第168話「大江」
海から上る太陽が、明けきらぬ夜の中に顔を出し、大江の春は年の明けぬうちに訪れる。
「さて」
と、一声発して、信長は立ちあがった。
「御屋形様」
「うむ」
「お待ちを――」
信長が立ちどまると、光秀も足を止めた。
「今年こそは、ご上洛下されますか?」
「…………」
信長は、答えなかった。光秀は目を伏せた。信長が京に上れば、当然、天下統一の宣言がなされ、将軍義昭を奉じての上洛となるはずである。だが、その予定はない。義昭が征夷大将軍の座につくためには、まず織田幕府を開くことが前提である。ところが、このたび、将軍宣下の式を挙げながら、まだ将軍職に就いていない。なぜであろう? 信長が義昭を見限ったからである。見限って、信長は、いま、足利幕府に代わる新しい政治機構を模索しているところであった。義昭を奉じることなど、できるわけがないのだ。
「殿」
と、恒興が口をひらいた。
「もうじき正月でございますなあ」
「うむ」
「今度こそは、新年の祝宴に、お出まし下さいませぬかな」
「……何を言うか」
信長の声音が変わった。
「正月早々、そんなことがあってたまるか」
「そう申されても……」
「わしが参るとなれば、細川藤孝や明智十兵衛なども来ることになるではないか」
「それが何か……」
「わしは、あいつらのような俗物どもが嫌いだ。わし一人で充分じゃ」
「それはまた、どういうことでござりましょうか」
「わからんのか」
信長の顔色が変った。
「お前らは、わしに媚びへつらうために、あの連中を呼んでおるのだろう。そんなことは、いらぬ。第一、あの者どもは、わしより年上で、しかも坊主なのだぞ」
「しかし、同じ人間ではありませぬか」
「ふん、奴らのどこが違うというのだ」
「御屋形様」
光秀が言った。
「わたくしにも、わかりかねまする」
「奴らが何を企んでいるかわからんのだぞ。細川幽斎などは、三好筑前守(長慶)亡きあと、摂津を切り取ってしまった男だ。それに、細川忠興の父親でもある。こんな男がのうのうとしていていいと思うか」
「しかし、殿……」
言いかけた恒興を遮るように、
「よいか、恒興よ」
と、信長は語気を強めた。
「お前には、わかっているはずだ。奴らとつき合うと、必ず面倒なことが起こるということをな」
「……」
「よし、わかった。それなら、はっきり言ってやる。わしはな、正月早々、細川屋敷に行くつもりはない」
「殿!」
「行くとすれば、三日ごろだな。それからでも遅くはあるまい」
「なりません! 細川家も、細川幽斎も、殿のお力なしには生きて行けぬ身なのですぞ」
「ならば、死ねと言うか」
信長は、光秀を見た。
「細川家のことなど放っておけ」
「それはできませぬ」
光秀が答えた。
「細川家は、我が主君筋に当られますゆえ」
「そちは、義理堅いな」
信長が笑った。
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