第28話陸翔は弟子をさとす
陸翔(りくしょう)は小さな食卓に腰を落ち着かせて、茶を淹れた。
陸翔のいる龍弦村は、皇帝献上茶にも選ばれる銘茶・龍井茶(りゅうげんちゃ)を作る茶の一大生産地である。
こうやって風の吹く日には、茶畑から漂う爽やかな生葉の香りを楽しめる。
だが、今日は、いつも嗅いでいる茶とは少し風味の違う茶の香りが鼻をくすぐった。
茶の爽やかさの奥に香る竹。
先ほど淹れた茶は、黒瑛皇帝から頂戴した竹祷茶(ちくじゅちゃ)である。
(まさか、黒瑛様が直接、私の元に来ようとするとは、なかなか思い切ったことをなさる。私に迷いがあることを悟られたかもしれませんね。……それか、みすみす士瑛様を死なせてしまった私を詰りに来られるか……。正直、それでもいい。むしろその方が、ありがたいことかもしれない)
蓋碗(がいわん)から香る茶の香りを吸い込みつつ、かつての教え子でもある前皇帝、士瑛の姿を思い描いた陸翔は、唇を軽く噛んだ。
彼のことを想い出す度に、苦い思いが蘇る。
士瑛は優秀な生徒だった。
朗らかで、礼に重きを置き、仁に厚く、賢い青年だった。
士瑛が幼少のころから皇帝になるべき器だと陸翔は思っていたが、しかし他にも異母兄がいる士瑛に帝位が回ることはないとも思っていた。
だが、士瑛は、皇帝になった。
秦漱石(しんそうせき)によって無理やりに。
秦漱石は士瑛が帝位に就く前の皇帝で頭角を現してきた宦官だった。
当時の皇帝が政治に興味がないことを良いことに、甘言(かんげん)を用いて自分の思うように皇帝を操り腹心にまで上り詰めた。
そしてその皇帝が崩御すると、自分に逆らいそうな他の皇子たちを殺して士瑛を帝位に就かせた。
生母の力が弱く、穏やかで人当たりの良い士瑛ならば、操りやすいと踏んだのだろう。
実際、秦漱石の権力はその時ですでに士瑛を上回っていた。
しかし士瑛は穏やかであるが愚かではない。
秦漱石に言いようにされぬよう、陸翔は共に尽力した。
――だが、士瑛を失った。
陸翔はその時、知人の伝手でこの龍弦村に身を寄せていた。
秦漱石に命を狙われ始め、それを危惧した士瑛が、宮中から離れた方が良いと言ってくれたからだ。
龍弦村は、銘茶の産地としてその生産方法などを秘匿にするべく、他者との関わりを極力なくしている。
そして、それを許されている珍しい村だ。
身を隠すのにちょうどよかった。
そして、この地に住み始めて少しして、士瑛の訃報を聞いた。
陸翔が宮廷を去ってから少ししてのことだった。
声を出して泣いた。
自分より若く優秀な者の死を嘆き、何故あの時宮廷を、士瑛の側を離れたのかと自分を責めた。
秦漱石を追い落とさなければこの国に未来はないと言って、士瑛を発たせたのは陸翔だった。
あの時、陸翔が何も言わなければ、士瑛は秦漱石を打倒しようとは思わなかったかもしれない。
そうすれば、秦漱石から命を獲られることはなかったかもしれない。
未だ拭えぬ後悔と自責の念。
その想いを振り払うように、陸翔は竹祷茶(ちくじゅちゃ)を口に運んだ。
奥深い茶の味の後にうっすらと香る竹林の風。
「ああ、おいしい……」
陸翔は誰もいない部屋で一人そうごちる。
その清廉さが、全ての後悔を押し流してくれたら良かったが、このこびりつくような感情はそう簡単に洗い流れてくれない。
(それにしても、あの悪ガキ、いえ、黒瑛様が竹祷茶を贈るという返しをするのは意外でしたね。正直、私が送った絵の意図すらも読めないのではと思ったのですが……)
黒瑛は、士瑛と比べると相当な悪童だった。
陸翔の話もほとんど聞かず、どちらかといえば槍の稽古にばかり熱中していた。
だが、黒瑛が勉学に励まなくとも誰も何も言わなかった。
どう考えても帝位が黒瑛にまで回ってくることもないと考えられていたし、本人も帝位に興味がなかった。
となれば、将来はどちらかの兄の臣下。
知識が薄くとも、武官として仕えればいいのだ。
兄と違って粗野な振る舞いをする黒瑛にはそれが合っているように思えた。
竹祷茶の竹の風味が、昔の教え子の成長ぶりを教えてくれるようで誇らしい。
しかし同時に、何とも言えない不安感が胸を占める。
秦漱石の専横政治がこれ以上続けば国が亡ぶ。
一刻の猶予もない状況だと訴える黒瑛の言い分はもっともだった。
だが、なかなか陸翔は黒瑛の望むような救国策を打てないでいる。
味方の数に不安があるのはもちろんだが、それ以上に陸翔は恐ろしかった。
将来有望な若者を、また己の無力で失うかもしれないことが。
「先生、今よろしいでしょうか」
思わず拳を握りしめたところで、扉の向こうで声がした。
「桂夕ですか。入りなさい」
この地、北州を治める豪族の子らに勉学を教えるというのが、龍弦村で身を置く条件の一つ。
今聞こえてきた声は、教え子であり、族長の末の息子の桂夕(けいゆう)のものだ。
その桂夕がおどおどとした様子で部屋に入ってきた。
不安そうに眉を寄せている。
勉強熱心で、今の教え子の中では優秀ではあったが臆病な所がある青年だ。
年の頃は二十になったが、あまり体が大きくないためもっと幼く見える。
「陸翔先生、さきほど、龍弦村の茶を買いたいと言って見知らぬ男が来まして……もちろん龍弦村の茶葉は、卸先の商人が決まってるから売れないと言って帰ってはもらったのですが、どうも怪しい気がして」
「怪しい?」
「はい。行商人だと名乗っていたのですが、着ている衣の質が良すぎるのです。それに、村の中の様子を執拗に覗き込むようなこともしていて……あれはただの商人ではないと思います。おそらく……先生を探るために秦漱石が送った刺客なんじゃないかと……」
不安そうな顔をしたのはそう言うことかと、陸翔は納得した。
「なるほど……そう言うことですか。黒瑛様……いいえ、陛下が近くまで来られるということもありますし、秦漱石の配下の者が近辺を探っている可能性は十分高いと言えるでしょう」
「ああ、やはりそうなのですか!? どうしましょう。秦漱石は恐ろしい人だと聞きます。もし、先生が皇帝陛下と謀反を企んでいると知られたら、きっと恐ろしいことになる!」
桂夕は顔色を失くし、怯えたようにしてそう声を震わせた。
桂夕は洞察力が高く、危険に敏感なのは長所と言えるが、敏感過ぎて臆病だとも言える、
何かをする前から悪い想像ばかりをして結局何も始められず動けない。
「桂夕、落ち着きなさい、それに、謀反を企むというのは違いますよ。謀反と言えるのは、むしろ秦漱石なのですから」
「でも先生! 実際今力があるのは秦漱石です。もしたくらみがあるとばれたら、我が一族は、それにここに住む村の人達も危ないのでは!? それに、今の皇帝は出涸らし皇子なんて言われていた暗愚との噂です。そんな皇帝が、秦漱石に対抗するなんて……優秀だったという先帝、士瑛様でも敵わなかったのですよ!? 出涸らし皇子が敵うなんて思えません! 先生、今からでも陛下と手を組むのは考え直していただけませんか?」
「それは……」
陸翔は思わず言葉に詰まった。
桂夕の言うことは、陸翔が抱える不安そのものだった。
秦漱石は、士瑛と対峙した時以上に巨大になっている。
それを本当に討てるのだろうか……。
また大事なものを失うことになるのではないか……。
陸翔の迷いを感じ取ったのか、なおも桂夕は言いつのった。
「父上もどうかしてます。出涸らしの陛下が本気で秦漱石を討とうとなさっていたとして、絶対勝てっこないです!」
「桂夕、落ち着きなさい。これ以上は不敬にあたりますよ」
とりあえずは桂夕の言葉を諫めたが、何とも苦い気持ちが残る。
それを紛らわすように陸翔は次に何をすべきかと考えた。
「……とりあえず、このまま龍弦村で陛下をお待ちするのは危険ですから、場所を移ります。北東にある北礼村(ほくれいむら)に身を寄せましょう。そこで陛下と落ち合えるように使者を出せば、まだ間に合います」
陸翔の言葉に、桂夕は顔をしかめた。
「先生……! どうかお考え直しください。私は、先生の身も心配しているのです。先生には、色々と教わった恩がございます! 危険な目に合わせたくないのです!」
「桂夕、分かってください。確かに危険なことは理解しています。……ですが、このまま何もしなければ、この国に住まう者は皆、毒を浴びたかのようにじわじわと身を亡ぼすことになるのです」
「そんなの……! 今までやってこれたのです。そう急がなくてもよいではないですか! 秦漱石を排除する必要があるのは理解してますが、でももう少し時間をかけてやっても良いのでは!? それに陛下も、急に会うなんて……ことを急ぎ過ぎてるように感じます!」
桂夕が、まるで陸翔が抱える不安を代弁するかのように吐き出す。
急がなくてはいいのではないか。
まだ大丈夫なのではないか。
じっくり慎重に様子を見ても……。
だが、冷静な部分で陸翔は分かっている。
それでは遅すぎるのだ。黒瑛が急ぐのには理由がある。
「……桂夕、急がなくてはならないのです。もう今が限界に近いのですよ。貴方はこの地を守る一族の子。周りからの庇護ゆえに秦漱石が引き起こした災厄を身近に感じていない。貴方が思っているよりも、もうこの国の人々は疲弊しています」
陸翔の言葉を受け入れられないのか、桂夕は唇を引き結び、いっそ責めるかのように陸翔を見る。
「桂夕、あなたが優しい人であることは分かっています。この地に住む者達を誰よりも想っていることも。だからこそ、変化を恐れている。しかし、陛下も同じです。国の長として、誰よりも、この国の人達のことを想っている。だからこそ危険を承知で、私に会いに来るのです」
陸翔は、桂夕にそう言った。
そしてそれは同時に、己自身に言い聞かせているかのような気持でもあった。
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