day:1 イオス島:リーネ家

PM18:40 栄養管理はバッチリです

 優しそうな女性だな。というのが兄の手紙から受けた印象だった。


「初めまして! ジェイドの弟のクリスティアルと申します。お会いできて光栄です。お義姉ねえさま!」


 恭しく差し伸べたヒースの手に、彼女は手を重ねる。レースの手袋越しにもわかるほどに指が冷たくて、ほんの一瞬躊躇したが、途中で止めれば失礼になる。ヒースは敬愛を込めて彼女の手の甲に口づけた。

 彼女の華奢な手が居心地悪そうにぴくりと跳ねたのを見て、少し馴れ馴れしかっただろうかと、ヒースは恐る恐る彼女の顔を見上げる。唇に残る痺れのような冷たさとは裏腹に、彼女は熱に浮かされたような惚けた顔で、ヒースを見下ろしていた。


「お義姉さまだなんて……」


 溢れた声は批難めいている。そう名付けて定義して、そこから踏み込むことは許さないという予防線を張られたことを、彼女は理解したのだろう。触れたままの指から不穏な湿度と寒気が伝う。彼女は悲しげに眉尻を下げて眼を潤ませた。まるで氷の彫像に熱く愛を囁いているかのように、互いの思いの間には奇妙な温度差があるように思えた。


「すみません。気が早かったですね。兄さんが結婚すると聞いて、とっても嬉しかったものですから……」


 言葉通り、ヒースは兄の婚約を心から祝福していた。王族を警護する仕事上、結婚式当日に参列できるかわからなかったので、第一報を聞いて、すぐにお祝いに駆け付けるぐらいに。


 シュセイル王国からローズデイル大公国として独立して約二十年、前大公の父が亡くなってから八年、兄は国と民のために人生を捧げてきた。その兄が、自分の幸せを考えて、自分の家庭を持ちたいと考えられるようになったということが、自分のことのように嬉しかったのだ。


 けれど、それはヒースの事情であって、彼女の与り知らぬことである。大公妃になる女性に、今以上の負担を掛けるわけにはいかない。

 曖昧に笑って手を離そうとすると、彼女は指を絡めて捕まえる。先程の仕返しとばかりにヒースの手の甲をするりと撫でた。


「いいえ。いいのよ。親しんでくださって嬉しいわ。どうぞよろしくお願いいたします。クリスティアル様……とても、綺麗なお名前ね」

「ああ、はは……ありがとうございます。クリスティアルという名は父が付けたのですが、僕にはちょっと過分というかキラキラし過ぎというか……なので、親しい友人は僕をミドルネームのヒースと呼ぶのです。リリティナ様にもそのように呼んでいただけたら嬉しいです」

「あら嬉しい。では、そうしましょう」


『素朴で、奥ゆかしくて、あたたかい女性だよ。特に会話が無くとも苦にならず、自然と寄り添えるような……そんな女性だ』

 兄は彼女をそう評した。しかし、実際に会って真逆の印象を受けたヒースは笑顔の裏に戸惑いを隠す。積極的にヒースの手を引き寄せ、両手で握りながらじっと眼を見つめる彼女が奥ゆかしいとは? 別人ではないかと疑ってしまう。


「でも、クリスティアルというお名前も貴方によく似合うと思うのだけど。貴方の眼は宝石のようにキラキラしていて好きよ」

「……お褒めいただき光栄です」


 ――兄も、僕と同じ色の瞳をしているんですよ。ご存知でしょう?


 たとえ、兄弟間に波風を立てようと、恐れずにそう言うべきだったと今は思う。自分の直感に何度も救われたはずなのに、兄が選んだ人に間違いがあるはずがないと思い込んで、ヒースは自分の心の声を無視した。

 もし、自分の直感を信じて兄に進言していたら、結果は変わっていただろうか? それとも、もっと酷い結末を迎えたのだろうか? いくら考えても答えは出なかった。



 ††



 従兄弟いとこの家に居るという安心感と部屋の暖かさが緊張をほぐして、ヒースが眠りに落ちるまでそう時間はかからなかった。

 リビングの時計は十八時四十分。ヒースが物音に目を覚ました時には、外はすっかり暗くなっていた。ソファから起き上がると肩から毛布が滑り落ちる。アルファルドがかけてくれたようだ。相変わらず、優しいのか冷たいのかわからない奴だなぁと、ヒースは自然と笑みが溢れるのを禁じ得なかった。


 勝手知ったる他人の家。洗面所で顔を洗ってキッチンに行くと、アルファルドは大きな鍋の中身をかき混ぜていた。クリーム系のスープだろうか、どこか懐かしいミルクの甘い香りがヒースに空腹を思い出させる。


 キッチンの中を忙しなく動くアルファルドの足元には、小柄な魔狼が一匹纏わりついていた。オリオンの仔のカリストである。

 カリストはアルファルドの魔狼の中で最も若いため、人の世界について勉強中だそうだ。特に命令が無い待機中も影に帰らず、なるべく主人の側に付き添っている。


 今は味見のおこぼれを狙っているのか、後ろ足で立ってカウンターの上に頭を出し、アルファルドの手元をじっと見つめている。時々、前脚でとんとんとアルファルドの腕を叩いて『それ、ちょうだい』と目で訴えるが、甘やかさないように無視しているアルファルドがつらそうだ。


 調理中は刃物や火や油も使うので、近付き過ぎると危険である。ヒースは料理に夢中なカリストの背後に忍び寄り、素早く腹に腕を回して抱きかかえた。邪魔されたカリストは、不機嫌そうに鼻を鳴らして脚で空を掻いている。


「ごめん。爆睡して今起きた。何か手伝う?」


 ヒースが声をかけると、アルファルドはカウンターの上の籠とハサミを指差した。


「庭から好きな野菜を何種類か取ってきてくれ」

「はーい。何作るの?」

「サラダとオムレツかな」

「わかった! 合いそうな野菜を探してくるよ。よーし、僕と一緒にお庭に行こうねカリスト! 何があるかなぁ〜?」


 籠とハサミを受け取ると、ヒースは勝手口から裏庭に向かう。カリストも渋々付いてきて、食べ頃の野菜がある場所に案内してくれた。

 この家の裏庭はアルファルドの家庭菜園になっている。愛するセリアルカに美味しいものを食べさせたいと、樹の魔法をフル活用し、土や肥料や水にもこだわって畑を作ったとか。

 当のセリアルカは『美味しいけど、胃袋掴まれてるのが怖い』と言っていたが、季節に関係なく常に数種類の野菜が収穫できて、食費が助かるので黙っているそうだ。


 ヒースが収穫したカブやニンジン、大根などの根菜は蒸して温野菜サラダになり、ほうれん草はベーコンとチーズと合わせてオムレツになった。アルファルドがサラダ用のディップソースを作っている間に、ヒースは食糧庫からワインを持ってきてテーブルをセットする。食器棚からグラスを三つ掴んだ時、ふと、家主のことを思い出した。


「ねぇアル。グラスは三つでいいんだよね?」

「二つでいい」

「えっ……そう、わかった」


 この家の持ち主、セリアルカ・リーネは今夜も帰ってこないらしい。普段のアルファルドなら、彼女の帰りが数分遅いだけで迎えに出るのだが……。


 ――喧嘩? これは、絶対なんかあったでしょう!?


 まさか、自分が根掘り葉掘り訊く側になるとは思わず、ヒースは複雑な思いでいつもより余計にグラスを磨いた。

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