつもりはなかったのに……)
五歳までしか住んでいなかったが、故郷と呼べる場所はここなのかもしれない。もう何もない。
民家があった場所を確かめるように歩くと、藤夫が佇んでいた。藤夫は半六を見つけると気持ちを落ち着かせようと
「みんなの安否は?」
「米子姉さんもワシの妻も無事だ。他はみな年寄りじゃ。逃げ遅れた者が数名いた。茂吉さんはダメだった。もともとあと数日の命だったが、楽に逝かせてやりたかったがなぁ……」
「どうしてこんなことに?」
「大量の油をまいて火を放った者は捕らえようとしたら自害したぞ。確か三人組の男だったか。随分、痩せていたぞ」
半六はぞわっと鳥肌が立った。
「……まさか、ワシを襲った三人組か⁉ 奪った財布で油を購入したのか?」
(ああ、俺は何という失態をしてしまったんだ……)
激しく動揺して頭を抱える半六をみて藤夫は諭すように言う。
「半六、自分を責めるな。遅かれ早かれここは見つかっていたぞ。なぜなら日ノ国軍に入隊した元間者が酒の席で郷の話をしてしまった。偶然聞いた、家族を殺害され間者に恨みを抱いていた親戚や、没落貴族などの反勢力の残党が犯行に及んだそうだ」
「そんな……。こんなことになるなら、襲われた時、やっぱり仕留めておけばよかったんだ。あれほど藤夫さんに注意されていたのに……」
「いいや、間者の統率力がなくなったのが原因さ。もう終焉を迎えていた。瀕死の郷に留目を刺されただけだ」
「でも……」
バシッ
藤夫は思いっきり半六をひっぱたいて両手で胸ぐらを掴み凄んだ。
「違うっ。これは間者の運命だ‼ 抗うことなどできぬ。逆恨みが帝へ向かわないならこちらとて本望だ。忘れたのか? ワシらは幼い頃に死ぬはずだった。その時から帝に命を捧げたのだ。たとえ命を落とそうとも帝の命を救うのが間者の天命だ。そのためには人を殺し蔑まれようとも構わない――」
「藤夫さん」
「ワシらはどんな死に様になろうと文句は言えん。さんざん人を殺めてきたからなぁ……」
藤夫は寂しそうに笑い、手を離した。半六はその場でへたり込んだ。
「それにな、半六。間者の時代は終わった。半六には暁村の土地をやるから足を洗って十和と幸せになれ」
「無理だよ。俺は……疫病神だぞ」
「ワシらは骨の髄まで間者さ。だがおめえは違う――。もう会わない方がいいだろう」
藤夫は一度だけ振り向き、荒涼とした、跡形もなくなった郷を去った。取り残された半六は茫然と立ち尽くす。枯れ葉がカサッと音がしてので人の気配を感じた。
「疫病神だなんて何よ、それ……」
後ろを振り向くと、十和がいた。
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