第85話 冬梅、悟る

 冬梅は贈られた可愛らしい蓋碗を見て、思わず頬が緩んだ。

(そうだった。私はこう言うのが欲しかったのだ)

 しみじみとそう思う。だが、周りの者の反応が気になった。

 周りの期待に応えることに固執しないようにしようと思い始めてはいるが、その癖はなかなか抜けない。

 冬梅はなんとなしに、斜め後ろに立っている侍女の小鈴を見た。 

 そしてそこで、彼女の異変に気づく。

 小鈴の顔色が良くない。思わず冬梅は眉根を寄せた。

「小鈴、どうかしたのか?」

 冬梅にそう問われて、怯えるように小鈴はびくりと肩を震わせた。

 そして恐る恐ると言った具合に、視線を冬梅に移す。明らかな恐怖の色がその瞳にあった。

「本当にどうしたのだ。小鈴、体調でも悪いのか?」

「い、いえ……その……」

 どうにかして絞り出したというような小鈴の声は、震えていた。

 そして、視線はしきりに冬梅の目の前にある牡丹柄の白磁の茶器に注がれている。

「ああ、先ほど取り違えたことを気にしているのか? 大丈夫だ。もう気にしていない。中のお茶もみんな皇后様が選んでいただいたものを使っているから、同じものだろう?」

 そう言って、冬梅は蓋碗の蓋を取った。中にある茶葉を確認するためだ。

 湯気とともに、お茶特有の青々しい爽やかな香りが微かに漂う。

 碗の中にあったのは扁平形をした緑色の茶葉、龍井茶だ。

 誰もが良い香りであると思っている中、一人だけ異変を嗅ぎ取って息を飲んだ。

「ああ、茶葉が沈んでしまている。少し時間を置きすぎたかもしれない。早速いただきましょう」

 冬梅がそう言って、碗を持ち上げようとした時……。

「いけません! 冬梅花妃!」

 鬼気迫るような声が響く。冬梅だけでなく、その場にいたもの全員が驚いて肩を揺らした。

 声を発したのは、采夏。いつもはどちらかというとのほほんとした顔をしているあの采夏が、親の仇でも見るような形相で冬梅のお茶を睨んでいた。

「ど、どうかされましたか?」

 恐る恐ると言った具合で冬梅が声をかけると、お茶を睨みつけながら采夏は口を開いた。

「そのお茶には、毒が含まれています」

「ど、毒が……!?」

 思わず冬梅は碗から手を離す。

 それを見ていた秋麗が、髪に刺していた銀色の簪を一本引き抜いた。

「これを使って。銀でできている」

 秋麗の意図を理解した冬梅は、簪を受け取って碗に差した。

 そして、お茶に浸した銀の簪は瞬く間に黒ずみ始めた。お茶に毒物が入っている何よりの証拠だった。

「本当に、毒が、何故……」

 と呟いた冬梅はすぐにハッと顔を上げて、そして小鈴に視線を移した。

「小鈴、まさか、お前なのか」

 信じられない、と目を見開きながら冬梅が言うと、小鈴は「ち、ちがう」と言いながら小さく首を振り一歩後ずさる。

 そんな小鈴を逃さないとばかりに秋麗も冷たく睨みつけた。

「それじゃあ、先ほど、器を取り違えたと気づいて顔を青くさせたのは、何故? 私が飲むお茶に毒を入れたつもりが、冬梅花妃に渡ったから焦ったのではないかしら?」

 秋麗の鋭い眼差しが、小鈴に注がれる。

「私は、し、知りません……! そう、そうです! これは全て皇后の企みなのです!」

「皇后様がやったと言いたいの!? そんなことあり得ません!」

 先ほどまで怯えていた様子の燕春も憤慨して立ち上がる。

「でも、そもそもおかしいではありませんか! 何故、皇后様は毒が入っていると気づけたのですか!?」

「そ、それは……!」

 小梅の言葉に、燕春は口籠る。

 確かに、まだ誰も口をつけていないお茶の毒の有無が何故分かったのか、分からない。

「皇后様が、全ての元凶……ひっ」

 そう言って采夏を糾弾して睨みあげようとした小鈴だったが、采夏から放たれる怒りの眼差しに思わず悲鳴を上げた。

 采夏の形相が、完全に歴戦の強者めいていた。

 いつもニコニコほのぼのしている采夏だからこそ、余計に恐ろしく感じる。

 他の妃達も固唾を飲んだ。

「毒が入っていると気づいた理由? そんなもの、お茶の香りを嗅ぎさえればすぐに分かるものでしょう? 前回の闘茶の時は、少し距離があったのと、慣れない闘茶だったために気づけなかったけれど、私がいつも愛飲している龍井茶に混ぜ物をして気づかないとお思いですか」

 その声色も冷たく、采夏が心底怒っているのがわかる。

 どうやら采夏は、碗の蓋を開けた時に漂った香から毒の存在に気づいたようだ。

 燕春達は正直、『自分達は全く気づかなかったし、香りを嗅いだだけで毒の有無は普通わからないのでは?』と思っていたが、口を挟める雰囲気ではない。

 永遠にも思える沈黙が流れるが、その沈黙を破ったのは冬梅だった。

「小鈴、もう観念したらどうだ。以前の花見会の時に、秋麗風妃の闘茶に毒を入れたのは、お前だったのだな」

 そういえば、と冬梅は思い出していた。

 秋麗風妃が采夏に闘茶を点てていた時、途中から小鈴に手伝わせた。

 その時に、隙をついて毒を盛ったのだろう。何せ、あの時誰もが、秋麗がお茶を点てる仕草に注目していた。毒を入れる隙はいくらでもあっただろう。

(なんてことだ……)

 冬梅は小鈴に手伝わせた自分の迂闊さに自分自身を殴りたくなった。

 冬梅に責められると、小鈴はきゅっと唇を噛んで泣きそうな顔で下を向いた。

 そのやりとりを見ていた燕春も口を開いた。

「もしかして……以前の東州の被災民の炊き出しで、突沸が起こりやすいように根回しをしたのも、お前ですか?」

 燕春の口調は、厳しいものだった。しかし、小鈴は何も答えない。

 冬梅は堪らず小鈴の肩を掴んだ。

「何か言え、小鈴! お前がやったのか!?」

 冬梅に責められて、とうとう小鈴は目にためた涙を流して、頷いた。

 半ばそうかもしれないとは思っていたが、自分が可愛がっていた侍女が恐ろしいことに手を染めていたのだと突きつけられて、冬梅は眩暈がした。

「何故だ……何故、こんなことをしたんだ!」

 冬梅の叫びは悲鳴に近かった。

 小鈴は顔をあげると、冬海ではなく、その奥にいる皇后、采夏を睨みすえた。

「お前が悪いんだ! お茶にうつつを抜かす皇后だから! だから天に見放されて、東州に災いをもたらしたんだ! この女が皇后である限り、安吉村に安らぎは訪れない!」

 仄暗い眼で小鈴は吐き捨てるようにそう言った。

「何を馬鹿なことを! そんなわけあるわけがないだろう!?」

「でも! 冬梅様だって、あの時、はっきりとは否定しなかったではないですか!」

「それは……」

 冬梅は思わず言葉に詰まった。

 あの時。おそらく小鈴が東州の水害が皇后の不徳のせいだという話をした時のことだろう。

 あの時の冬梅は、采夏のことを認めておらず、小鈴の話をはっきりとは否定せず、曖昧に返した。

(あの時、あの時にちゃんと小鈴と話し合えていたなら……)

 冬梅は思わず悔しさで唇を噛んだ。

「それに、冬梅様もその時おっしゃっていました。証拠もないのに疑うのは良くないと。でも私は、あの水害が皇后の不徳であるという証拠をもっているのです!」

「証拠?」

 小鈴の言葉に、冬梅は目を見開いた。

「そうです、あの災害が茶道楽の皇后の不徳のためだという証拠が!」

 そう言って小鈴は懐から棒のようなものを取り出した。

 木の枝だ。しかもただの木の枝ではない。枝そのものはもちろん、枝についている葉っぱまで白い。真っ白な木の枝だった。

 采夏に見せつけるようにして、それを掲げると采夏はそれを見て固まった。

「そ、それは、お茶の木の枝……?」

 采夏が掠れた声でそう問う。

「そう! これは無惨にも皇后の不徳のために色を失ったお茶の木! 私が山に分け入った時に、このお茶の木を見つけたのです! 普通の緑の木ではなく、何かの病気のように真っ白で不吉な木を! これは間違いなく、お茶に傾倒する皇后に天がお怒りになられた証! そしてこれを見つけたすぐ後に、大雨が降って……村は土砂に潰された! 不徳な皇后が天の怒りを買って、災いをもたらしたんです!」

「小鈴、何を言っているのだ!」

 小鈴の言い分は、破茶滅茶だった。冬梅はそう咎めたが、そうと思い込んでいる小鈴には届かない。

「悔しい……。国に災いをもたらす皇后を止めたかった。でも、もうここまで……。冬梅様、よくしていただいたのに、何も音を返せず、このような形でご迷惑をおかけして本当に、申し訳ありませんでした」

 苦し気な顔で小鈴はそう言うと、卓に置かれた毒入りの茶碗を掴んだ。そしてそのまま口付ける。

「いけない! 彼女を止めて!」

 采夏の悲鳴に近い静止の声が響くも、小鈴の行動は止められなかった。

 小鈴は毒茶を煽り、そして……崩れるようにして倒れた。

「小鈴!!」

 冬梅が名を呼ぶ。だが、返事はない。

 顔色を悪くさせて短い呼吸を繰り返すのみ。

 采夏は慌てた様子で小鈴に駆け寄って、その青白い顔をみて自身の顔を蒼白とさせた。

「誰か! 医官を呼んで!!」

 采夏は船の外に待機していた宦官達に命じると、小鈴の口に手を突っ込んだ。

「吐いて! 毒を吐くのです!」

 采夏はそう言うも、小鈴はうまく吐けずにぐったりとしている。

 眉根を寄せる采夏の手を、冬梅が掴んだ。

「……皇后様、もう良いのです。これは全て彼女の自業自得が招いたもの。そこまでして助ける価値はありません」

 憐憫と軽蔑、そして後悔を瞳に滲ませて冬梅が言葉を落とす。

 采夏は顔を上げた。

「いいえ! このまま死なせるわけにはいきません!」

「皇后様、どうして、そこまで……」

 戸惑いながら冬梅が呟く。

 くだらない妄想で自分の命を狙ってきた相手だというのに、それでも慈悲の手を差し伸べるというのか。

「生きて……お願い。死んではダメよ」

 と懇願するようにして小鈴の手を握る采夏に、冬梅は目が離せなかった。

(この人には、敵わない……)

 冬梅は改めて、采夏の懐の深さを思い知るのだった。

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