第22話 偽装彼氏獲得交渉の成立
氏は「ええと、話が少し飛躍したかな……」と言いながらポリポリと頭を掻く。
「君は……いわゆる毒親に育てられたせいか自分に自信が無さそうなところは心配だが、その分、謙虚だ。だから、自分以外の事物や人間に深い興味を寄せる。自分がダメ人間だと思い込んでいる劣等感は痛ましいが、その結果として自分以外の事物を咀嚼し理解する姿勢が身についているのはとてもいいことだと思う」
そうなのか……。由梨さんも美希のことを解像度が高いと褒めてくれたが、それは母からダメだダメだと批判され続けてきたことの副産物であったらしい。
「君はこれまで謙虚に視野を広げて様々な知識を得てきたから話題の引き出しが多いし、これからも相手の出した話題を聞いて、さらに自分を豊かにしていくだろう。それを苦にせず楽しみながら」
「そうですね……」
人の話を聞くのは好きだ。それは確かだ。
「うん、君のような人こそ弁護士になるべきだ。助けを求めて来た人の話に真剣に耳を傾け、そして解決策を考える。その積み重ねがますます君を優秀にする。人当たりもいいことだし、君にはうってつけの仕事だ」
氏の話はまたもピョンと跳躍する。
「君、ちゃんと学校に来てるね。キャンパスで見かける」
「はい。あの……、食堂での騒ぎの時も『学校に来い』とおっしゃってましたが、なんであの場面でそう言ったんですか?」
文脈も分からなければ真意も分からなかった。ただあまりに正論なので納得はしたが。
氏は憂い顔で、コップに伸ばしていた指をそのままテーブルに落とす。
「男女間のトラブルでは女性がその集団を辞めてしまうことが多い。大学なら退学だ。それが女性に偏っている現状をおかしいと思う。男女どちらも学ぶ機会を捨てるべきじゃない」
氏は指を一本立てると美希を指す。
「君だって未来の弁護士としてこれから多くの人を救って行くはずだ。絶対に大学を辞めちゃダメだ。そう思ったし、今もそう思う」
美希は自分に長所があると指摘されるのはありがたいと感じるが、こうも期待されると不安になる。子どもの頃からそうだ。相手の期待に添えなかったらどうしようと落ち着かなくなってしまう。
「でも、私、家の遺産問題で法律に興味は持ちましたが……」
確かに自分は実家の事情で法律学を目指すことにした。だけど、最近、かすかに不安を感じる。まだモヤモヤとしたものにすぎず、普段の美希ならこれくらいで人に打ち明けることはない。けれども、この武田氏との会話では自然と口が開いていく。
「私、勉強してるうちに自分が法律学に向いているか疑問に思えてきて……」
「理由は?」
「講義が抽象的過ぎて……。法と道徳の違いとか、正義とは何かとか。ジョン・ロールズという人がとても立派なリベラリズムの人なのは分かりますが……」
氏は「うーん」と唸った。
「さすが法律を専門にする学部だけあって奥深い所から学ぶんだろうな。俺も、建築士の試験に建築法規が含まれるので勉強しているが……」
「へえ。建築士になるのに法律も勉強するんですか?」
「そうだ。俺からすると法律の勉強はめちゃくちゃ細かい事実で埋め尽くされているように思えるがな。建築物の条件って分かるか?」
「スミマセン、知らないです」
「法学の抽象的な議論を始めたばかりだもんな。建築物はまず『人がつくった工作物』を指す。『自然の洞窟』なんかは建築物じゃない。そして『土地に定着したもの』。だから車や列車は建築物じゃない。そして『屋根』とそれを支える『柱』や『壁』のあるものだ。建築基準法の基本定義だ」
「具体的ですね」
「法学部ってこういう細かいことをガンガン覚えていくんだと思ってたよ」
「私も、弁護士って法の条文を武器に闘う人だと思ってたんです。『○○法の第何条によれば』って決め台詞とともにトラブルをスパっと解決するヒーローというか……」
氏は「分かる、分かる」と苦笑しながらコーヒーカップを手に取った。
「世間は専門家にドラマティックなイメージを抱くよな。そんなカッコよさに惹かれて弁護士になろうとする人も多いだろう。建築家も芸術家肌で文明に知的なコメントをすると憧れられがちだ」
「でも、学問って本当は地味なんですね……。高校までの受験勉強が得意だっただけの私に、高邁な学問を学ぶことなどできるのでしょうか……」
氏は難しい顔でコップを戻し、しばらく黙った。
「その問いは重要で、そして一生ついて回ると思う。だが、大学生活において少々君よりも先輩である俺が思うには」
「はい」
「ウチの大学は教養主義が強い。ちょっと強すぎるかもしれない。どの分野でも深遠な話から始めようとする。その学問の根幹をなす抽象的な議論も大事ではあるが、そこで具体的な魅力を感じ損ねて学問が嫌になるようでは本末転倒だよな」
「他の分野でもありますか?」
「うん。まあ、座学とかだとね。だから君みたいに『俺は建築が面白くないのかも』と自問自答したこともあるさ」
美希はそっと自分のカップを手に取った。冷めてしまったが、ミルクと砂糖を多めに入れたので気にならない。
「今の君は、学問のための学問ばかりでモチベが湧かない状態なだけだと思われる」
「ああ、『学問のための学問』ですか、なるほど……」
それは美希の感じている何かを言い当てている気がした。
「どうだろう、専門科目の授業に潜り込んでみたら? 実践的な内容の講義に触れればモチベも上がるんじゃないか?……あ!」
氏は勢い込む。
「それこそ君には学部の先輩がいるじゃないか。同室の和田さんに聞けば詳しいだろう。他学部の俺が言うまでもない」
「ああ、和田さん!」
「俺に出来ることなら……。俺が入っている建築法規の勉強会に君も参加できるように仲間に聞いてみようか?」
美希が「はい」と答えると、氏は満足そうな表情でカップを再び手に取った。リラックスできるようになったみたいだ。美希もミルク入りコーヒーを一口すする。
「ウチの寮のFPさんが言ってました。大学の授業料ってサブスクリプションだって。定額払えばあとは講義の受け放題だって。だったら、私も学費分の元を取らなきゃ!」
氏は声を立てて笑った。
「FPらしい言いようだな」
「でも、筧さん自身の大学は経済専門で、学内で受けられる講義の内容の幅が狭くて損しているって不満を漏らしていました。西都大みたいに大規模な総合大学はお得でいいなって」
氏は「確か……」とスマホで検索を始める。
「京都の大学同士で単位互換制度がある。『大学コンソーシアム京都』というサイトに色々載っているぞ。あ、この芸術関係の講義、面白そうだから俺が受けてみたいな」
「ああ、建築も芸術だから……」
ふと、武田氏は顔を上げ、まっすぐに美希を見た。
「そうなんだ。芸術だから作品を見て眼を肥やすことが重要なんだ。優れた建築を自分の目で実地に見、そしてモチベーション向上を図りたい」
「でしょうとも。さっきのお話のように、厳しい学問の世界で地味な座学ばかりしてては心が折れるかもしれません」
美希が抱えていた問題は同じ大学生の武田氏にも当てはまる。ただ、氏の場合は立ちはだかる壁がもう一つ別にあった。
「それなのに、俺は女性が集う建築物に入ることができない!」
それは本当に気の毒なことだ。未来の弁護士を憂いてくれたお返しに、美希も未来の建築家を助けて差し上げたい。
「今日のイノブンみたいに私が偽装彼女になってお連れしますよ? 女性用トイレは無理ですが」
「俺も女性用トイレを見ようなぞ全く思っていないが、君の提案は望むところだ」
氏は切羽詰まった視線を美希に向けた。
「君に頼む。俺を『長楽館』に連れて行ってくれ!」
「チョウラクカン?」
「その代わり、偽装彼氏の件、俺が全力で引き受けるから!」
美希は頷いた。長楽館がどんな建築なのか知らないが、女性が一緒でないと入れないのなら、連れて行ってあげようではないか。
「では、互いに互いの偽装彼女と彼氏の役割を担いましょう」
武田氏も真剣に「うむ」と首を小さく縦に振った。フランソア喫茶室の夜。こうして交渉は成立したのだった。
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この小説は鷲生の実体験がベースにあります。
その辺のエッセイもございますので、よろしければお立ち寄りくださいませ。
「(略)下鴨女子寮へようこそ」へようこそ!」
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