第30話黒瑛はお茶で夢想する
茶を飲めば、倒れている男がどこから来たのか分かる。
という采夏の申し出に、まず坦が茶を飲んで分かるわけがないと吠えたが、黒瑛はそれを黙らせた。
黒瑛自身も茶を飲むだけで倒れてる男の素性が分かるわけがないと思うのだが....采夏が嘘を言っているようにも見えず、
半信半疑ながらも、一度采夏の言うようにお茶を飲むことにしたのだ。
龍弦村まで急いで行きたいのはやまやまだが、馬も疲弊してる。休憩するのにもいい頃合いだ。
黒瑛の命令で、坦が渋々火つけ石などを使って火を熾す。
そして采夏はそこで倒れている男が持っていた水筒の水を沸かし始めた。
(相変わらず、彼女の行動は読めねぇな)
木陰の下で地面に直接胡坐をかいて座った黒瑛は、せっせと茶器を用意している采夏を見た。
茶を飲んだだけで倒れてる男の素性が分かるわけがないと思うのだが、采夏が嘘を言っているようにも見えない。
「お待たせしました」
そう言って采夏は、三つの茶杯に出来上がった茶を注ぎ入れる。
色は、ほんのりと微かに色ついた黄金色。
茶杯の色が白だからその微かな色合いに気付くが、色の濃い茶杯ならばほぼ無色透明に見えるぐらいの淡い色だ。
「これがお茶、ですか? 白湯ではなく?」
ほとんど色のないお茶を前にして但が首を傾げる。
坦の言葉に黒瑛は微かに微笑んだ。
自分も最初にこのお茶を見た時、同じようなことを思った。
「この淡い色のお茶は、龍井茶か」
黒瑛にはこのお茶に覚えがあった。
采夏が最初に、黒瑛に淹れてくれた茶に色合いが似てる。
「はい、その通りです。そして正確には、雨期を過ぎてから摘まれた茶葉で作られてますので雨後(うご)龍井茶と言います。陛下が普段飲まれている龍井茶は、明前(みんぜん)の龍井茶。清明節(せいめいせつ)の前に摘まれた茶葉で作られた最高品質の茶です。明前龍井茶にくらべたら質は劣りますが、こちらの雨後龍井茶も十分においしいお茶です」
「へえ、葉の摘まれる時期で味が変わるのか」
黒瑛はそう言いながら茶杯を持ち上げた。
ほとんど白湯と変わりないほどの薄い色の茶だというのに、こうやって鼻に近づけると何とも言えない緑茶の香りがはっきりと漂ってくる。
そして茶杯に口をつけた。
(……相変わらず、采夏妃の淹れる茶はうまい)
茶杯の茶を一気に流し込み、喉から帰る息の爽やかさまで堪能しながら黒瑛は思った。
そしてふと、母から言われた『好いた女の淹れる茶だからおいしいのではないの?』と言う言葉が蘇る。
それと同時に、意識がぽーっと遠のく感覚がきた。
(ああ、まただ。また何か夢心地になって……)
そう自覚をしたのに、それは止まらない。
気づけば、黒瑛は辺鄙な村の小さな土づくりの家に座っていた。
着ている服もいつも来ているような絹の服ではない。
清潔ではあったが、麻でできた硬いつくりの衣だ。
目の前に囲炉裏があって、鍋に湯を沸かしている。
そしてその奥の土間には、女性の背中が見えた。
トントントンと小気味良い音が聞こえる。
朝餉の支度をしているのだろうか。
女は長い髪を一つにまとめ、薄紅色の動きやすそうな衣を着ていた。
その背中を見ると、何かがこみ上げてきて、思わず側に寄って腕を伸ばす。
その小さく細い体を抱きしめると、とたんに泣きたくなるほどの幸福感に包まれた。
ずっとこうしたかったのだ。
何もかものしがらみから解放され、愛しい者とただ一緒に穏やかに生きていけたら、どれほど……。
抱きしめられた女は黒瑛を振り返る。
その顔は……。
「これはおいしい! これがお茶なのですか!? 信じられない!」
坦の驚きの声に思わずハッとして黒瑛は横を向いた。
お茶に感動したらしい坦が、大きな声で茶を讃えている。
先ほどまで見えた幻覚は消え失せていた。
土づくりの家などあろうはずもなく、今いるのは木しかない山中だ。
(また変なのを見ちまった……)
黒瑛はそう思って、正面に顔を向けると采夏が黒瑛を見ていた。
頬を微かに赤らめ、とろけるような瞳で、にっこりと微笑みながら。
「本当に陛下は、おいしそうにお茶を飲まれますね」
ほう、と感嘆のため息をつきながら、采夏が言う。
その顔と、そして先ほど見た幻覚で出会った女性の顔が重なった。
パシン!
思わず黒瑛は、自分の頬を平手で殴った。
(やばい。俺としたことがなんて甘っちょろい幻覚を……)
黒瑛が自分をはたいた音は思ったよりも大きく、先ほどまで茶に興奮していた坦も、穏やかに微笑んでいた采夏も、驚いたような顔をして黒瑛を見る。
「へ、陛下!? どうされましたか!?」
但が慌てて黒瑛のそばによる。
采夏も心配そうに黒瑛を見ていた。
「な、なんでもない。虫がいただけだ気にするな」
「虫ですと!? おのれ虫め! 陛下にたかる愚かなる虫は私めが殲滅してみせます!」
そう言って、但が黒瑛の周りを警戒し始めたが、もちろん虫がいたから頬を叩いたわけではない。
そこか、そこかと、何もない空に向かって腕を振り上げる坦に黒瑛はなんとなく申し訳ない気分になりながら口を開いた。
「虫は、もういい。それより、あれだ……」
と言って言葉を濁し、ここでお茶を飲むことになった本題を思い出す。
「采夏妃、あの男がどこから来たのかわかったのか?」
黒瑛がそう尋ねると、采夏はにっこりと微笑んで頷いた。
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