第10話 ニート、初めての外出
「ドーム球場で十二個分。と言っても、ドーム球場に足を運んだことが無いヤツには分からない表現かもしれないがな」
ホビットはそう言って僕の前を少しだけ歩く。そうしないと僕の歩足にすぐ追いつかれてしまうからな。
寮の自動ドアをくぐり抜ける。鈍色の空からはまるで神様でも降臨しそうな一筋の陽光が射していた。雨を懸念してビニール傘を持参していたけど、どうやら必要ないみたい。
僕は手にしていた傘を、エントランス付近に備えてある傘立てに差し込もうとした。それをホビットが制する。
「島の天候は変わりやすい。持っていた方が無難だ」
彼は児童用の黄色いスクール傘を手にしていた。まるで英国紳士が公園を散策するかのように、それをステッキ代わりにして彼は軽くステップを踏んだ。無邪気なヤツだ。歳は僕より三年先輩らしいから十九歳だっけ。それにしても老けて見えるな。
ゲロイカ寮を出ると少し距離はあるが同型の建物がもう二つ。鳥瞰するとまるで三角形を成すように並んでいる。そして各寮から渡り廊下が伸びて、先ほど朝食を摂った食堂や大浴場が備えられている建物へと繋ぐ。本館と呼ばれている建物だ。寮が三棟と、その中央に位置する本館という構成だ。
「あっちがエロイカ寮でこっちがグロイカ寮だ。先に言っておくが、グロイカ寮のヤツらとはあまり関わらないことだ。トラブルの元になる。島内にニートモはおよそ五百名。誰もが心に傷を負う者ばかりだが、特にグロイカ寮ときたらエグイの何の。だからこそ、不要なトラブルに繋がる恐れがある。きゃつらは要注意だ、覚えとけよ」
こうして僕らは島内をぐるりと歩き巡っていく。道中でバスの停留所にたどり着くと、ホビットが手を挙げた。向こうから走って来たマイクロバスが僕らの前に停車する。その中に乗せてもらうが乗客は僕たちだけらしい。
「あんまり人を見かけないね」
これだけの施設があるのに、食堂を除けば人はあまり見かけなかった。
「そりゃそうだ。元はみな引きこもり体質だからな。朝飯を食ったヤツらのほとんどは今頃自室でゴロ寝してるよ」
ホビットが僕の隣に座った。
「これからどこに?」僕は訊いた。
「まあ、ちょっとしたいいとこだ」
電気を動力源とするエコ仕様のバスが静かに走り出す。
心地よい潮風が、車内に流れて来る。僕は窓を少し開けて鼻をくんくんと鳴らし、浜風がもたらす潮の刺激を楽しんだ。ココ、リゾート地なんだよな、本当は。
やがてバスは水玉模様が描かれている円筒状の建物の前で停車する。
『海洋生物センター』
建物のプレートにはそう書かれていた。
「ここが俺のお気に入りの場所でね。さあ行こう」
バスタラップを降り、ホビットは慣れた足取りで建物内部へと入っていく。
そこは水族館であった。
大きな水槽に近海に棲む海の生物が回遊しているのだ。
「うわぁ、スゴイな」
七色に光る人工珊瑚の間を行き来する魚類たち。防圧水槽に鼻を近づけて、僕は魚たちの色鮮やかな生態を眺めた。
「ここはまだ序の口だ。こっちが本物だぜ」
ホビットが案内してくれた、水底の浅い水槽にその生物はいた。
「元々ここはこの海洋生物センターが島を管理していて、コイツらの産卵地としても有名だったらしい」
赤茶気た気味の悪い甲殻生物——カブトガニであった。
「このカブトガニ、そしてウミガメの保全のためにこの研究施設が最初にあった。しかしそれだけでは島の維持と管理が出来ず、プラチナアクエリアス社が島ごと買い取り、増改築を繰り返してこの人工島ができた。つまり天然の島と人工物とのハイブリッドというわけだ」
ホビットが浜辺を模した水槽を指さす。
「ほら、そうやって干潟の泥をこさえてやれば、カブトガニは勝手に繁殖する。ただし、夜行性だから今は寝てるだけだがな」
次にホビットはウミガメの飼育施設に案内する。幼児用プールのような水槽だ。そこには人工の浜辺も用意されている。大きな甲羅を背負ったウミガメ二匹が元気いっぱいに回遊している。その内の一匹が人工浜辺に上がって来ると、ホビットはウミガメに近づきその背中に乗って見せた。
「浦島太郎みたいだね」
僕がそう声を掛けると、ホビットは親指を立てて笑ってみせた。根は面白いヤツなんだな。
「それにしても皮肉なもんだよな」
海洋生物センターから出るとき、ホビットが何かわざとらしい言い方をした。
「どういう意味だよ?」
「方や環境省のレッドリストに載っている絶滅危惧種。そしてもう片方は増殖一方の何の役にも立たない絶滅してほしい危険種。両者がこの大きな島で共存しているというコントラスト。奇妙な運命共同体ってのが笑えるだろう?」
ホビットの話に初めて感心した。そういえばそうかもしれない。僕たちニートは親からすれば、例え腹を痛めて産んだ子供だとしても、今となっては無用の長物なのだから。
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