7. 見果てぬ夢は
帳学園高校の図書室はけっこう広い。
主に使われるのは奥のスペース。テーブルが6つほど広々と並んでいて、雑誌や本がぐるりと周りを取り囲む。カウンター近くの手前にはと童話や絵本のコーナーまである。
その図書室奥の、雑誌の棚の裏のカウンター側からは死角になっているスペースを使うことにしたのは、待夜先輩いわく、
「一旦会う場所を変えましょう。ほかの生徒にはすぐにばれるでしょうから、一時的な措置ですが」
とのこと。
つまり、今日の勉強会は一度きりの図書室開催というわけなのだ。
まだ先輩は来ていないみたいだな、と確認すると、横の壁にずらりと並ぶ本をしばらく探索することにする。
宇宙関連の本もいっぱいある。
ためしに大きな図鑑を手に取って見た。広大なる宇宙を写し取った写真。なにより好きな、憧れてやまない景色のはずなのに。
ふいに、きゅぅぅぅって胃が狭くなるような感覚が襲う。
高一の5月も終わろうとしている。文理選択まであと半年をきった。今年の中間地点までにあたしは、結果を出さなくちゃならないんだ。
時間が、ない……。
背中に、ふわりと手が添えられた。
「力を抜いて」
「はぅわっ!」
そんなふうに触れられて耳元で囁かれたら、よけい力入るわっ!
「文理選択で理系を選択するために、杏さんは、とてもよくがんばっています。ですが、あえて言いますね。――成功しなくてもいいじゃないですか」
いつの間にか現れた待夜先輩は、これまたいつの間にかあらゆる本棚から集めてきたのか何冊か本を手にしていた。
ぱらぱらとその中の一冊のページを繰っていく。
「幼い頃に読んだ本で、そのときにはいまひとつ理解ができなくても、数年経ってふとしたときに思い出した。そんな経験はありませんか。著者が物語に込めたメッセージかこういうことだったのかと彗星のように頭の中がきらめくんです」
それは男の子たちのポップなイラストが描かれた物語だった。
「『星の光は、もう何千年もむかしのものなんだって。あの星の光がぼくたちのもとにとどくまで、それだけ長い時間がかかるんだ。だからほとんどの星は、キリストが生まれるまえに、もう消えてしまっているのかもしれない。とっくに暗くつめたくなっているのに、でも、その光だけは旅をつづけ、ぼくらをいまも照らしてくれてるんだよ』」
「――『飛ぶ教室』というドイツの児童文学の中に登場する言葉です」
「『宇宙はタイムマシン』という、天文物理学者のジョージ・スムートの言葉もあるように、莫大な距離ゆえに、星の光が遅れて地球に到達するのはほんとうです」
あ。それ。
今日の講義で登場予定の名前だったから予習してきた。
さいしょは、常時・スマート? ダイエッターかって思ったけど。
そんなすてきな言葉を残した人なんだ。
「人々が力を尽くした書いた本や作り上げた作品には、時限爆弾の作用があるんです」
先輩は腕に積み上げた本を一つ一つ傍らのテーブルに置いて示していく。
黒猫が月明かりを浴びてたたずんでいる小説の表紙。
小さな薔薇をもった魔王のような人物が描かれた作曲家の伝記。
そして、ひまわりを描く男の人を描写した絵画が表紙になっている画集。
「『黒猫』や『モルグ街の殺人』などの怪奇小説を書いたエドガー・アランポー。のばらや魔王を作曲したシューベルト。ひまわりを描く画家仲間のゴッホを描いたポール・ゴーギャン」
それぞれの本が主要に取り上げている偉人の名を、先輩はすらすらと挙げていく。
「これらの本で取り上げられている人々はみな、生きているうちは評価されなかったんですよ。その命がこの世から潰え、時を経てようやく、人々は彼らを理解したんです」
瞬間。
黒猫のエメラルドの目が。
魔王の手の中の薔薇の鮮やかな露が。
絵の中のゴッホが見つめているひまわりが。
鈍くそして、芯のある光を放った気がした。
「自分の短い一生だけでは、もしかしたら大きな結果は結ばないかもしれない。でもその後生きる人たちがそれを受け継いで結実させたり、あるいはずっとあとに自分がしたことで笑顔になってくれたりするんです」
図書室の窓から柔らかな光が射しこんで、ヴァイオレットグレイの目に、菫の花のように柔らかな色彩を宿す。
「かつて地球上に生きていた人々の知恵や努力の結晶が、未来の誰かの暮らしに彩りを与えてくれている。そんな存在になれたらと思いませんか」
言葉がでなかった。
そう。それは。
今まで言語化できなかったけれどまさに、あたしが感じていたことだったから。
この人が教室に作り出した、壮大な宇宙を見たときから――。
思わず待夜先輩を見ると、ふいに、きらきらと注がれていたそのまなざしの光に、かすかな影が射した。
「オレはたまに思います。なにも全人類の頭上で未来永劫光り輝くような偉大な星でなくていい。同じ時代に生きる誰かにとってのかすかな光にもし、なれるのなら――」
その目は微笑んでいる。
でもどうしてか、声にさっきまでの力はなくて。
絶望の暗闇の中でこそつかんだ思考のきらめきのように、儚く響いて。
「どうして、そんなに悲しそうに語るんですか?」
疑問が、口からこぼれて出た。
「すごくすてきなこと言ってるのに。そんなふうに考えられるの、誰でもできるわけじゃないと思います」
かすかに見開かれた瞳が、ゆっくりと注がれる。
おせじじゃないですよ、とあたしはおどけて笑う。
「生きて、誰かを喜ばせたいって、そう思えてる時点で、もう半分は成功したようなもんじゃないですか。かっこいいとか頭がいいとか、そんな次元じゃなくて。そういう先輩の奥底を好きになってくれる人だってきっといると思います」
瞬間、その目の中の真珠がかしぐように揺れたのに、あたしは気がつかなかった。
「だから夢とか希望はもっと、楽しく語ってくれなくちゃ!」
とんっとその肩をたたくと、彼はおかしそうに笑った。
「困った人ですね、あなたは。今はオレが励ます役だというのに」
「甘い甘い! それならまずは先輩が、そんな寂しそうな顔してちゃだめですよ。情けないですねー、全国学力テストで総合一位だった人が」
さりげなく聞いた噂をぶっこんでみると、得意がるでも照れるでもなく、彼は少し困ったように微笑んだ。
「耳が早いですね」
「すごいじゃないですか!」
全国の同い年の中でいちばん頭がいいと言われて、なぜこんなに落ち着いていられるんだ。
この人は自分のすごさがわかっているんだろうか。
「運動神経も抜群、勉強も完璧って。待夜先輩っていったい、将来なにになるんですか?」
これでもかというほどたたみかける。快挙をあげた当人より、あたしのほうがよっぽど興奮している。
ところが先輩はいっこうに嬉しそうな様子を見せない。
「いいですか、杏さん」
それどころか諭すように、言う。
「この世界は広い。あらゆる分野でより優秀な人間など、知らないところにあふれている。このオレなど、ちっぽけで非力な存在にすぎないんですよ」
「でもでも! それでもこれだけ優秀なら、あるでしょ! 将来の野望とか、夢とか!」
彼は心持ち首をかしげて、そうですね、としばらく考えた後、
「とくには」
ええっ。
これぞ暖簾に腕押し、宝の持ち腐れだ。
「いや、だったら逆に訊きたいんですけど。これといった野望もなくて、なんでそんなに勉強できるんですか?」
「そうですね……強いて言えば」
彼は視線をあげて宙を仰ぐと、
「広い宇宙を前にして、焦っているのかもしれません。広大な世界のほんの一部であるこの場所で――制約された小さな世界で、一生を終えたくないという焦り、と言いますか」
その目に映る紫の中に、深い闇の色を見た気がして、なぜだか気分が落ち込む。
完璧な先輩もまた、なにかの制約を受けているのだろうか。
ぐっと、喉元になにかがせり上がってくる
それははじめての――伝えたいという、気持ち。
「あたし」
ふいに、言葉は零れ落ちた。
「あたし。……宇宙飛行士に、なりたいんです」
端正な目元がかすかに見開かれて、こちらに向けられたのがわかる。
「一度でいい。地球って星を、宇宙から見てみたいの」
一カ月前の、新入生歓迎会。
3Dを用いた技術で、教室内に投影された星空。広大な銀河の世界。
宇宙は人間の知能でも追いつかない神秘や謎に満ちていて。
その果てはどうなっているのか。
はじまりはどうだったのか。
いまだはっきりしない。
プロジェクターが映し出す星々に囲まれて、彼の解説をきいて、思った。
「今いる世界がちっぽけで、広い世界に愕然とする。胃の中のカメラ、体内を知らず、とかいうように」
「井の中の蛙大海を知らず、ですね」
「そう、それです。その言葉って、先輩が感じているように、広い世界はもっと厳しいっていう意味に使われることもあるけど」
あたしは顔を上げた。
まっすぐに彼を見て、笑う。
「あたしは、自分のいる世界は小さいんだなーって、実感することが、好きなんです」
先輩の瞳のなかのアメジスト色の真珠が、大粒になる。
「ここでは受け入れられなくても、見知らぬ土地とか、違った国や世界で、もっと自分にあう場所が見つかるかもしれないって。そう、思わせてくれるから。だから」
先輩ももっと、わくわくして広い世界を見てください。
そう、言おうとしたとき。
「……あなたという人は」
呆然としたつぶやきに、遮られる。
やっぱり、呆れられたかな。
あわてて、あははと笑う。
「や、やっぱり、夢のまた夢ですよね。こんなの。あはは……」
「いいえ」
深い森の中の泉のように、静かな声が、響く。
「壮大でありながら、これ以上ないほど、地に足のついた、希少な夢です」
きしょうって、珍しくて貴重って意味だっけ??
ほめてくれてるんだよね……?
脳内で辞書をひきながら、先輩の瞳を見つめ、思う。でも、それなら。
「待夜先輩、どうして、悲しそうなんですか……」
切なげな表情から目をそらすことができずにいると、先輩が軽く息を吐いた。
これは、悲しみではありません、と。
「これは、そう。憧憬ですね」
しょうけい。
憧れっていう字を書いたっけ……?
口の中でもごもごと呟くと、それであっていますと待夜先輩はうなずいた。
そして、片手を右目の上にかざして、
「あなたが、とてもまぶしい。オレには遠く及ばないところにいます。何億光年も離れているような」
どきりと、心がなにかを告げる。
こんなに真摯な目で、そんなこと言われたの、はじめてだ……。
いや、なに意識なんかしてるあたし。相手はこっちを捕食対象としか思ってない妖怪だぞ。
なにか言え、言うんだ。えぇい。
「じゃ、じゃぁ先輩も、いっしょに行きましょう! 宇宙!」
先輩はふっと悲しげに微笑んだ。え、なにこの顔。
やばい、ますます心臓から変な音がする。
「それができたら、どんなにいいかと思います」
「――?」
気になる口ぶりに、首をかしげる。
「宇宙では、オレたち種族は生きていくことができないんです」
あ――。
彼はラヴァンパイア。人間の恋心が空気であり水であり、主食なんだ。
でも宇宙には人間はいない。
つまり、どんなに勉強をしても訓練を積んでも、彼は宇宙では生きていけないのだ。
知っていたのに、なんてまぬけなことを言ってしまったんだろう。
「ごめんなさ……ひっ?」
思わずうつむいた顔が、持ち上げられる。
澄んだヴァイオレットグレイの目がそのさきで微笑んでいた。
「人間もラヴァンパイアも、万能ではない。つまり、誰かの力を借りなければ生きていけない。これにはじつは、いいこともあるんですよ」
「は、はひ……?」
彼は目を細めて、笑った。
「杏さんの目を、言葉を通して、オレは宇宙から、地球を見ることができます」
「――」
その目の奥の、宝石のような紫の光。
彼の目の色の星も、あるんだろうかと、ぼんやり思った。
「いつか、オレに見せてください。あなたが見た地球を」
「――はいっ!」
「――っ?」
ほんの一瞬、彼が戸惑いの色を見せたのは、あごに添えられたその手をあたしがぐっと両手で包んだから。
「待夜先輩に、いっぱいご報告します! あたしが見た宇宙のこと。約束です!」
彼の瞳が細められ――こくんと、縦に揺れた。
「……ついでにあの」
あたしはノートを開いた。
その前には目下、こなさなければならない課題がある。
「何光年とかって、どれくらいですか。宇宙の単位ですよね」
先輩はきれいに微笑んだ。
「では、講義を始めましょうか」
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