第186話「天衣無縫に筆を走らせる」

画伯は天衣無縫に筆を走らせているように見えるが、じつは綿密な計算があってのことだ。絵を描きはじめる前に、まずは題材を決めなくてはならない。画伯の場合はそれが「ガス」なのだ。ガス管から出てくるガスをスケッチする。そしてそれを描く。ガスの種類によって、その色や匂いも違ってくる。ガスの出る場所、時間なども重要だ。ガスボンベの蓋を開けると、シューッという音とともに気体が噴き出してくる。それを画伯は見逃さない。一瞬でとらえて鉛筆で描きあげる。こうして描かれたガスボンベの絵は、まるで本物そっくりだ。

ガスの出る仕組みについては、画伯はまったく興味がないらしい。そんなことより、ガスが出た瞬間のガスの勢いや温度などの方が大事なのだという。ただ、絵のモチーフとしてガスボンベを使う以上、ガスの出るメカニズムを知っておくことは必要だろう。そこで画伯は、自分のアトリエに「ガスの原理」についての本を置いているそうだ。このアトリエにはほかにも、『科学雑学百科』などの本が並んでいる。

「科学」というのは、画伯にとって特別な意味を持つ言葉だ。彼は子供の頃、学校では理科しか勉強しなかった。しかし高校を卒業したあと画家になるための勉強をはじめると、いきなり数学や物理といった科目が必要になった。だが、画伯にとってはどれも苦手な教科だった。特に「数式」というのがどうにも理解できない。数学の世界には、「解の公式」とか「因数分解」とかいった難しい言葉がある。それを見ると頭が痛くなってくらくらしてしまうのだ。それでもなんとか数学を克服しようと努力した時期もあったのだが、結局挫折してしまった。以来、画伯はすっかり数学嫌いになってしまった。それ以来、画伯は「数学」という言葉を聞くだけで身体じゅうの血が逆流するような気分になるそうだ。だから、画伯の作品の中には、ごく自然に「数式」が出てくることがある。

そんなこんなで完成した絵は、一見すると何が描かれているのかよくわからないものが多い。たとえば、空に浮かぶ雲を描いたつもりなのに、なぜか巨大な目玉焼きになっていることもある。あるいは、海を描いているはずなのに、なぜか宇宙遊泳をしている宇宙飛行士が浮かんでいることもある。そんなとき画伯は、いつもこう答えるそうだ。

「これは、目の中に宇宙が見えるってことだよ」

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