第8話 ガール・ミーツ・マン
「お母さん!」
「ごめんなさい……。本当にごめんなさい……」
頭の中で小さく響く涙声。過去の出来事であるにも拘らず克明に思い返せるほど刻み込まれた思い出は彼女の体を震わせる。
直後、場面が切り替わり目の前で魔獣が唸り声をあげる風景が映る。口の端に唾を溜め、狙った獲物を逃がさないよう、威嚇の声を上げる魔獣を目の前に彼女は逃げることしかできなかった。後ろからものすごい速度で襲い掛かってくる魔獣。一度振り切ったと思ってもまた別の魔獣に襲われ逃げ惑うことになる。息つく暇もないほどの逃亡劇に彼女は疲れ果てていた。
逃亡を始めてから二日。彼女の体力はとうとう限界を迎える。すべてを絞りつくした彼女にもう逃げることはできない。それでも魔獣は追いかけてくる。もう逃げられない、殺されてしまう。そう考える少女であったが、それでも生きたいと思いながら足を動かす。しかし、もはや彼女の体力は風前の灯火。あと一分もすれば追いつかれてしまい、魔獣の牙の餌食になるだろう。
霞む視界の中、必死で魔獣から逃げる少女。その少女は霞み揺れる視界の中、剣を握り魔獣に飛びかかる人物を視認する。もしや助けてくれるのだろうか。そう思った瞬間、彼女の張りつめた気持ちの糸が切れる。限界を迎えていた少女の肉体は即座に意識を断ち切り休眠状態に入る。
休眠状態の中で少女は走馬灯のように思い出を振り返る。魔獣に追いかけられていたことでまともに休息を取ることのできていなかった彼女にやってきた久しぶりの休息はまさにうってつけの時間であった。様々な思い出が彼女をよぎっていくがその中でも最も強かったのはやはり自分を救ってくれた男の雄姿であった。名も知らぬ自分のことを何も言わずに助けてくれたその男の姿は、彼女にとって忘れようと思っても忘れることのできない、魂の奥底まで刻まれるようであった。
しかし、その姿を掻き消すように割り込んでくる思い出があった。それと同時に彼女の明るかった思い出の空間が色褪せていき黒に染まっていく。辺りを見回す暇もないほどの速度で彼女の心を蝕んだ悪しき思いでは彼女に牙を剥く。
響き渡るのは別れる直前の母の声。上下左右全てから響き渡るその声で魔獣に襲われた記憶、そして村を追い出された記憶が蘇る。その記憶に怯えるように目をギュッとつぶり耳を抑える少女はその場でうずくまる。それでも彼女の周りで響き渡る母の声はさらに大きくなっていく。その音はどんなに強く耳を抑えても滑り込んで犯そうとしてくる。我慢の限界が来た少女は心の中でやめてくれと叫んだ。
すると、その声に応えるように響き渡っていた声がピタリと止む。声が治まったことで少女は耳から手を離した。先ほどまでうるさいほどに響き渡っていた声は今では全く聞こえない。それどころか自分の跳ねるような心音が聞こえるほどの静寂に包まれていた。
ゆっくりと瞳を開いた少女は何も起こらないことを確認するとよろよろと立ち上がる。そして周囲を見増そうと首を振った。
―――大きく口を開けた魔獣が今にも彼女を食いちぎろうとその口を閉じ―――
「イヤァァァァァァ!!!!!」
少女は悲鳴を上げながら跳び起きた。彼女の声に驚いたのか、隣で座っていたアベルはひっくり返っている。額に汗を浮かべた少女は挙動不審な動きで周囲を見回し、魔獣がいないことを確認すると荒げた息のまま、動きを止める。
「だ、大丈夫か?」
絶叫しながら起き上がった少女に驚いてひっくり返ったアベルは、起き上がると恐る恐るといった様子で少女に声をかける。彼の声に気づいた少女はそちらに視線を向けると慌てたように姿勢を正す。
「あ、あの」
少女はそこまで声を発したところでゴホゴホと苦しそうに咳き込む。二日もほとんど休まずに走り続けていたのだ。当然その間まともに水を飲むこともできていない。意識すればするほど彼女の身体は渇きを覚え、喉は張り付くような不快感で覆われていく。そして意識すればするほど渇きは加速していく。
「水、飲むか?」
そんな少女を見てどういう状態かを察したアベルは袋の中から金属製の水筒を取り出す。彼女にとって差し出されたそれはまるで天からの恵みのように見えただろう。差し出された水筒を不躾にももぎ取るようにして受け取った少女は蓋を開けると勢いよく水を飲んでいく。体面を気にすることもなく水筒の中身をすべて流し込んだ少女は口元を拭うとハッとしたような表情を浮かべおずおずと水筒を差し出す。
「す、すみません……」
「まあ、気にしなくていいよ」
苦笑いを浮かべたアベルは差し出された水筒を受け取ると袋の中にしまった。
水も飲み落ち着いた少女は再び頭を下げる。今度は水を飲ませてもらった感謝もあってか地面に着くまで頭を下げる。
「えっと、魔獣に襲われていたところを助けていただいた上、目が覚めるまで見守っていただきましてありがとうございます」
「お礼は素直に受け取っておくけど、そんなに頭は下げなくてもいいよ」
深々と頭を下げる彼女の前で座る少女を見てアベルは頭を上げるように促す。その言葉に従うように少女は頭を上げる。起き上がった彼女の顔は目の下に涙が伝った跡があり、何かあったことは明白である。
「なあ、なんで一人で魔獣に追われてたんだ?」
彼女の顔を確認したアベルは本題を問いかける。こんな森の中に少女が一人で何の旅道具も持たずにいることも、魔獣に追いかけ回されていたことも、どこからどう考えても不自然である。何か理由があってのことに違いないと考えたアベルは彼女の力になれるのであれば力を貸すことに決め、ひとまず彼女が魔獣に追いかけられていた理由を明らかにしようと考え問いかけた。すると少女は表情を暗くさせ、視線を下に下げる。
「ああ、別に話したくないんだったら……」
「いえ、大丈夫です……」
彼女の表情を見てアベルは触れてはいけない傷に触れてしまったと考えてしまい、遠慮したように両手を振るが、当の本人がそれを否定する。そして重い口ぶりで事の顛末を話始めた。
「実は……、私村の代表の生贄にされて……、魔獣の前に放り出されたんです。だけど死にたくなかったので逃げちゃって……、逃げ回ってたらここに……」
「マジかよ……。こんな女の子を生贄って……。今日日生贄なんて文化無くなったと思ってたんだけどな」
少女の境遇を聞いて思わず絶句するアベル。昨今では魔獣に襲われるような場所に人が住むことはまず無い。そもそもそんなリスクの高い場所に住まなくても魔獣が現れる頻度の少ない場所というものはある。万が一住まなければならないとしても少なくとも魔獣退治ができる人間を置く。故にそんな危険な場所に住む必要性がなく、生贄なんて文化は次第に廃れていく。
「ちょっと待った。じゃあなんで生贄に? そんなことするくらいなら……」
じゃあなぜ生贄に? そう考えたアベルが少女に問いかけると、彼女の口から何とも馬鹿馬鹿しい理由が飛び出す。
「うちの村、貨幣になる鉱石の一種が取れるんです。それがあって離れたくないみたいで。私が十歳くらいの時には魔獣を退治してくれる人間もいたんですけどお給料のことで喧嘩をしたみたいでいなくなっちゃったんです。それでそのあとくらいから生贄をするようになって……」
「……アホか」
『ああ、お前以上のアホだな』
少女の言葉を聞いてアベルは悪態をつき、続いて神であるヴィザも悪態をつく。二人とも村の人間のやったことは問題の悪化と問題を先延ばしでしかないことを理解しているが故の言葉である。生贄を捧げて一時的にしのいだところで問題の根本的な解決にはならない。
「まあ、そいつらのことはいいや。まずはこれからのことだな」
小さく呟いたアベルは改めて少女のほうへ視線を向けた。
「これからどうしたい? 村に帰るか、それともどっか他所の町で暮らすか?」
アベルの問いかけに少女は言葉に詰まり下を向く。彼女が生贄として魔獣に差し出されたということは村の人間は彼女が生きているとは思っていないだろう。彼女が帰れば無用なトラブルを生みかねない。それを防ぐためにも彼女には他の町で暮らすという選択肢もある。最も彼女の自分の食い扶持を稼ぐ力がなければ実現しないが。
が、彼女が選んだのはそちらではなかった。
「私は……、村に戻りたい。お母さんとまた暮らしたい!」
「いいのか? 面倒なことになりかねないぞ」
「いいんです。どんなことになっても私はお母さんと一緒に暮らしたい。たった一人の家族だから」
彼女の意思を聞いたアベルは考え込むように目を瞑った。が、彼女の意思がとても堅いことを声色から判断したアベルに彼女の意思を曲げることはできない。家族を大切に思う気持ちなど部外者である彼にどうこうできるはずがない。ならば彼にできるのは彼女が目的を達成できるように協力するだけである。
「……村ってどのあたり?」
「えっと、ムルのあたりです」
アベルの突然の問いかけに少女は何も思考することなく返答する。彼女の返答を聞いたアベルは重い腰を上げ立ち上がった。
「通り道か。じゃあ君を村まで送っていくよ。帰る手段もないだろうしね」
「えっ!? いや、そんなわけには……」
ここまで発したところで少女は言葉を濁す。今の彼女に生活能力などまるでない。彼女が一人で旅をしたところでまともな目には合わないだろう。そこらの盗賊に襲われて慰み者になるか、魔獣に襲われ食料になるかの二択である。どっちみちろくなもんではない。アベルに甘えたほうが身の安全を保障できると判断するのは当然のことであり、だからこそ言葉を濁した。そしてそのあと熟考した彼女が選択したのは。
「……それじゃあお願いします。道中私にできることであれば何でもさせていただきますから!」
「おう、よろしくな」
アベルについていくことだった。新たなお供に軽く挨拶をしたアベルは歩き出し、少女もついていく形で歩き始める。そのあとすぐ、歩きながらアベルは口を開いた。
「そういえばまだ名前聞いてなかったな? なんていうんだ?」
「あ、そういえばそうでしたね。改めて私、ラケル・ヘルブミアといいます。よろしくお願いします」
「俺はアベル、アベル・リーティスだ。短い間だけどよろしくな!」
自己紹介を終えたところで二人は笑みを浮かべ合う。二人はそのままなんということのない思い出話をしながらラケルは村を、アベルは本社のあるユクリタを目指して進み始めるのだった。
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