第10話 とある少女

 私は亡くなった母に抱きしめられた事がない。私を抱きしめてくれたのは祖父に執事のアルフレッドに侍女のアイリーンとジルだけ。

 父は生きているけれど、一緒に住んだ記憶はないし、祖父の葬儀以来会っていないので、七年は会っていない。

 父は我が領地の東の外れにあるヴィラにいわゆる愛妾とその娘と住んでいる。その娘つまり妹とは一つ違い。彼女は現在十五歳。社交界のデビューもしていない。我がホーガン家としての教育も受けていない。父はこのまま、公爵家の次女としての彼女をどうしていくつもりなのだろう。

 父は多分、貴族社会の事について頓着しない人なのだろう。貴族社会という極端に狭い世界で、自分が、愛する女が、血を分けた人間がどんな風に映るのか、そしてどんな風に噂をされるのか、気にしていないのだと思う。気にしているのなら、こんなにも周囲の人間に誠意を欠くような振る舞いをしないだろう。

 父の事を人間としても父としても理解出来ていないのは、理解出来るだけの時間を共にした事がないからだ。


「クレア!ロバートさんがケーキ沢山焼いてくれたよ。行こう。」


 庭をタッタッと小走りでやって来たエディは、私が座っているベンチの前で立ち止まり、手を差し出す。私はその手を取って立ち上がる。エディの身長はとっくに私の背を追い越し、頭一つ以上離されている。


「イルフロッタントとフォンダンショコラあるかしら?」

「ロバートさんが、クレアの好きなスイーツ外すわけがないでしょ?」

「そうね。私は幸せ者だわ。エディの唯一食べられるティラミスもあるかしらね?」

「今日は僕のものはいらないよ。クレアのための日なんだから。」


 庭を中程まで歩くと、ジルがガゼボにテーブルセッティングをしているのが見える。自然にエディに笑いかけると、エディは優しさがにじみ出るような満開の笑顔を向けてくれた。


「今、読んでいるのはグネーグネッシ共和国の本?」

「そうよ。恋愛小説。」

「二人は幸せになれそう?」

「さぁ。まだ、分からないわ。読み始めたばかりだから。」

「お嬢様、クララお嬢様。」


 侍女頭のアイリーンは、母親が私の母の乳母だったこともあり、そのまま乳母子として母に仕えた。経験値も教育も行き届いていて、こんな慌てた様子で呼び止めるような事は一度もした事がなかった。


「アイリーンどうしたの?」

「旦那様が。」

「父上が?何かあったの?」

「引っ越して参りました。アレクサンドラ様とソフィア様もご一緒です。」


 こうして、今まで平坦だったわけでもない私の生活はさらに抜け出す手立てさえない何処かに落とされた。

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