第83話 紫陽花の花
黒瑛が住う養心殿の露台にある円卓に黒瑛とともに座りながら、采夏はぼうっと内庭の紫陽花を眺めていた。
夜の月明かりで、宵闇の中に咲き誇る紫陽花がぼんやりと見える。花見会では、まだ蕾が多かった紫陽花も、盛りを迎えていた。
紫陽花を見ていると、先日の冬梅の言葉を思い出す。
紫陽花の花見の会で、采夏が飲むはずのお茶に毒を盛られた。
冬梅はそう言っていた。お茶に毒を入れるものがいるなど、采夏にはいまだに信じられない。
冬梅がいるときは怒りがまさったが、少し落ち着いた今となっては悲しみを強く感じる。
(私を殺めるために、お茶に毒を入れるという所業に手を染めるものがいるなんて……)
自分の至らなさのせいで悪事に手を染めたのかもしれないと、采夏は妙なところで落ち込んでいた。
「どうした、元気がないな」
いつもとは違う様子の采夏に、黒瑛が察して声をかけてきた。
今日はひさしぶりに黒瑛に呼ばれていた。だというのにどうも集中できていない。
その証拠にまだお茶を四杯しか飲んでいない。いつもならその三倍は飲んでいた。
「申し訳ありません、陛下」
「何かあったのか?」
「いえ、何かあったわけではないのですが……」
なんと答えればいいか分からず、采夏は口ごもる。
それもまた采夏らしくない仕草で、黒瑛は困惑して眉根を寄せた。
「では、なんだ?」
「それは……その……」
何か言わねば、そうと思うが、言葉に詰まる。
毒が入れられたかもしれないと言うことを、黒瑛に言うべきかどうか、采夏は迷っていた。
冬梅を信用していないわけではないが、だが本当に毒が入っていたかどうかは定かではない。
それに、言えば確実に秋麗が疑われるのは明白だし、もしかしたら黒瑛も冬梅と同じようにお茶を飲むのを控えろとか、毒見役をつけろとか言ってくるかもしれない。
悩み抜いた末に、采夏は口を開いた。
「安吉村のことを考えていました」
するりと口から出てきた言葉は、嘘ではあるが嘘ではない。もともと、黒瑛には安吉村のことを話そうとは思っていたのだ。
采夏の口から出てきた安吉村という単語に、黒瑛は合点がいったという具合に頷いた。
「ああ、東州の……そうかそのことで、悩んでいたのか。何か冬梅花妃に言われでもしたか? すまない。あまり状況は芳しくはないのだ」
「以前陛下は、安吉村の復興が進まないのは、かの村に労力を砕いても見返りが少ないからだと仰せになっておりましたね。予算を避けないと。かの村に特産品があったり、商業の要所であったりするならば商人の力も借りて早急に復興が進むとも」
「ああ、確かに言った」
采夏の言葉に、黒瑛は暗い顔で頷く。
黒瑛にとっても、東州の安吉村のことは気がかりなのだろう。
水害に見舞われて、故郷を失った村人達を都においてはいるが、彼らは元の村に帰りたいとずっと訴えてきていると采夏は聞いている。
だが、今の国の情勢や財政状況から省みて、救いたいもの全てを救うのは難しい。
采夏はきゅっと気持ちを引き締めてから口を開いた。
「僭越ながら私からの提案なのですが、今、安吉村に特産品がないというのでしたら、これから作れば良いのではないかと思うのです」
「これから?」
「はい。かの地をお茶の一大産地にするのはいかがかと」
そう説明していくうちに、冬梅に言われたことに気に病んでいた采夏の心が晴れてきた。
東州の安吉村に足を運んだことはないが、冬梅の話に聞く限りは茶木の栽培に適している大地だ。
彼の地を広大な茶畑にできたら……。想像するだけで胸が高鳴った。
「お茶の……?」
「ええ、冬梅花妃からも伺ったのですが、彼の地の周辺は竹林に囲まれているそうです。竹林に囲まれた茶畑というのは珍しくありません。竹林が育つ環境というのは、茶木も育ちやすい環境であることが多いのです。それに地図を見ましても、良い気候に恵まれているのは明らか。彼の地でお茶を作ればとても良質なものが育ちます」
「なるほど……これから安吉村周辺で茶畑を作るとなれば、商人達も動くかもしれないということか」
「はい……! お茶はこれからも一層必要になって参ります。茶畑として発展するとわかれば、陸翔様も説得できますでしょうし、様々なところから協力を得られるでしょう」
「ふむ、悪くないな……。ちょうど、お茶の生産にもっと力を入れるべきという話もあり、いくつか茶畑とする地域の候補が上がっていたのだ。すでに野生の茶木が生えているところに限定にしていたが……安吉村周辺には野生の茶木はあるのか?」
「それは、残念ながら、冬梅花妃のお話では、野生の茶木は群生していないようです。ですが、周辺の環境や、気候を省みるに、見つかっていないだけで野生の茶木があってもおかしくありません。それになかったとしても、良いお茶が育つ環境であると断言できます」
いつの間にか采夏の握っていた拳に力が入る。
語れば語るほどに、東州に広がる茶畑に想いを馳せて胸が高鳴る。
そんな楽しそうな采夏を見て、ふ、と黒瑛は表情を和らげた。
「采夏がそう言うのなら、そうなのだろうな。よし、植樹や挿し木して育ってくれる環境であるならば問題ないだろう。まずは陸翔にかけあってみよう」
「陛下、ありがとうございます!」
「いや、感謝を言うのはこちらの方だ。王都に置いている安吉村の者達の待遇はあまり良くない。不満が溢れて暴徒と化す前に対応しなくてはな。……それより」
黒瑛はそう言って、スッと采夏の頬に触れる。
そして黒瑛はまじまじと采夏を見つめると、眉根を寄せた。
「……少しは元気が出てきたかと思ったが、やはりいつもには及ばない。何か、あったのだろう?」
「そ、そんなことは……」
と言いつつも言い淀む。真剣な顔で問いかけてくる黒瑛を見ていると、隠していることが心苦しくなって采夏は思わず瞳を逸らした。
「そうか。言えないならそれでもいい。妃も増えてきた。皇后としての気苦労も増えただろうしな……」
思い悩む采夏に耳に黒瑛の声が降ってくる。どうやら、采夏の悩みが皇后としての務めによるものだと思ったらしい。
そして采夏の頬に触れられた黒瑛の温もりが離れた。
温もりが離れたことが、少し寂しく感じた采夏が顔を上げて黒瑛を目で追うと、彼は露台からひょいと飛び降りて庭に出た。
「へ、陛下……?」
采夏が驚きで目を丸くする中、黒瑛は近くの紫陽花に手をかける。手を掛けたのは、赤紫の紫陽花の花だ。周りのほとんどが青白い小花の紫陽花だったため、その赤紫の紫陽花の花は良く目立って美しかった。
黒瑛はその赤紫の花弁の紫陽花の小花を指で摘んで引き抜くと、再び露台に上がって采夏の元にやってきた。
黒瑛はそれをそっと采夏の髪に飾る。
「俺はなんの力にもなれないかもしれないが……どうしても助けが欲しい時は俺を呼べ」
黒瑛はそう言って、端正な顔に笑顔を浮かべると顔を寄せた。
采夏の額と黒瑛の額がこつんとぶつかる。
至近距離で二人はしばし見つめ合うと、采夏は降参とばかりに視線を外して照れたように笑みを浮かべた。
「はい。もちろんです。陛下の助けが必要な時は、必ず。……それで、早速で申し訳ないのですが、お願いが一つ」
采夏のその言葉は予想してなかったようで黒瑛は目を見開いて、少し顔を離した。
「なんだ? 言ってみろ」
「実は私としたことが、まだお茶を四杯しか飲んでいないのです。あと少なくとも、十は飲みたいのですが、お付き合いいただけますか」
そう言って笑う采夏の言葉があまりにも采夏らしくて、黒瑛はフッと吹き出すように笑う。
「もちろんだとも。惚れた女の願いなら、なんでも叶えてみせよう」
どこかかしこまって答える黒瑛がおかしくて、采夏もつられて笑った。
そうして、二人は再び卓につくとお茶を飲みあう。
采夏にとって、それは久しぶりの穏やかな時間だった。
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