6. 密室採恋

 相手の死角になる場所を選んでどうにか裏庭は抜けたけど、足音で感づかれてしまったみたいだ。

 先輩の背中を必死で追って、ついていく。

 やばい。

 ここでへまはぜったいできない。

 できない。

 できな……わっ。

 三度唱え続けたときぐきりと左足が横に傾いた。

 とっさに何か掴もうとした両手が何度か大きく回転して。

 体育館倉庫が見えてきたとき、あたしはどてっと派手に転んだ。


「――杏さん」


 振り返った先輩に手をとられどうにか立ち上がる。

 あの先輩。

 今のまれに見る漫画のようなコケ方。

 見てましたか。

 見てましたよね。きっと。

 心の中の嘆きは強制終了した。

 倉庫の角で勢いよくターンした彼に、抱き留められから。

 先輩は目を閉じて、追手の声と足音に耳を澄ませているみたいだ。

 

「――必ず守り抜いてみせる」


 どきっ。

 耳の奥から響いてくるような声に、心臓が音をたてる。


 こっちはどぎまぎなのに、ちっとも参っていない、むしろおもしろがっているような笑顔で、待夜先輩は続けた。

「あなたは、オレの獲物ですから」


 心音を撤回したい。

 舞うように彼はあたしの手をとったまま、その建物――体育館倉庫の中に入った。

 


♡~♡~♡



 待夜先輩の手で扉が閉められ、ほっと息をつく。

 先輩が扉の前に張り付くように立っている傍らで、思わず膝の力が抜けてしゃがみこむ。

 扉の前で一つ頷くと、先輩は今度は奥の窓から外を窺い始めた。

 ……。

 いっつ・さいれんと。つまり沈黙。


 倉庫の奥には、バスケットボールやサッカーボールがたくさん入ったかごや、その他機材がごちゃごちゃと置かれている。

 先輩と二人だけでいるって考えただけで、

 頭の中に熱い水蒸気のようなものが充満して、どんどん密度が濃くなる。

 決まりの悪さに耐え兼ねた。

「……そろそろ、出てもだいじょうぶ、かなぁぁ?」

 とわざとらしい独り言を言っては、扉に手をかける。



 ――がちゃ。

 ――がちゃがちゃ。

 え?



 がちゃがちゃと、黒い引手の部分をひっぱる音だけが空しく狭い室内に響き渡る。

 嘘でしょ。



「先輩、緊急速報です」



 数秒の抵抗の後、あたしは認めた。


「鍵、閉まっちゃってるみたいです……」


 一拍も置かず、先輩が答える。


「えぇ、知っています」


 わっつ・でぃーじゅうせい?


 暗い倉庫の中のはずなのに、ぎらりと、その瞳の中のアメジストが光る。


「オレが魔力を駆使して、施錠させていただいたからです」

 え?

 え? それってどういう。

 かつかつと、靴音を響かせて近づいて。

 ひ、来る。彼が来るよ。

 倉庫の入り口の壁に、追い込まれた?

 ち、近い。



「――ようやく、二人きりになれましたね。杏さん」




 念のために注釈しておくが、今このシチュエーションはロマンスではない。

 ホラーだ。


 後ろ手で無意識に扉をさぐる。

 扉ではなく黒い笑みがご丁寧に応えてくれる。


「無駄ですよ。もうあなたは、オレの好きなようになるしかない」


 にこっと、彼が笑みを深めた。


「あきらめましょう?」


 きらりと光ったのは今度は目ではなく、キバのような――。


 それを確認したとき、あたしは覚醒した。

 こ、こんなところでくちはててたまるか!

 定食屋三朝の一人娘の名が廃る!!

 具体的にどういったものが廃るのかよくわからないけれども!


 彼は息がかかるほどの距離をさらに詰めるようににじり寄り。

 ふいに、整ったその顔が視界から消えた。


 え、なにこれ。


 気配を消して不意打ちで攻撃してくる気だな。

 と、構えの姿勢をとったそのとき。


 ふわりと膝にあたたかな光があたる感触がした。


 緊張の連続で自覚していなかった痛みなのに、楽になるとはっきり、傷んでいたことがわかる。


 ひざこぞうにそれまであった小さなかすり傷は、先輩が手を離すときれいに治っていた。


「ラヴァンパイアの魔力で、自己治癒力や体力を分け与えることができるんですよ」


 難なく優しげに笑ってますけど、それって。

 先輩の治癒力をわけてもらっちゃったっていう意味だったり。


「先輩は、だいじょうぶなんですか」


 じっさい、かがみ込んだ姿勢から立ち上がったとき、かすかにふらついたように見えたけど。


 それも幻かと思ってしまうほど完璧な笑顔で、彼は言い放つ。

「これでも腕ききの妖怪。平気です」

 そしてその笑顔を少しだけ崩して、

「それより、怪我した足で走るのはつらかったはずです。なぜおっしゃっていただけなかったのですか。オレは、そんなに頼りないですか」


 うつむいたその顔をみてなにか、小さなさざ波としぶきが胸にこみあげてくる。


「そうじゃ、ないんです」


 ひざこぞうの痛みを彼に言わなかった理由が、波間で追いかけっこをする魚のように、じょじょにこの胸に追いついてくる。

「先輩はいつも、みんなの面倒みてくれて。部活でもばしっとしきってくれるじゃないですか。理系科目の勉強を教えてくださいって頼みにも、応えてくれていて。講義をおもしろくまでしてくれていて」


「……そんな先輩に言ったらなんか、無理してでも治してくれちゃいそうで」


 ふいに見開かれた目の隙をのがさず、笑いかける。


「かっこつけても、だめですよ」


 ちょっとだけ恥ずかしいセリフを言うのをごまかす意味もあって、拳を彼のそれに押しつけた。


「ほんとはしんどいんでしょ? あい・のーです」


 ヴァイオレットグレイの中の真っ白な真珠がかすかに揺れている。


 ふいに瞳を閉じて、息を吐くように先輩は言った。

「杏さんには、かないません」


 見開かれた瞳はもう、いつもの挑戦的な色。


「では、こういうのはいかがでしょう。ルールを設定するんです」


 はひ?


「今後二人の間に永きにわたり立ちはだかる苦難や痛みは、そのとき、どちらか余裕のあるほうが多めに持つと。まぁ、杏さんにそれらを負わせなければならないほどこの身が廃るときがくるなど、ありえない話ですが」


 あの。

 さわやかな微笑がきまってはいるんですけど、いったいなんで永きにわたり苦難をともにしていくこと前提なんですか。


 そのつっこみを口にしようとしたとき、ピンポーンと予鈴が鳴った。

 同時に誘うように、彼が倉庫の出口を開け放つ。

「さぁ、そろそろ授業が始まります。急ぎましょう」

 外の世界から目が眩むほどの光が、舞い込んだ。

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