第一章(5)…… 死者の来訪


 帰宅して、母親が用意してくれた夕食をかき込み、風呂から上がって、さあこれでやっと悪夢のような一日が終わると思い、自室に戻ったら予期せぬ事態が待ち構えていた。


 手前にドアを引いて、自室内に入ろうとしたときだった。出入り口の床へと視点を落とし、立ちすくむ。


 なにこれ、どんな状況、と呆然と見つめる。


 叫び出しそうになる衝動を必死で抑えて、声を潜め、左横のアカネに訊ねる。

「こっ、……のひと、消えたんじゃなかったんですか」


「知らないわよ、なんであたしに訊くの」

 アカネはむくれて、そっぽを向いている。なんとなく、なにかを知ってる、そう思った。


 目の前には、消滅したはずの巨漢ヤクザが正座している。


 とにかくここに立って、一人言を続けていると家族に思われたくない。隣室には弟の和哉もいる。


「夜分、誠に申し訳ありません」

 男は神妙に口上を発し、居住まいを正す。そして、深々と平服してみせた。

「ご厄介になります」


 重低音の響きの良い声で語る。その声色の迫力に圧倒される。

 ええ、と困惑する。ズルくねえか、と思った。


 なんだよ、この美声。この顔や図体から、この声が出てくるとは。


 ひとまず部屋に入り、ドアを閉める。出入り口を塞がれて対応に困る。ひれ伏したまま微動だにしないヤクザを避け、二十センチ離れた円形を横歩きで半周し、部屋の中央に立つ。


 するとヤクザは顔を上げ、丁寧な動作で部屋の中央へと体を反転し、また修哉とアカネに深々と伏してかしこまった。


「なんでここにいるんですか」


 一刻も早くお帰り願いたいと考える修哉に対し、相手がすこし頭を上げて言う。


「罪滅ぼしに是非とも恩義をお返しさせていただきたく、非礼を承知で押しかけさせてもらいました」

「あたしべつに助けるつもりなかったし、あんたがきらいよ」

 すぱっとアカネがぶった切る。


 ヤクザは、サングラスを外して胸ポケットにしまった。再び頭を下げる。


「礼を欠く行動で、お二方にご迷惑をおかけしたのは私の不徳の致すところです。どうかいま一度、お情けを何とぞ」


 修哉はどう返答すべきか悩んだ。

 霊たちはこちらの都合などお構いなしにやりたいことをやる。こんなふうに謝られたことは一度もなかった。今回はやけに礼儀正しい。当然、なにか目的があるはずだ。


「――……どうしてです」


 修哉は小声で訊ねた。あまり大きな声でしゃべると隣の和哉に聞こえてしまう。

「そもそも、あなた土地縛りだったでしょう。ここまで着いてきたってことは、あの場に未練が無くなってるんですよね。だったら、上がってしまってもおかしくないはずだ」


「おっしゃるとおりです」


 あらためて相手を観察する。心なしか最初に見たときよりも身の丈が縮こまっている気がする。

 駅では威圧でずいぶん巨大に視えたが、いまはさほどでもない。背丈は修哉と同じか、やや届かないくらいだろう。


「自分はろくな人生を送ってきませんでした」

 おそらく、とヤクザが言った。

「なんせ昔の話なので記憶が曖昧ですが」


「いつ……死んだんです?」


 わかりません、と答える。「どうしても思い出せないんですよ」


 背後のアカネが「まあ、そんなものよね」と口を挟んだ。

「時間が経つとぼんやりしちゃうんだもの」


 修哉はアカネを見た。アカネは遠くを見やる目をして言った。

「残るのは強い感情だけ。それにすがって、それだけを自分のなかで濃く煮詰めていくのよね」


「そのとおりです。私は生前――」

 あたし、と男は発音するのだが、間が略されて実際は、あっしと聞こえる。

「好き放題にやってきたツケで、だれかの……いまとなっちゃ敵か味方かわかりませんが、くだらん恨みを買ったんでしょう、線路に後ろから突き落とされてあんな最期を迎えた。もはや自業自得ですが」


 まっとうに死ねるもんじゃないと覚悟はしていました、と感情のこもらない口調で目を細める。


「それでもあんな大衆の面前で、無様を晒すのは無念でならなかったんですわ」

 平坦に言い切った声に、口惜しさが滲んでいるように聞こえた。

「自分だけこんな目に合ったと言うのが、ただ許せませんでね。ずっとあの場から動けずに往来を眺めるしかないのをいいことに、すれ違うやつらは皆、俺を無視し続けやがる。恨めしくて、道連れにしてやるとしか考えられなくなっちまってたんですわ」


 修哉は、さきほど駅であった経験を思った。

 強烈な悪意に当てられて、ふらふらと線路上に引っ張られる。毎日、毎朝毎夜、あれだけたくさんの人が通るのに、よく皆無事でいられるものだと感心する。


 だが、世の中にそんなものが本当に存在すること自体、到底信じられなくて当然だし、信じる必要もない。


 健康で生命力があって、視えず、気づかない者には霊など無力であるべきだ。もともと、日常にない存在なのだから。


 ヤクザの霊は「吹っ飛ばされて、己の現状に気づきました」と神妙な面持ちで頭を下げた。 

「やっと目が晴れて、まともな思考に戻りました」


「それはよかったです。感謝の気持ちはじゅうぶん伝わりましたから」

 どうぞお引き取りを、と言いかけた時だった。


「失礼ながら」と相手が口を開いた。

「私自身には未練はありません。ただ、恩人を見殺しにするのは仁義に反する」


 真剣な声色に、修哉はどう返答していいかわからず黙った。だが、間違いなくアカネの心証を害したようだった。左横の気配に不穏が帯びる。


「おふたりの関係がどうにも気になりましてね」

「なあに? シュウを見殺しってどういうことかしら」


 男は頭を上げて、アカネを見た。

「姉さんあんた、この兄さんとうまくやっているように見える。だが、あんたが引っついてたら先がない事実を兄さんが承知の上なのか、改めさせてもらいたい」


 アカネが修哉の左肩から身を乗り出す。アカネのまなじりが吊り上がるのを視界の外側に見た。


「どういう意味よ」

「あんたは兄さんの命を削ってる。自覚はあると思うが」


 アカネは答えない。白い顔に唇を引き結び、目を剥いている。まぎれもなく怒っている。身体を起こし、修哉の頭上からヤクザ男を見下ろす。


 一触即発。睨み合いが続く。


 険悪に耐えかねて修哉がアカネを見上げると、アカネの視線がちらりと投げかけられて目が合った。

「わかったわよ。たしかにシュウには伝えたことはないけど」

 観念したかのようにアカネが肩をすくめた。


「だってそんなの、話しようがないじゃない。でも嘘はついてないわ、訊かれたことがないから言わなかっただけ」


 アカネは修哉の真上に回り、右手で頬に触れてきた。なだめる口調で話す。


 「シュウはまだ若いもの。休めばちゃんと回復も追いつくし、まだ余裕もある。心配しなくても大丈夫よ」


 楽観視に過ぎやしませんか、と眉をひそめて男が言い返す。

「だからと言って、伝えてないなら公正じゃねえでしょう。事実を伏せていたら、本人に拒否権がない。姉さんは、騙したまま兄さんを取り殺すつもりですか」


「あたし、シュウを死なせたくないからいるのよ」


 男の正論が、アカネの機嫌を再び悪くする。憤然として言い返す。

「あんたのは可能性の話でしょ。いますぐどうこうなるわけでもないのに、なんで非難されなきゃならないのかわからないわ」

 ムカつく! と吐き捨てるとぷいと横を向き、わざらしく仏頂面を作る。


 アカネの反応に、男の両目が険しくなった。


「ちょ――っ、ちょっと待った」

 荒れ模様になりそうな気配を感じとり、修哉が割って入る。

「オレを除け者にして、勝手に話しを進められても困ります」


 アカネさんはオレを助けてくれてるんだ。その信頼は変わらない。修哉は思った。

 出会い頭にちょっかいかけてくるような相手がどこにいるかをあらかじめ教えてくれるし、どうしても回避できないときは追っ払ってもくれる。毎回ダメージが残るから、リスクがあるってのもなんとなくわかっている。


 声の調子を落とす。口調が尖る。


「あんただってアカネさんを責められた立場じゃないだろ。アカネさんがいなければ、オレはとっくに死んでるかもしれないんだ」


「そうよ、大体あんたは修哉に危害加えてた側じゃない。攻撃されなきゃ、あたしだってずっとおとなしくしてられるのよ」


 沈黙が落ちた。部屋のアナログ時計が秒針を刻む音が聞こえた。


 見下ろす相手が再三、頭を下げた。額が床にめり込みそう――いや事実、通過してめり込んだ状態になっている。

「差し出がましいことを言いました」


 横を向いていたアカネが、ちらりと男を見下ろす。

「なぁに? いきなり降って湧いた存在のくせに、あたしたちの間柄を壊したいわけ?」


 修哉の肩上で見下ろしていたアカネが、するすると降りてくる。腰を折るとアカネの髪がふわりと舞って重力に従ったように視える。


「修哉に取り入りたいの? あたしを蹴落として?」

「そうではありません」

「あたしに勝てると思ってる?」

「滅相もない」


 アカネに人差し指を突きつけられても、男はまっすぐにアカネの顔を見上げている。


「私にはもう、そこまでの執着はありません。解放してもらった恩をお返ししたい。おふたりの力になりたい、それだけです。ですから、そちらに」


 男に向けられた目線の先へと、アカネが目を向ける。右肩を前にひねり、二の腕の裏をのぞきこむ。


「――え」


 なにかを見つけたらしく、驚愕の表情になる。あぁあ、とうろたえた声をあげ、なにこれ、と叫ぶ。


「いつの間に……って言うか、なんか変だと思ってたら!」

「姉さんの意に沿わないならば、私の存在自体を滅していただく覚悟はできております。その証拠に、私の命運はすでにお預けしました」


「やだ、ちょっと外してったら、これ!」

 反対の手で修哉には見えないものを引っ張り、取ろうとしている。 なに、どうしたの、と修哉が訊ねると、アカネが叫ぶように返す。


「すごいやだ! こいつ、あたしに憑いたのよ」

「――は?」


 間の抜けた声が出た。


「なに……? 幽霊って、幽霊に憑けんの?」

「知らないわよ!」


 強い剣幕で言葉が飛んでくる。振り向きざまに辻斬りにあった気分になる。やつあたりだ、と思った。


 確かにあの駅で、ヤクザ男は己の執念の強さで背広中年を配下にしていた。似たようなことができる――のだろうか。とは言え、なんでもありなのは今にはじまったことではない。

 執着で動くのだから、執着でなんでもする。でもさっき、そこまでの執着はないって自分で言わなかったか?


 うーん、と渋いものを噛んだような顔になっていた。やっぱり理解しがたい。


「ひとつ、私から折り入って頼みがあるんですが」

「……なんです?」


「姐さんに吹っ飛ばされて、ほとんど思い残しが無くなっちまったせいか、どうしても自分の名前が思い出せんのですよ。渾名でもいいんで、どうか私につけてやっちゃもらえませんかね」


「名前――?」


 たしかに名前がないと今後、どう呼んでいいか困りそうではあるよな、と考えた。そして、もしかしてこのまま付き合いが続くわけ? とも思った。


「そんなの」

 間髪入れず、やけくそ気味にアカネが言う。

「チンピラなんだから、チンかピラで十分よ!」


 アカネの返答を聞くなり、男の期待がみるみる萎れる。

 そりゃそうだ。とっさに苦笑を噛み潰す。チンさん、ピラさん、オレだったらどっちも厭だ、と修哉は思った。


 大体、同じ事をされたら、間違いなくアカネはめちゃくちゃ怒る。自分はダメで、他人にはいいという考えかたはどうなんだ。


「なぁに? 気に入らないの?」

「さすがに、それはちょっと」

「なによ、嫌なの?」

「すんません、勘弁してください」


 遠慮がちに、しかしきっぱりと断ってくる。


 アカネは眉を寄せて黙った。しばらく考えて「こっちはわざわざ考えてやってるのよ、もらえる名前に文句つけないでよ」と言った。


 わざわざ。


 いや、絶対そんなに深く考えてないよな。思いついたら即、口に出してる。


「渾名なんだからなんだっていいじゃない。どうせしばらく居残る間だけだし、大層なのつけたって贅沢なだけよ」


 なんでもよくはないんじゃないかと思ったが、言わずにおく。不機嫌なアカネに対し、下手に口を挟むと藪蛇になって倍以上の反撃が返ってくる。


「あんたみたいなの、半グレって言うんでしょ」


 生前ヤクザをつかまえて、半グレって言うのもどうなんだろう。

 半グレは半分グレている、もしくは暴力団と一般人の間、グレーゾーン集団の一員、という意味のはずだ。


 だが、グレてた時期があったのは間違いない。生前、死後ともに真っ黒な経歴を持っていそうだ。アカネに吹っ飛ばされたていどで、果たして真っ当になったと言い切れるのだろうか。


 どうも真っ白、純白になったとは思いがたい。そうなってたら瞬時に上がってる。せいぜいグレーってとこか。


「じゃあ、グレさんでどうです」


 元ヤクザの巨漢男はまじまじと修哉を見つめた。告げられた名を噛みしめているかのように真顔で黙っていた。


「頂戴します」

 納得した口調でそう言うと、グレは深々と頭を下げた。


 本格的に眠気が襲ってきた。今日は本当に疲れた。

 たぶんこのふたり、放っておいても大丈夫そうだし、もうどうでもいいかな。


「あとは任せるよ。ふたりで話し合って」

「え、ちょっと!」


「寝ないとオレ、マジで死ぬから。そうなったらアカネさんも困るし、アカネさんが困ればそっちのひとも困る、そういうことで」


 じゃ、と言って、ベッドに潜り込む。壁のほうを向いて、オレ関係ないから、の態度で話を強制的に終わらせる。


「もう……どういうつもりよ」

 ぶつぶつ言っているアカネの声がしばらく聞こえた。そのうちに、なにを喋っているのか判然としなくなった。


 急激に落ち込んでいく知覚。眠りに落ちてしばらくすると、何度か覚醒して意識が浮上する時があった。

 その間もアカネとグレが話しているのだけはわかった。



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