第9話 ニートピア、三日目の朝
ここでの夜を過ごしてから丸二日間、トイレを除けば自室からは一歩も外には出なかった。
さすがに引きこもり三日目となると腹も減るし風呂にも入りたくなるよな。
僕は寮とは別館に位置する共同食堂へと、しぶしぶながら足を運んだんだ。
入所三日目の朝、僕が共同食堂で遅めの朝食を摂っていると、例の小男が性懲りも無く僕の前に座った。
僕は配膳トレーを持って座席を立ち、違う席へと移動する。それを追いかけるようにホビットもついてくる。これを二度ほど繰り返したが、僕の方が根負けしそうになった。
「ついてくんなよ」
僕は苛立ちを隠しきれずに、堪らずこう言い放った。間違ったこと言ってないよな?
「俺が座ろうとしたところにたまたまお前がいた。ただそれだけのことだ、気にすんな」
ホビットがそう言って僕の前にちょこんと座る。背が低いため、普通の椅子ですら彼には大きいようだ。足をぶらぶらさせながら、皿に乗せた焼き立てのクロワッサンをひと口齧る。
僕は何も言わず、冷えた牛乳を胃の中に入れる。牛乳が五臓六腑に染み渡り、寝ぼけ眼が通常モードに変更となる。次に目玉焼きにトースト、そしてツナコーンサラダ。毎朝僕の自室前に、母親が差し出してくれていたメニューと同一だった。バイキング形式ではあるが、僕は知らず知らずの内に、自宅と同じ物を欲していた。自宅が恋しいんだろうな、きっと。
「昨夜はぐっすり眠れたか? いや、どうやらそうではないようだな」
「どうして分かるんだよ?」
会話するつもりも無かったが、何でもこの小男に決めつけられるのが不愉快でたまらない。少し抵抗してみたかったんだ。
「かつての俺もそうだった。ここに連れてこられた頃、それはもう寂しくて寂しくて、最初の一週間は泣きっぱなしだったさ。現にお前も、目が充血してるぜ」
僕は慌てて目を擦る。
「別に泣いてなんか……目ヤニが入っただけだ」
「いいんだよ別に強がらなくても。ここはそういう場所なんだ。みんな心に傷を負っていて、それを互いで舐め合う。いや、ニートにとって人間関係は煩わしい以外の何物でもない。少なくともここニートピアでは、朝から晩まで言葉を発しなくても、衣食住何不自由なく生活ができるんだからな。けどな、それは同時に人間を辞めてしまうことと一緒なんだ。こうやって朝からたわいもない話に花を咲かせる。俺たちニートにとっては、これもまた有意義な時間の過ごし方というわけだ」
ホビットはスープ皿を手にした。初日に飲んだ、鉛のような味のスープだ。それを一息で飲み干すと、
「それにこのド派手な原色のジャージだって、ちゃんと意味があるんだぜ。日々の鬱屈から解放し、多幸感や高揚感を生む効果があるそうだ」
ホビットは着用している山吹色のジャージの裾を手でつまんで見せた。
僕は窓の外を見た。食堂は施設の一階部分にあった。
花壇にはツツジやアジサイがしおらしく咲いている。もうじき梅雨の時期に入る頃合いだ。空模様も、決して穏やかとは言えない。そうか、自宅に引き篭もってから一年以上が経過していたんだな。
海から吹いて来る潮風が、食堂内にもそよそよと入って来る。ここがリゾート地ならどんなに良かっただろう。しかし、ここは粗大ごみの埋め立て地と一緒さ。人間という粗大ごみを埋蔵するために作られた、悲しき人工島。自分で言ってて泣けてくる。
「何浮かない顔してる?」
僕の顔をテーブルに這い上がって覗き込んで来る。山吹色のジャージを着たホビットは、その矮躯とも兼ね合って、熊のぬいぐるみを想起させた。いや、そんな可愛いもんじゃないな。不気味なモンスターだ。
ホビットが僕の心の中を覗こうとしてくるのが煩わしい。相変わらず鬱陶しい小男だ。
僕は食事を綺麗に平らげると、自室に戻ろうとした。当然、ホビットもついてくる。チョロチョロと動き回りながら、歯を磨くための共同洗面所やトイレまでついて来る。あまりに腹が立って、
「さっきから何だよ! 足元をチョロチョロとさ、お前はまるでゴキブ……」
ハッとして僕は口を閉じた。さすがに言い過ぎたと思った。
ホビットが後ろ手をしながらタイルの目地でも数えるように床を見つめる。モジモジとしている彼と僕の間に、刹那的な沈黙が流れた。
「それも散々言われたよ」
「……その、ゴメン」
僕は素直に頭を下げた。まだ自分に人に謝ることが出来るだけの優しい心があることに少し驚いたさ。
「俺にはお前の気持ちがよく分かる。ここでどういう暮らしをしていけばよいか、今はそれすらも分からなくてイライラしている状況だろう。だからこそ、先人の知恵に耳を傾けることが今は一番重要だと思っている。恩着せがましい言い方ですまないが」
ホビットは顔を上げ、
「なあクロパン、この島の施設はまだ全然廻って無いんだろ? もしよければこれから案内するがどうだ? どうせ自室に籠もってゴロゴロするくらいなら、外の新鮮な空気を吸うのも悪くはないぜ」
ホビットの言う通り、僕のこれからの予定は全く白紙だった。というより、明日も明後日も来月も、おそらく来年も。ここに入れられた以上はたぶん何もすることが無い。あれだけ求めておいた自由な時間と空間なのに、今はどうしていいのか分からないんだ。
僕はこめかみを人差し指で掻きながら、
「じゃあ、お願いするよ」と、少し照れてみせた。
ホビットはパッと明るい顔をして、僕の尻を叩いた。
「そうこなくっちゃ。でもその前に、ひとっ風呂浴びて来い。俺たちはニートであって、浮浪者じゃないんだ。ここでの身だしなみは大事だぜ」
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