第72話

「秋麗風妃様、おめでとうございます。本日も陛下からお呼びがございましたわ!」

 侍女からその報告を受けて、秋麗は羽扇で隠した口元をわずかに引きつらせた。

 皇帝からの呼び出しはこれで三回目だ。

 秋麗に仕える侍女らは、「最近はお呼び出しが増えてきましたね」「さすがは秋麗風妃様です」」「これほどの美しさですもの、当然と言えば当然ですわ」などと口々に秋麗を賞賛した。

 ここにいる侍女らは、西州から連れてきた者達だ。

 秋麗と付き合いが長い分、秋麗を喜ばせる言葉を誰よりも知っている。

 彼女らの言葉に秋麗は気をよくしかけたが……。

「これなら、誰よりも早く御子を産むことができますわ」

 という侍女の一人の言葉に、思わず秋麗は片眉をピクリとあげた。

 虚を突かれたり、良くないことがあったりしたときに思わずしてしまう秋麗の癖だ。

 団扇のおかげで周りに悟られることはないだろうが、秋麗は軽く周りを見渡してから改めて笑顔を作り直した。

 確かにこれだけ夜の呼び出しが増えれば、周りのものは世継ぎを期待するだろう。その気持ちはわかる。

 だが、現時点では秋麗が皇帝、黒瑛の世継ぎを産む可能性は少しもない。というのも、二回ほど呼び出されてはいるが、二階とも寝所を共にしていなかった。

(あり得ないわ……。あの屈辱、思い出すだけでも、腹立たしい)

 初めて呼び出された日、秋麗は舞い上がった。

 そして、念入りに体を磨きに磨いて、皇帝の元にやってきたのだ。

 だというのに、食事を終えていざ寝所にとなったところで、皇帝は秋麗にこう言った。

『この部屋は自由に使ってくれ。俺はまだ仕事があるから失礼する』

 そう言って、皇帝は美しく着飾った秋麗を寝所に一人置いていったのである。

 最初は、そのうち戻ってくるのかと思っていたが、結局朝になっても戻ってこなかった。

 ひどい侮辱を受けたと憤る気持ちもあったが、相手は皇帝であるのでその気持ちをぶつけられるはずもなく。

 自分に起こったことが信じられない思いで、秋麗は自身の宮に戻った。

 そこでは侍女達が、おめでとうございますー! と嬉々とした声をあげて秋麗を迎えてくれて体を労ってくれた。

 何もなかったなどと言えるわけもなかった。

 そして程なくして2回目の呼び出しを受けた。

 その頃には、心の整理が少しはついていた。最初はたまたま間が悪かっただけ。そう結論づけた。

 秋麗にはこの類い稀な美貌がある。この美貌を前にして平伏さない男がいるはずもない。たとえ、国の頂点である皇帝であろうともだ。

 そう思って、挑んだ二回目の呼び出し。

 結果は一回目と一緒だった。

 食事を終えていよいよと言うところで、皇帝は去っていった。

 あまりのことに、「ちょっと待ちなさいよ!」と言いたくなったが、やはり言えるはずもなく皇帝の背中を見送った。

 これまでの苦い思い出を噛み締めながら、秋麗は唇を引き結ぶ。

(今回は、今回こそ、陛下を射止めるわよ。きっと今までは、色気が足りなかったのよ。きっとそう。もっともっと磨かないと……)

 秋麗はそう思って、侍女の一人に、羊の乳と特別に取り寄せた薔薇という香り高い花を用意するように命じた。

 皇帝と会う時間までに、自分を仕上げなければならない。

 そうして、秋麗な侍女に用意させた乳風呂に身を浸した。

 乳には肌を滑らかに、しっとりとさせる効果がある。皇帝との夜を過ごすのだから、肌の滑り具合も良くしなくてはならない。

 そしてその乳風呂には、赤い薔薇の花びらが浮いていた。

 香づけである。見た目の華やかさに加え、薔薇の贅沢な芳香は秋麗の気持ちを上向かせた。

 秋麗は体の手入れに満足すると、風呂から上がり、きれいにみがきあげた大きな銅鏡に自分を移した。

 雪のように白い肌は、きめが細かくシミ一つない。蜂蜜を用いた軟膏を使って手入れをした髪は、わずかな光を反射して艶やかに輝いている。

 そして、なんと言ってもこの完璧な体型だ。

 秋麗は、理想の自分を求めて毎日体を鍛えている。

 腹筋を鍛え、腕を鍛え、だが女性らしい柔らかな体型を維持できるように鍛えすぎないように調整することも忘れない。

「そうよ、私はこれほどまでに美しい。皇帝陛下だって、すぐに陥落するわ」

 そうでなくては困る。

 化粧を施し、選び抜いた衣を着て、秋麗は皇帝の元にやってきた。

 いつも通り食事から始まる。

 このままいけばいつも通り解散になりそうな雰囲気だが、今日の秋麗の気合いはいつもとは違う。

 秋麗は、その完璧な顔に憂いの表情を浮かべて、食事の途中で箸を置いた。

 黒瑛はおやといった感じで顔を秋麗に向ける。

「どうした、体調でも悪いのか?」

 気遣わしげに尋ねる黒瑛の瞳を、秋麗はじっと見つめた。

 昔あった悲しかったことを思い出して、目に涙を溜める。

 今にも泣き出しそうな秋麗の様子に、黒瑛はギョッとした。

「な、泣いているのか?」

 狼狽た様子の黒瑛を見て、秋麗は内心ニヤリと笑って、瞳を伏せた。ためた涙が頬を伝う。

「申し訳ありません、陛下。泣くつもりはなかったのです。でも……辛くて」

 悩ましげに眉根を寄せて、黒瑛を上目遣いで見る。

 秋麗、渾身の憂い顔だ。男がこういう頼りなげな女性の表情に弱いと言うのは身をもって知っている。

「お、落ち着け。何が辛いのだ?」

 女の涙に弱いらしい黒瑛の顔に焦りが見える。あともう一息だ。

「そんなの、陛下が、私と一緒に過ごしてくださらないから以外にあると思いますか? ……でも陛下のお気持ちは分かりますわ。私みたいな醜い女と一緒に過ごしてくださる気がないということですわね……」

 そう言って嘆いてみせる。

 少しも自分のことを醜いなどとは思っていないが、こう言うと大抵の男は『美しい』と返してくるのでここぞとばかりに使うのだ。

「醜いなどと、そんなことはない。そなたは美しい。……というか、悪い。秋麗風妃の気持ちを考えていなかったな」

 黒瑛の殊勝な態度に、一瞬秋麗は目を丸くした。

 黒瑛は皇帝。青国の頂点だ。この国中で最も尊い存在。それが素直に、一介の妃に普通に詫びてくると言うのが、意外だった。

 しかし驚いている場合ではない。今は千載一遇の機会。

 相手が悪いと思っている今この時を狙って攻め入らねばならない。

「陛下、私を哀れな女と思うのでしたら、今夜はともに……」

 右手を胸に当て、目を潤ませ、頬を染めて懇願する姿は実に可憐であろう。銅鏡の前で何度も練習しているのだ。どれほどの威力のものなのか、秋麗自身が分かっている。

 今日は、今日こそは黒瑛を逃さないという執念で、秋麗は目をうるうると潤ませ続けた。

 肩を微かに震わせ、まっすぐ黒瑛だけを見る。

(さあ、抱きなさい! この細く華奢な身体を抱きしめたくてうずうずしているのでしょう!? さあ! さあ!!)

 今すぐ早く抱きたまえ、と言わんばかりの強気な気持ちを少しも悟らせない可憐で儚い表情を貼り付ける。

「……悪いが、采夏……皇后以外を抱く気がないんだ。それは、ゆくゆくは秋麗風妃のためにもなる」

 黒瑛の口から出た言葉が何を言っているのかわからなくて、秋麗は思わず口をぽかんと開けた。

(は? 皇后以外抱かない? というか、それが私のためって、何? どういうこと? 意味がわからない)

しばらく理解できずに口を開けたままにしていたが、ハッとして慌てて秋麗は口を閉じた。

 そして再び目を潤ませてみる。

「そんな……先ほど、私がこの世で一番美しいとおっしゃっていたではありませんか」

「いや、一番とまでは言ってないはずだが……」

 思わず本心が漏れ出た秋麗の言葉に黒瑛が冷静に突っ込んだが、秋麗の勢いは止まらない。

「でも、美しいとおっしゃいました! 私の何が、皇后様におとるというのですか!?」

 秋麗は美しい。ずっと美しいことにこだわり続けてきた。

 誰の目から見ても、皇后より己の方が美しいはずだ。

 そんな必死な秋麗を見て、黒瑛はわずかに目を見開いた。そして微かに笑みを作る。

「秋麗風妃は、人を愛したことがないのだな」

「はあ?」

 思っても見なかったことを言われて秋麗から気の抜けた返事が漏れる。

「確かにそなたは美しい。皇后よりもそなたの方が美しいと評する者も多いだろうと思う。……だが、俺の目には、采夏が最も美しく見える」

 ここにきて、黒瑛は愛しげに目を細め、柔らかい笑みを浮かべた。

 黒瑛のそんな笑顔を見るのあ、秋麗にとって初めてのことだった。

 あろうことか胸が苦しく高鳴った。それほどに魅力的で優しい笑み。

 その笑みは確かに今、秋麗に向けられている。

 だが、それは、本当の意味で秋麗に向けられたものではないのだと身に染みて分かってしまう。

 これは皇后に向けた笑み。皇帝が采夏のことを思って微笑んでいるのだから。

 秋麗は思わず、視線を外す。

 悔しくてたまらなかった。

 自分の何が足りないというのだろうか。これほど美しいのに。

 ふと、幼い頃に言われた言葉が蘇った。

『綺麗なだけのお人形ね』

 そして、秋麗を馬鹿にしたように笑う周囲の声。

 その声を振り払うように、秋麗は首を横に振ると膝の上に乗せていた拳を強く握る。

「……まあ、そうですの。陛下は一途でいらして、皇后様が羨ましいですわ。ああ、それと、実は私も今日は少し気分が悪かったのです。寝所はいつも通り別々の方が助かりますわ」

 秋麗はそう言って、かろうじて笑顔を作って見せた。

 あくまで自分の体調不良故に寝所を別にしたいのだということにする。

 自分が振られたという事実は、到底受け入れられるものではなかった。

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