君と食べる朝食
天宮さくら
君と食べる朝食
耳鳴りがする程に静まった夜中。俺はそっとカーテンを開け周囲の様子を伺った。時刻は二時四十分過ぎ。寝過ごしてしまった後悔と諦めが胸を襲う。
外には誰もいなかったし、車も走っていない。防犯用の外灯が淋しく道を照らしているだけの殺風景な光景。それでも街路樹の影に妻が立っているのではないかと不安になる。
息を殺して観察する。小さな動きをひとつでも見逃さないように、慎重に、丁寧に。数分間じっとそうしていたが、何もないことをなんとか受け入れ、再びカーテンを閉じた。
振り返るとそこには少女が一人、ベッドに横たわって寝息をたてている。裸体に薄い毛布をかけただけで少し寒そうに見えた。けれど彼女は熟睡していて起きる気配はまるでない。
少女の年齢は、確か二十歳と言っていた。けれど実際は違うだろう。十代後半か、もしくは半ばなのかもしれない。未成年としたらいけないというのはわかっているが、昨日は法律なんてどうでもいいと思っていた。酒を浴びるように飲み、行為をすることだけに集中した。それが今になって恐怖になる。
少女の名前はアキ。それが本名なのか俺にはわからない。昨日マッチングアプリで知り合い、そのままラブホテルで時を過ごした。
酒を飲んだのがよくなかった。感覚は最高だったが、その後眠気に勝てずこの時間になってしまった。俺がいつまでも帰宅しないことを妻は不安に思っているに違いない。
───だが、俺は妻を愛しているのだろうか?
それを考えると、こうなってしまったのは仕方のないことに思える。俺は今、妻を信じていない。そのせいでストレスが溜まり続け、ついに堪えきれなくなってしまった。
ベッドに腰掛け、この後どうしたらいいのかを考えた。
アキが目を覚ましたのは朝の五時過ぎだった。俺が暇潰しに点けたテレビの音で目を覚ましたのだ。アキは起きて、自分が裸体であることを恥ずかしがりもしない。俺を見ながら気持ちよさそうにあくびをした。
「おはよ〜………えっと、パブロフさん」
そう言ってアキは裸体を俺の背にくっつける。若くて瑞々しい肌の感覚を背中で感じ、それだけで少し反応してしまう自分が情けなく思えた。
パブロフというのは俺のハンドルネームだ。昨日、若い女性と寝たいと思い立ち、それが可能だというアプリをスマホにインストールした。登録する時にハンドルネームが必要だと知り、適当に入力したのがそれだった。
パブロフという名前に決めたのは偶然だったが、自身の誘惑に対する弱さを考えると適切な名前に思えて仕方がない。
「ねえ、もっかいする? 私、別にいいよ」
そう言ってアキが両手で優しく俺の体を触る。背中から少しずつ前へと動き、それに合わせて心臓が鼓動した。妻とは違う手運びに徐々に気持ちが昂るのが抑えられない。
中途半端な時間に起きてしまい、疲労は体に蓄積したままだ。起きてからずっと妻に対する言い訳を探していたから、頭痛もする。
それでも、反応する。
「パブロフさん、結構うまいんだもん。ね? いいでしょ?」
アキの言葉に俺は頷き、彼女と向き合った。
年の差はきっと、十歳ほど。そう信じたい。
一度してしまった後だから、二度目の抵抗はなくなっていた。思考を止め、本能のまま動き、快楽を享受した。
やるだけやってアキとは別れた。俺よりも先にホテルを出たアキが去り際に「また連絡ちょうだいね」と言い、俺はそれに素直に頷いた。
一人、ホテルの部屋で身支度を整える。昨日は仕事が終わった後、家に連絡することもなくアキとラブホテルに来た。スマホを見ると妻から大量のメッセージが届いている。どの文面も俺を心配するものだったが、それを全部確認するのも億劫で消去した。
俺が妻・奈々と結婚したのは二十六歳の時だった。妻は俺よりも三つ年上。結婚した時、三十歳目前だったが、それを感じさせない美貌を持っていた。
妻と知り合ったのは職場内。俺が営業で、妻は経理。仕事で何度か会話をする内に恋愛感情を抱き、彼女からの誘いで付き合い始めた。
妻は綺麗な女性だった。化粧はくどくなく、髪はいつも手入れが行き届いていた。爪は縦長で美しく、私服は年相応の落ち着きがあった。一緒に歩いていて胸を張れる女性だと思ったし、会話をすれば楽しかった。
そんな美しい女性が俺の彼女になってくれた。付き合っていた当時、そのことがとても誇らしかった。
「子供が欲しいの」
付き合い始めて数ヶ月後、彼女が真剣な表情でそう言った。三十手前という彼女の年齢を考えれば焦るのも無理はない。そう思った。だから付き合い期間は一年もなかったけれど、早々に結婚に踏み切った。
結婚して一年。子供が欲しいと願う妻のために頑張った。時期を見て回数を重ね、体調管理を怠らなかった。
それでも努力は実らず子供はできなかった。専門の病院を受診すべきなのか悩み始めた時、嫌な噂が偶然、耳に届いた。
それは、妻が営業課長の愛人をしていた、というものだった。
営業課長は人当たりの良い人で、身綺麗な人だった。ネクタイの選択がいつも面白く、それを選ぶのは奥さんと子供たちなのだと笑って教えてくれたことがある。気さくな人柄で、女子社員からは「オシャレなおじ様」と慕われていた。
妻が俺と結婚する前に営業課長の愛人をしていたという噂を耳にした時、俺は何かの間違いだろうと思った。営業課長は俺よりも歳が二十も上だ。親子ほども歳の違う相手の愛人になる。そんな気色の悪いことを妻がしていたとは信じがたかった。
───きっと聞き間違いだろう。
そう思考を切り替え妻と向き合い、子作りを頑張った。何度か挑戦をして、叶わないのを繰り返した。そうして月日を重ねていく内に、徐々に気持ちが萎えていく自分を認識した。
この体であの男と繋がっていたのか。
行為の最中、それが何度も頭に浮かんだ。浮かぶと興奮が自然と冷め、最後の方は仕事の延長みたいに感じられた。
喘いで縋り付く妻を気色悪いと感じたのは、結婚して二年が過ぎた頃だった。
音を立てないように気をつけながら玄関を開ける。家の中はカーテンが光を
結婚五年目。俺たちの間にはいまだに子供がいない。妻はそのことに何かを言うこともなくなり、行為は二年ほど前から完全になくなっていた。
子供を産みたいという願望への諦めがついたのかもしれない。妻は結婚を機に仕事を辞めていたが、去年から再開した。正職員にはなれなかったらしく、今はパートで頑張っている。
自室でスーツを脱ぎ部屋着に着替える。今日は仕事が休みなのでこのままのんびりゲームでもしようかと思い、パソコンの電源を入れた。パソコンが起動するまでの間にスマホをチェックすると、アキからメッセージが届いていることに気がついた。
『またしようね』
たった一文の簡素なメッセージ。それなのに、一連の行為が夢物語ではなく現実のものだったのだと思い知らされた。そしてそのことにまたしても体が少し反応する。
長年ご無沙汰だったから、少し体が狂っているのかもしれない。
ヘッドホンをつけゲームに集中する。最近ハマっているのはオンラインゲームだ。俺はゲームにログインし、いつも一緒に旅をする仲間にチャットで連絡を入れる。返事が届くまでの間に俺はアキへ返信を打った。
『また来週』
仲間がチャットに返信するよりも早く、アキから大きなハートのスタンプが送られてきた。
「ねえ、美味しい?」
夕飯時、妻が心配そうな声で尋ねた。
今日の夕飯はマカロニサラダ、コンソメスープ、ハンバーグ。そして白ご飯。どれも彼女の手料理だ。夕方近くまであるパートの仕事を終え、帰宅後速攻台所に立ち準備した。手際の良い人だと感心する。
その間、俺はゲームに集中し、妻との会話は皆無だった。
「美味しいよ」
俺はそう言って食事に集中する。俺の反応に妻は、そう、と呟いて押し黙った。
二人きりの食事に会話は少ない。俺と奈々は家族であって、恋人ではなくなった。妻の近況を詳しく知りたいとは思わないし、最近では何を話せばいいのかわからなくなっている。
昔はこうではなかった。恋人同士の時は互いの価値観をすり合わせることに喜びを感じたし、同じものを見て感想を言い合う楽しさを味わった。違う人間が同じ時を過ごす奇跡を確かめ合っていたのだ。
けれど、あの噂を耳にした時からそれも嫌になっていった。
俺が奈々と結婚した二年後、営業課長は会社を辞めた。個人事務所を立ち上げ独立したのだ。社内の人たちは営業課長の行動を無謀だと言って止めようとしたけれど、営業課長はそれを笑って受け流した。
───予想以上に厳しい現実を目の前にして路頭に迷えばいい。
営業課長の最後の出勤日、俺はそう願った。惨めな人生を歩んで欲しくて堪らなかった。
けれど俺の願いは虚しく、営業課長は個人事務所を軌道に乗せ、会社員で働いていた以上の収入を上げているという噂が届いた。
人当たりがよく、オシャレに気を遣い、女子から人気の高かった営業課長。彼なら愛人の一人や二人、余裕で囲むことができただろう。そして個人で働くようになった今、それは更に
営業課長の社会的成功を耳にする度に、妻はまだ愛人関係を続けているのだろうかと疑った。不倫をするだけの時間はたくさんあった。子供が欲しいと願い、仕事を辞め、一日中家に籠っていたのだ。その間、俺は出社していて、彼女が何をしていたのかなんて探りようがなかった。
きっと、関係を復活させているに違いない。
その疑心が膨らみ続け、今ではもう抑えきれないまでに大きくなっている。
何度抱きしめ合った? 何度口づけを交わした? 何度その体を開いて受け入れたんだ?
問い詰めてすべてを洗いざらいに告白させたかった。お前は俺を裏切ったのだと罵りたかった。けれど、そうすることで関係が完全に崩壊するのが怖くもあった。
───俺は、まだ妻のことを愛しているのだろうか?
食事に集中しながら、ぼんやりとそのことを考えた。
また来週という単純なメッセージだったのに、アキは全部を理解して行動してくれた。前回会った時と同じように待ち合わせをし、前回と同じラブホテルに移動して、前回と同じように体を重ねた。気持ち良さは前回の比ではなかった。
「私たち、相性がいいのかな〜」
アキが上に乗りつつそう言った。その言葉に俺は返事をせず、行為に集中する。油断をすればあっという間に終わりそうだった。それほどまでに気持ちよかったし、感情が昂っている。
「パブロフさん、ちょうどいいとこついてくれるから、いい」
揺れながら感じ入ったように呟くアキを強引に動かす。そのことで嬌声が漏れた。それが嬉しくて必死に揺らす。
───まるで犬だな。
行為が終わって一息つきながらそう思った。目の前に餌を置かれて我慢できずに涎を垂らす犬。自分はそういった生き物と同類だ。若い女の裸体を前にすると、我慢できずに手を伸ばす。結婚して今までよく我慢してきたな、と少し自分に感心する。
時計を見ると夜の十一時を指していた。今日は酒を飲んでいないのでうっかり寝入ってしまうことはない。このまま解散してもいいし、家に帰らず淫行に耽り続けるのもいいと思った。
アキを見ると、彼女は蕩けた表情をしていた。ベッドから起き上がる気力もないらしく、幸せそうに横になっている。
「あー、スッキリした………」
「スッキリした?」
アキの言葉に疑問を抱く。
スッキリしただなんて、まるで男のような感想だ。女性にもそのような感覚があるのかと不思議に思えた。
俺の言葉にアキは少し呆れたように視線を上げる。
「そうだよ。私、性欲強いもん。パブロフさんくらい強引なのがちょうどいい」
その言葉に俺は視線を逸らした。女性が口にするにはあまりにも即物的すぎて少し嫌な感じがしたのだ。
アキは俺の反応が面白いのか一人で勝手に話し始める。
「ストレス溜まるとさ〜、ついやりたくなっちゃうんだよね。一番のストレス発散方法だと思うよ、これ。体動かせるし、気持ちいいし、幸せになれるし。だからパブロフさんもアプリに登録してるんでしょ?」
「俺は………」
俺が登録した理由は、鬱屈した現状を変えたかっただけだ。妻を疑い、気持ちが塞いでいる。持て余した性欲を発散させ、スッキリしたかった。せっかく抱くのなら俺よりも年若い女がいいと思ったし、後から揉め事を起こさないようなシンプルな関係でいたいと考えた。
人間関係で思い悩むのはもう嫌だ。
「………君は、今後もこうやって俺と会うつもりなのか?」
俺の質問にアキは体を少しだけこちらに傾けた。重力で少しだけ胸が揺れる。それを片手で握った。その柔らかさを手のひらで感じ、体が反応する。
アキは俺の質問に笑った。
「そうだね〜。ま、彼氏ができたらやめるかな。それまでの繋ぎだよ」
「好きな人がいるのか?」
「まあね。でも今すぐ関係を持てそうにないからさ、今はパブロフさんとしてるの。じゃなきゃストレス溜まって死んじゃうよ、私」
そう言ってアキは俺に粘度の高い口づけをする。
一回戦交えながら、俺は妻の心中を想像した。
結局ラブホテルには一泊せず、夜中一時を過ぎた頃に帰宅した。ホテルでシャワーは浴びていたので、スーツを脱いでパジャマに着替え、自室に置かれたベッドに潜り込む。
布団の中で瞼を閉じ、アキが言っていた言葉を反芻する。
ストレス発散。繋ぎ。性欲。
女性の中にそのような感情があるとは想像もしていなかった。性欲に振り回されるのは男性だけで、女性がそれで苦労するとは思ってもみなかった。
………俺と付き合う前の奈々はどうだったのだろうか。
子供を産みたいと願っていたにも関わらず、良縁に恵まれなかった。だから必死に仕事をこなしていた。仕事は経理という神経を使う部署で、日々忙しそうに働いていた。その日常を経て、俺と出会い、恋をした。
それまでの間に営業課長と愛人関係を結ぶ時期があった、のかもしれない。
本当のところはわからない。噂で聞いただけの関係だし、現場を目撃したことはない。現在がどうなっているのかも知らないし、妻に問いただしたこともない。
問いただすことで今の生活がなくなるのが怖かった。
けれど同時に今の生活に鬱屈感を抱いているのは間違いない。でなければマッチングアプリに登録してアキを抱こうとは思わなかったのだから。
誰かと行為をすることがストレス発散になる。それは完全に同意する。アキとした後の感情の軽さはちょっとした息抜きに近い。これがないと死んでしまうと表現した彼女の言葉に素直に頷ける。
だから、きっと妻もそうなのだろう。
そこまで考えた後、俺は眠りについた。
朝起きると台所で食事の支度をしている音がした。それを聞きながら俺は自分が今後どうしたいのかを考える。
妻との関係。自分の感情。妻の感情。
考えながら、二人で初めて迎えた朝のことを思い出した。
その日はやっと結ばれた喜びで感情は穏やかだった。関係を築こうにももどかしく過ごしていた時期が長かったのだ。だから素直になって彼女と向き合い本音を話し合った時は、思わず手が震えた。二人の気持ちは同じなのだとわかった後、二人のこれからに期待を膨らませた。
奈々は料理上手だった。社会人になってからずっと一人暮らしで自炊をしていたからだ。だから二人で迎えた日の朝食は奈々が作ってくれた。トーストとサラダ、そしてベーコンエッグ。簡単な料理になっちゃったと笑った奈々が可愛くて愛おしかった。
思い出すと、自分の惨めさに涙がこぼれそうになった。
───俺は馬鹿だ。
あの日の朝に感じた愛情に嘘偽りなど一つもなかった。俺たちは互いを想っていたし、未来に期待していた。そして二人で幸せになろうと誓い合った。それなのに俺は職場で偶然耳にした噂を信じ、奈々を疑った。俺に向けられている愛を信じようとせず、真実を確かめようともしなかった。
自分が傷つくのが怖かった。それで奈々を傷つけた。
───謝ろう。そして関係を修復しよう。
俺は急いで布団から抜け出し台所へと向かう。どう声をかけようか迷いつつ、台所で調理を続ける奈々の後ろ姿を観察した。
結婚当初の若々しい美しさは、今はない。年相応な外見に見える。けれど体型が崩れているというわけではない。成熟した女性の落ち着きが身についたのだ。
奈々は俺が起き出してきたことにすぐに気づき、少し寂しそうな笑顔を見せた。
「おはよう。もうすぐしたら朝食できるけど、一緒に食べる?」
「もちろん」
奈々の寂しそうな笑顔に、これまで自分がとってきた態度を反省する。
───俺は、彼女を愛している。
朝食の準備ができるまで、じっと待った。待ちながら、どうやって会話を切り出すべきなのかを必死に考える。
営業部長との関係を問い詰めたい気持ちは、ある。けれどそれが今更明るみになったところで、どうするつもりもない。ただの自己満足だ。だから最初に言うべきことは、謝罪だろう。
奈々がまだ子供を欲しいと言うのなら、そのために頑張ろう。もう諦めたと言うのなら、これからどうしたいのか話し合う。
そうしようと心に決めた。
「あのね。話があるの」
奈々が机に朝食を並べながらそう言った。その言葉に俺は頷き、続きを待つ。
「離婚………しましょう」
すべてを諦めているかのような言い方に、俺は思わず視線を奈々に向けた。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。ただ一番聞きたくない言葉だということだけはわかった。心臓の音が耳の中で反響しているかのように聞こえ、鬱陶しく感じる。
奈々は、泣きそうな顔をしていた。
「パート先の会社がね、私を正社員にしてくれるみたいなの。そうしたら私、一人で生きていけるようになる。だから」
「嫌だ」
───待ってくれ。突然そんなことを言わないでくれ。俺は今、そんな未来を選択したくない。
奈々は俺の言葉には応えず、流れるように手を動かし食事の支度を整えた。今日の朝食のメニューはトーストにサラダ、そしてハムエッグ。二人で最初に迎えた朝と同じだった。
奈々は涙声で言葉を紡いだ。
「私が悪かったのよ。子供が欲しいとワガママ言ったから、あなた、疲れちゃったのよね? ごめんなさい。本当に………ごめんなさい」
「違う。そうじゃない」
涙をこぼし始めた奈々を慰めようと近づくけれど、どう慰めたらいいのかわからなくて手を止めた。
───昔は、どうやって慰めていたのだろうか。
迷う手をなんとか動かし、そっと奈々の肩に乗せる。奈々は小刻みに体を震わせて溢れる涙を止めようとした。けれどうまく止めることができず、嗚咽を繰り返し、涙が次々とこぼれていった。
「俺が………俺が悪かったんだ。奈々のせいじゃない。違うんだ」
必死に想いを伝えようと口を開く。けれど、自分の感情をうまく伝えられないもどかしさを感じた。
このままだと、俺たちはここで終わってしまう。
そのことだけは明確に理解した。このまま奈々を泣かせ続けていたら、俺がどんなに懇願しても彼女は離婚を要求するだろう。それは嫌だった。
俺は奈々を愛している。愛しているからこそ、誰にも汚されて欲しくなかった。綺麗なままでいて欲しかったのだ。それが裏切られたのだと思い込み、冷たく当たってしまった。後悔している。
───やり直したい。
「奈々。俺は………馬鹿な男なんだ。君がいないと俺は」
机に並べられた朝食を見て、あの時の感情を思い出す。それを励みに必死に言葉を選び、口にする。
「愛してるんだ。初めて一緒に過ごしたあの朝からずっと………けれど、君はそうではないのではないかと、不安になったんだ」
営業課長と愛人関係にあったことが真実だとしたら、俺との結婚は当てつけか何かではないかと勘繰ったのだ。そして主婦になり日中家に籠ることで、相引きでもしているのではないかと疑った。
………不安だったのだ。俺は営業課長ほどいい男ではないし、他人にたいして愛想を振りまける人柄でもない。仕事もパッとしないし、真実を確かめようとする根性もない。そんな俺を奈々が本当に愛してくれているのか、信じられなくなったのだ。
俺は泣き続ける奈々を椅子に座らせ、彼女の手を握った。奈々が俺の行動を真っ直ぐに見ているのを感じた。
───彼女の愛に応えなくてはいけない。
「やり直したい。初めから。頼む。………お願いだ」
奈々は瞼を震わせ大粒の涙をこぼし続ける。俺はそれを手で拭い、彼女が頷くのを信じて手を握り続けた。
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