第64話 采夏、怒る

 黒瑛は呆然としたような顔で黒瑛を仰ぎ見る呂賢宇を見下ろした。

 顔面が面白いほどに蒼白になっている。

 哀れな様子でもあるが、先ほどこの男が発した言葉を黒瑛はしかと聞いていた。


『まずは目の前の女を殺せ! 皇后だ! 惨たらしく殺すのだ!! そして皇帝の首を獲れ!』

その言葉は到底許せるものではなかった。


「しかし、せっかく茶を入れてくれた皇后に害をなそうとするとは、甚だ救いようのない男だ」

 黒瑛は冷たくそう言い放つと、横から坦も口を挟む。


「皇后だけではありませんぞ! こいつ! 恐ろしいことに陛下のお命をも狙っておりました!! 万死に値する!!」

 彼方まで響き渡るような怒声だった。

 正直、隣でその声量は黒瑛の耳が痛い。

 だが、威嚇のような怒声は呂賢宇に効果抜群だったようで、彼は怯えたようにヒィと短く悲鳴をあげるとその場にへたり込んだ。

 哀れなものだった。

 しばらく呆然としていた呂賢宇だったが、何を思ったのか縋るような目で黒瑛を見やった。


「へ、陛下! 違うのです! 私は! これは何かのまちがい! 陛下は何か勘違いをしておられます!」

「何かの間違い? 一体何の間違いだ」

「私はテト族にはめられたのです! 此奴らは、所詮は蛮族! この国を脅かすために、私をはめたのです! やつらと私、どちらを信用なさるのか!」

 声高に叫んだ呂賢宇の言葉は堂々としたものだった。

 ここまできてまだ言い逃れしようとするとはなかなかの根性だと、黒瑛は内心で苦笑する。

 呆れた気持ちになっていたのは黒瑛だけではなかったようで、側にいたウルジャからも疲れたように息を吐き出す。


「はめたのは、お前だろう。俺は事前に聞いていた。姪から渡されたものを毒だと思い込んだお前が、俺が口にするものに塩を混ぜるかもしれないとな」

「黙れ蛮族! この私を陥れようとは……!」

「黙った方がいいのはお前の方だ。毒と間違って俺に塩を仕込むかもしれないと、事前に伝えてくれたのは皇帝だ。お前の企みは、最初からすでにお見通しだったんだ」

 ウルジャのその言葉に、一瞬言葉に詰まったようだった呂賢宇だったが、再びすがるような目を黒瑛に向けた。


「ああ、陛下、陛下。この男の言を信用してはなりませぬ! 私が、私こそがこの国のために尽くす忠臣であるのに!」

「ほう、忠臣ときたか。しかし忠臣が何故、私に嘘をつく?」

「陛下に嘘などと! 私がつくはずもございません!」

「しかしお前は、テト族との交易に失敗したと泣きながら報告してきたと思うが……?」

「え、ええ、それは、はい、その時、奴らには断られ……」

「ならこれはなんだ」

 そう言って黒瑛は手に持っていた書簡を呂賢宇の目の前に落とした。

 書簡を目にした呂賢宇は目を見開く。


「これは、そなたが私に隠れて行った交易の帳簿だ。馬と茶を交易していた記録が残ってる」

「な、何故、これがここに……」

 とうとう呂賢宇は言葉を無くしたようだった。

 帳簿は、秘密裏に礫に北州まで行かせて見つけたものだ。

 できれば物的証拠もあった方がいいだろうと、あまり期待せずに探させたが、律儀な呂賢宇はきちんと帳簿という形に悪行の記録を残してくれていた。

 言葉を失くした呂賢宇は、今度は虚な瞳で北州長をみた。


「あ、兄上……どうかお救いください。これはおそらく北州全体を陥れる罠! それに私が罰せられれば、兄上だって、そうでしょう……!?」

 という必死の言葉に北州長は冷たい視線を返す。


「皇帝は、お前との縁を切れば、北州にはそれほど罪が及ばぬように配慮してくださるという、寛大なご厚意を示してくれた。この意味がわかるな?」

 心底蔑むような顔で、北州の長は呂賢宇を見下ろしてそう言った。

 つまりは絶縁宣言だ。

 呂賢宇は絶望で顔を歪める。

 それを黒瑛は、感情のない目で眺めた。

 呂賢宇を捉えるために黒瑛は策を弄した。

 口当たりまろやかで何杯でも飲めそうだが、飲み過ぎれば体を壊す冷茶を見て思いついた策だった。

 ウルジャに毒を盛るかどうかは賭けだったが、テト族を手っ取り早く動かすために呂賢宇ならウルジャを殺そうとするだろうと踏んで燕春に協力を仰ぎ、一芝居うってもらった。

 毒と偽り、塩を渡す。

 ウルジャには、もし塩をもられたら、毒で倒れたふりをしてほしいと伝えていた。

 皇宮は脆弱だと偽り、呂賢宇が事を起こすように甘い言葉で誘い出した。

そしていざ行動を起こした時に、周りに証人を配置して逃げ場をなくす。


 証人の一人は北州長だ。

 身内の不始末に憤慨した燕春が、自身の父親でもある北州長にも訴えてくれた。

そして今回の呂賢宇の逮捕劇の証人となってもらえるために宮中に呼びつけたのだ。

 もともと外面の良かった呂賢宇の企みに懐疑的だった北州長も、目の前でまざまざと皇帝を害することを叫ぶ弟を見て、流石に皇帝の言葉を信じたようだ。

 呂賢宇の企みが明らかになった今、冷え冷えとした眼差しで弟を見下ろしていた。

 身内からも見捨てられた呂賢宇はそれでもまだあらがうようで、現実を否定するように小さく首をふり続けていた。


「陛下、陛下、どうか私を信じてください。私は、陛下のためなら命すら捨てる覚悟だった。そうでしょう!? 私は今まで尽くしてきました!」

 腰が抜けた体を引き摺るようにして、呂賢宇は皇帝の方へと這い寄った。


「そうだな。お前は碧螺春の茶が虫害で不作の時も泣いて詫び、テト族との交易再開に失敗すると申し訳ないからこの場で頭をうって死ぬと言って床に頭を打ちつけた」

 黒瑛はその時のことを思い出すようにして目を瞑る。

 その必死の有様に、彼の忠義心の暑さに宮中の者は感嘆してしまった。

 その時の黒瑛も、死ぬことはないと止めてしまった。

 だがおそらく……。


「しかしそれは、欺くためただの演技だった。もともと死ぬ気など少しもなかったのだろう? 口にするだけなら、簡単だからな」

 呂賢宇は大袈裟に振る舞うことによって、人々から忠臣であると思い込ませていた。

 黒瑛に見捨てられ、しばらく呆然とした様子だった呂賢于が、現実が目に入らないようにするためか、頭を抱えた地面に跨る。


「おかしい! こんなはずではない! こんなはずではないのだ! こんなの、こんな世界は間違っている!」

 呂賢宇の嘆きが響いた。どうやらこの期に及んでも、自分に非がないと思っているらしい。


「この世界が間違っている? おかしいことを。あなたはまだ大罪を犯したという自覚がないのですね」

 先ほどまで静かにに成り行きを見守っていた采夏が声を上げた。

 それは特別大きな声ではなかったが、冷え切っていて妙な迫力がある。

 いつも穏やかな皇后の底冷えするような声に、一瞬言われた本人ではない黒瑛でさえうすら寒いものを感じた。

 そう感じたのは黒瑛だけではなかったようで、その場にいた誰もが皇后のことをどこか畏怖を感じたような面持ちで見つめている。


 呂賢宇もその一人。

 伏せていた顔をあげて采夏を見ていた。

 そして周りの視線を集めていることに気にすることなく、采夏は再度口を開く。


「間違っているのはあなたですよ。あなたは犯してはならない罪を犯しました」

 そう、帝位の簒奪の計画。それは青国で最も重い罪だ。


「違う! 違う! 私は何も、何も間違ったことはしていない! 間違っているのはお前たちだ!」

 そう叫んだ呂賢宇は、何を思ったか立ち上がって駆け出していた。

 追い詰められた呂賢宇の顔は常軌を逸しており、血走った目線の先にいたのは、皇后采夏。しかも手に短剣を握っている。

 思ってもいなかった呂賢宇の反応に、周りの反応は遅れ、采夏にその凶刃が迫り……。


―――パシャン。


「うがあああああ、あつ、熱い……! 茶が……! 熱い茶が……!」

 水音と、そして真っ赤になった顔を抱えて地面に転がる呂賢宇。

 近くでその苦しげにうめく呂賢宇を見下ろすのは、先ほど襲われたと思われた采夏だった。手には柄杓を持っている。


「失礼ですね! お茶は人にかけるものではありません! 先ほどかけたのは、湯です!」

 変なところで怒りのツボを押されたらしい采夏がそう声を荒げた。

 冷静に考えれば湯も人にかけるものではないと思うが、それを突っ込むものはいなかった。

 そして采夏の隣にいた侍女玉芳が得意げに笑みを浮かべる。


「采夏皇后の湯捌きは天下一。離れたところにある碗にお湯を投げ入れて茶を淹れる秘術を持つ皇后が、人の顔に湯を当てること等造作もないこと」

 そんな特技があったのかと、采夏の無事をほっとしつつも驚嘆する。

 周りの兵士たちも、驚きで動きを止めていたがハッとして、熱さに苦しみもがく呂賢宇を抑え込んだ。


「離せ、離せえ……」

 呂賢宇の悪態だけが響くその場で、采夏は呆れたように呂賢宇を見下ろした。


「道理の分からぬ赤子でもないのに、いつまでも往生際の悪いこと。きちんと自覚し猛省なさい。碧螺春の茶畑にうえられた果樹を抜き取った罪の深さは計り知れません!」

采夏の怒りに触れた呂賢宇は唇を噛み締め、小さく「く……」と声を殺して嘆いた。

 此度の騒動でこれほどに怒り、毅然とした態度を示した皇后に、茶道楽だと馬鹿にしてた周りの目もどこか変わっていく。

 畏怖するように皇后を見つめ始め、皇后の纏う空気に飲まれていた。

 黒瑛も同じく采夏の怒りに飲まれていたが、ふと気付いた。


「……いや、大罪というのなら、帝位を簒奪しようとしたことの方だと思うんだが」

 黒瑛の小さな呟きは、呂賢宇の泣き叫ぶ声に消えていった。

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