第三章(4)…… 怨霊が憑く者


 見ていたはずのメモが消えて、なにを見ているのか認識するまでに間が空いた。


 身体の感覚が遠い。目線を上げると外灯から差す光が見えた。上空の闇に、いくつか白い光点が瞬いている。眼前には等幅のくぼみが横線に並ぶ、濃い青灰色の壁がある。


 それを見て、サイディングの溝と認識し、アパートの外壁だ、と思い出した。


 背後の駐車場、敷地の出入り口近くで原付バイクのエンジンを切る音が聞こえた。スタンドを立てる動作をしている。

 ヤバイ、と感じ、樹木の傍に寄って身を隠す。しゃがんで木の陰に入る。


 隠れながらも、自分が何故隠れたのか疑問に思う。もし相手が須藤務ならば、顔を見ておきたい。

 しかし、なにか厭な感じがして、いまこの場から動くのはよくない気がした。


「アカネさ……」


 小さく名を呼んだとたん、アカネが上から降ってきて覆い被さった。修哉の口もとを片手で押さえる。


「――?」

「いいから、そのまま」


 声に緊張が混じっているのがわかる。


「なに……?」

「だめ、顔を上げないで」


 言いながらぐっと身体を丸め、修哉の頭を上体で包みこむ。アカネの感触が内側にまで浸透する。ふたたび呼吸が詰まるが、今度は慌てずに浅い呼吸でやりすごす。


「見たいなら目を貸すから。でも絶対に声をあげないで」


 アカネの両手が重ねられ、完全に口を覆う。自分の感覚が無くなって口が開いているのかどうかすらわからない。

 無言でうなずくと、瞬時にふわりと目線が高くなった。


 同時にアカネの姿勢はどうなっているのだろうか、と疑問に思った。生きている者が身体をひねっただけでは不可能な視点。近づいてくる足音。砂利を踏んで乾いた砂埃が立つ。


 相手の歩幅は変わらず、近づいて――


 息を飲む。

 気づいたのか、アカネの両手が顔に食い込む。


 アカネの視界は夜でも薄ぼんやりと、もやがかかって視えた。そのなかで周囲の明暗は関係なく人の輪郭は浮かび上がる。わずかに見上げた視線がとらえたのは、膨れた肉塊だった。


 若い男の背におぶさるかのように、巨大な異質がのしかかっている。それなのに意に介さず、重さを感じさせない歩調でこちらに近づく。


 青灰色のサイディングが目に入る。暗い影にしゃがみこんだ状態で、左は細かい葉がついた大人の身長よりも高い樹木、足元のコンクリートがひび割れて、修繕してセメントで埋めた跡が残る。


 しかし一方で、気味の悪い化け物を背負った男の姿を見ている。


 男の顔色は白かった。落ちくぼんだ一重の目、鼻筋は通っているが小鼻の幅が大きく見える。唇は薄く生気がない。ヘルメットを取ったせいか無造作に伸ばした髪が乱れているが、気にするようすもなかった。


 頬がこけ、痩せているのにやけにサイズの合わない大きめの服を身にまとう。


 ふいに想像が湧いた。 

 もとは太っていた。あの化け物に取り憑かれて、栄養となるものを吸い上げられたから、急速に肉体がしぼんだ。


 アレが――生気を吸って、肥大した。


 同時にさきほど覗いた部屋のなかの光景が重なって、焦点が合ったかのように理解した。


 死ぬつもりだった。もしくは消えるつもりだった。一度、すべて処分したのだ。だが、なんらかの理由で、しばらくここに居戻る決断をした。必要な物だけ安物を買い戻した。


 なぜ、なんのために。


 つきまとう異形の細部が視える。

 人の十倍はある巨大な顔。斜めにひしゃげた顔が身体に埋もれ、手足も潰れ、輪郭は人のかたちを留めていない。


 心臓が跳ね、冷や汗が吹き出す。関われば、間違いなくまずいことになる。

 溜まった、ぬるい湿気のにおいがする。


 まるで大きな人形に熱をかけ、上から押し潰したかのような変形ぶりだった。融けたような髪が皮膚にへばりついている。

 樹脂性に似た照りを放つ肉の色に、青や赤紫のまだら模様が散る。殴られて放置された跡にも見える。


 横の線となって、ふたつの筋が肉の塊に入っている。化粧のつもりなのか、中心から薄い茶色、両端へと濃茶に塗りたくられ、乱れた太さで一本線の黒が引かれる。分厚い唇は斜め上に裂け、血のような赤が口から溢れる。


 アカネに口を押さえられて麻痺する感覚がある。その部分だけが自分の身体ではなくなってしまったかのように動かない。


 男は周囲を気にかけるようすもなかった。歩幅を緩めずに、砂利の敷かれた駐車場の敷地からアパートまで進み、コンクリートの土台を踏んで修哉の隠れる庭木の横を素通りしていった。


 化け物は違った。興味を示した。男が通り過ぎるときに、肉塊はかたちをねじって細まり、数十もの縒り合わさった縄のようになって真横へと移動しようとする。首を伸ばしたのではない。顔そのものが触手状にばらけて絡み合いながら伸びる。


 音もなく樹木を突き抜けて、アカネの鼻先に迫った。


 身体がアカネに押さえ込まれていたのが幸いした。そうでなかったら、間違いなく大声をあげて逃げだそうとしただろう。


 糸のように引き延ばされた右目の端が、うっすらと開く。どろりとした視線を動かしてアカネを睨めつけた。

 自重なのか、秒ごとに形を維持できずに垂れ下がっていく。肌に散る、青と赤紫のまだらが肌の色と入り交じり、濃淡のある汚らしい濁色となって崩れる。垂れるそれぞれが絡まり合い、くねっては上方の組織に混ざろうとする。


 伝わるのは、奪われまいとする激しい執着心。胃の腑がねじれる感じが湧き上がり、急激に喉が締まってえづきそうになる。


 心臓が暴れて苦しい。息が詰まる。胃の裏あたりの背中が痛む。なにか強い力で小突かれているかのように感じる。


 崩れた灰色の肉塊は細く不規則にくねらせながら、うずくまる修哉の正面に伸びる。まるで、死体にたかる大量の蛆の群れが迫るかのような、細かい蠢きが間近に聞こえる。


 ものすごい威圧だった。腹の底から細かい震えが起こって抑えられない。

 視たくない。それなのに極限の恐怖が迫るあまりに、確認しないではいられない。目が閉じられない。けれど、視てしまえば更なる恐怖に陥るのは明らかだった。生死の分かれ目。逃げ場がない。


 焦るほどに自分自身とアカネと共有する視点がぶれる。上下に切り替わり、暗がりで青灰色の壁と地面を見ている自分と、化け物の動きを上から視ている自分がどちら側にいるのかわからなくなってますます怖れが募る。


 もうだめだ。目が回る。固く目をつぶり、視界が目蓋の裏の黒に染まる。


「しつこいわね」

 苛ついたアカネの声が頭のなかに響いた。


 ふいに身体の芯が冷えた。騒いでいた心臓がひとつ、大きく打って止まったように感じた。


 アカネが見下ろす視界に、蠢き、絡み合う不快な触手の先端が迫る。自分の顔先までほとんど届きそうになっているさまが映る。


 アカネの低い声が聞こえた。


「これは、あたしのよ。触るのは許さない」


 しん、と周囲が静まりかえった。複数の蠢きが静止する。


 そのまま、少しの高さの振れもなく、滑らかに後方へと退く。

 樹木に異形の影が飲み込まれ、須藤務がアパートの階段をあがっていく足音が聞こえた。


「行くわよ、シュウ。いまのうちに」


 ぐん、と足に力が入った。立ち上がりながら、壁に手をつく。

 目を開けて、背後へと後退して駐車場へと視線を向ける。


 暗い闇に数台の車と須藤務が停めた原付バイクが、敷地内の照明に照らされてぼんやりと輪郭を浮かび上がらせている。

 さっきまであれほど生活音が漏れていたのに周囲は静まりかえり、今はただならぬ暗色に覆われる。


 別の気配。修哉は前に進もうとしていた足を止めた。


 ふいに、嗅いだことのある臭いが鼻を突いた。

 異臭、溶剤が焦げ、金属が焼け、さまざまな物質が燃える臭い。前方から吹いた風に高温が混ざった。


 行かせない、ここに留まらせたいという意志が伝わる。

 ちりちりと肌を焼くような刺激に身がすくむ。


 周囲に煙が漂いだし、見る間に濃くなっていく。風が吹いてもいないのにぐるりと旋風が巻き、ひとつに集約する。人のかたちになる。


「シュウ?」


 アカネが怪訝な口調で問うのが聞こえた。だが、目の前に現れた煙の人型に阻まれて、動けなかった。


「なにしてるの? 早く逃げないと」


 アカネが焦れている。彼女には見えていないらしい。まぼろし、という疑いがよぎるが、修哉には現実としか思えない。

 どうすればいいんだ、と戸惑う。


 煙の人型は輪郭が定まらず、絶えず揺らめいている。視ようとするとすべてがぶれる。右手になにか、不確かなものが触れた気がした。


 軽く折り曲げた手の内側に小さな感触が滑り込み、驚いて目を向けると、そこにあの少年がいた。はっと息を飲んだ。

 すがりつくかのように、右手を握られていた。灰色の煙のかたちがぼやけた輪郭を作り、顔の造形をかたどる。目だ。おぼろな灰色が大きな両眼と化し、こちらを見上げている。


 まるで、人形のように整った顔だった。不安そうな顔つきをしている。前方、後方のどちらも気にして縮こまり、身を隠したいのか遠慮がちに修哉にすり寄る。その姿は見る間に手の先、足の先からほどけ、大気に消え、薄れていく。


 焦点が合わない。地面が揺れているように感じる。酩酊の感覚に気分が悪くなる。


 少年が消え失せると、目線は足元から先へと引き寄せられた。正面に立つ、成人の大きさをしたおぼろげな煙。


 あきらかに子どものものとは違う、別の存在。その人物の動きを眺めてしまう。徐々に、腕を上方へと向けていく。


 人指し指の先は修哉の背後へと突きつけられた。

 いますぐ修哉を、振り向かせたがっている。須藤務が二階の踊り場までたどりつき、アパートの扉を解錠しているのが聞こえる。金属音の摩擦と回転音が響く。

 なんのために? 須藤務に関われとでも言いたいのか。


 だめだ、振り返ったら――


 上階からの、異質で不快な視線を感じる。身体の芯が冷える。細かな震えが湧き、すくみ上がる。


 絶対に、視たら駄目だ。

 ねっとりと背を舐める、狙われて襲われる予兆に、空気が尖る。


 前方を阻まれ、後方には脅威が迫る。熱風が肌を舐め、灼熱の空気に包まれて目を開けていられない。意識が遠のきそうになる。

 他人の感情がまとわりついて、自身が穢されていく。幻惑が正気を侵し、塗り替える。


 己の肉体が燃えて、炎がはぜる音が聞こえる。いつまでも同じ場所に留まり続ける。取り残されたまま、時間の流れだけが通り過ぎる。周囲の光景が移り変わっていく。


 間違ったと思う後悔、裏切られた悲しみ、恨む気持ちと強く救いを求める願いが強く満ちる。

 どうしてこんなことになった。助けてほしい。ただ、ふつうに暮らしていければよかった。それだけなのに。


 唐突にぶつけられた訴えは、強く修哉の心に刺さった。心乱れ、思いが重なりそうになる。抱える疑問はきっと同じだ。


 その隙を突かれた。

 ぽたり、と顔になにかが落ちてきて、我に返った。


 煙の人型はかき消えた。飲んでいた息を細く吐き出す。

 あとには普段と変わらない暗闇が広がる。


 ふたたび、上空から冷たい滴が落ちてくる。修哉は思った。なんだ……?

 ――雨?


 見上げてしまった。無防備に。

 目が、合ってしまった。


「シュウ、だめ!」


 アカネの、悲鳴に近い声が頭に響いた。

 上空から覗き込まれている。うっすらと夜空の月と星が透けて見えている。

 本来なら平和な夕餉の時刻。


 なぜこんなことになる。どうして巻き込まれなきゃならないんだ。


 ボタボタと滴り落ちる水滴は、アパート二階の壁から突き出したものから垂れてきていた。

 灰色の、巨大な肉の塊。相手の生乾きの目がねばっこく細まって、思惑どおりに支配下に置いた得物を睥睨へいげいする。


 嗤っている。ほくそ笑んでいる。

 誰だって、理不尽に死ぬなんて想像しない。


 伝わって、染みこんでくる。しまった、と思った。油断した。

 とめどなく降りかかる液体は、上空の怪異から滴る。液体が顔の皮膚を滑るうちに、ぬるりと中に入り込む。


 次々と注がれて侵蝕される。逃れるすべはなかった。ただの水なのか、体液なのか。考えたくもない。


 嫌悪とともに、急に思い出した。自分の過去。記憶が内側からあふれ、零れて、とても平静を保てない。

 襲いかかるアカネの幻覚を見た。泥水から顔を出しても、執拗にしがみつかれて沈めようとする。子どもの小さな手足でもがいたところで、どうにもならない。


 激しい鼓動が聞こえる。苦しい。殺される、と知る。

 味方などいない。だれもいない。


 狙われて、一斉にたかられ、根こそぎ奪われる。生を放棄するように強要される。同じものに落ちてしまえとそそのかしてくる。命に食らいつかれ、啜られ、すべて絞りとられていく。干からびようと容赦はない。


 絶望する。伝わるのは荒れ狂う怨嗟の念、けっして満たされない欲。底なしの飢渇に巻き込まれて、まともではいられない。

 黒く染まりゆく。考えるだけ苦痛が増すと悟った。修哉は抵抗を手放して、ただ飲まれるしかなかった。


 頭を占めるのはまとまらない思考だった。揺れる視野。ふらふらと部屋の中を移動している。さきほど覗いたアパートの室内の間取りだとわかる。だが、様相はかなり違う。


 床は足の踏み場がないほどにさまざまなものが散らかっている。足場は滲んだように映って焦点が定まらず、なにが落ちていて、なにを踏んでいるのかもわからない。固いもの、柔らかいもの。だがどれもが踏むと厭な感触しかせず、ただただおぞましかった。


 酷い悪寒で震えが止まらず、まともに進めない。一歩踏み出してはよろけ、壁に手をついて、歩いては立っていられなくなり膝をつく。


 もう終わりだ、どうして。笑うやつらが恨めしい、なんでこんなに思いどおりにならない。


 妄執で凝り固まって、とりとめもなく脳が垂れ流す不平を口からぶつぶつと吐き出す。汚いものを見る目で見やがって。全部糞だ。なんの価値もない。


 すえた臭いがする。動物のような異臭。吐いた跡と汚れて気持ちの悪い下着。頭ごと激しく縦横に振られたかのようで吐き気が止まらない。激しい悪寒で苦しい。視界が流れて歪む。


 刻々と千々に入れ替わる場景が突然、透明な水の中に切り替わった。頭から狭い箱に詰め込まれている。まったく自由が利かない。ずるずると沈み込む。

 自由にならない。もう終わりだ。


 目に、鼻に、耳の中に湯水が入り込んできて、肺の中が焼ける痛みを感じる。空気を求め、咳き込んでも流れ込む液体。こらえきれない。修哉は心折れるのを感じた。

 息が止まる。心臓の拍動がいくつも飛んで、絶える。


 迫る、間際が。最期の。

 死――、これが――


「しっかりしてよ、シュウ!」


 身体の芯をつかまれてアカネに強く揺すぶられているのに、なにも感じない。なすすべも無い。

 ただ、うるさいくらいにアカネの声が頭に響いているのに、ひどく言葉の意味が遠い。


 冷える。寒い。なのに頭の中が燃えるように熱い。妬ましい。思いどおりにならない。羨み、嫉み、憎しみで頭がいっぱいになる。

 欲しくてたまらないのに、どうしても手に入らない。

 永遠に。愚、皆が邪魔をする。

 すべてが敵だ。怨悪、苛なにもかも自由に妬、ならない。

 蔑、他人の楽しい時間が苦痛だった。耐えられない嘲。侮ひどく非つらくて遺たまらない。

 自分を敵わらう、やつらが呪わしい。幸せな顔を苦、してい否るやつら害は、許せ決ない。

 扼苦しん罪で死ね。


 生きている意味がない。希望が失せる。存在するのが惨めだった。当たり前だったことが無意味で虚ろ、と化す。無意味、無駄無価値

無駄無駄 無 駄無無駄無  

 価値 無駄無駄  無駄無 無駄無価値無駄

                 無駄無 無駄無価値  無駄 無駄 無駄無


 死ね毒ばいい業、誹絞死んで殺、

 猜忌――妬心と嫌忌だけしかない。望んで起こそうとする行動すべてが拒絶され、常識が覆される。根本から拒否される。

 死ん、、まえ、亡死ね、殺厄謗死。

 羨み、嫉み、憎しみ。ただ恨めしい。

 縊。殺、罪障、卑死死  ね死ね 死ね死ね

死ね死死死死死 死 死死死死死死死死死死死

死死死死死死 死死死死死死死死死死      死死死死  死死死死 死死死死死死死死

死死死 死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死   死死死死 死死死死死死    死死 死 死死死死死死 死死死死死死死死死


 強く締めつけられて、いまにも心が砕けそうになる。




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