苦髪楽爪

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カインが父の書斎へ本を借りようと廊下を歩いていた時だった。

廊下の向こう側からディアーナが「お兄様ー」と手を振りながら走ってきた。カインはディアーナを迎え入れようとその場でしゃがみこんで腕を大きく広げて待った。

いつもならボスンと音を立ててカインの胸の中に飛び込みおでこをグリグリと胸に押しつけてくるが、今日はカインの目の前でピタリと立ち止まり、ピシッと気を付けの姿勢で背筋を伸ばしたのだった。


「ディアーナ?」


どうしたの?と言うように首を傾げて問いかけるカインに対して、ディアーナはにこりと笑うと一礼をした。


「ごきげんよう、カインお兄様。わたくしはディアーナと申します。お会いできて光栄でございます」


ディアーナは、左手でスカートの中ほどを小さく摘まんで持ち上げ、右手は胸に、腰から上を左側に少し傾げるポーズをした。

この世界での淑女の礼である。


チラリとディアーナの後ろに視線をやると、しつけ担当のサイラス先生がゆっくり歩いてくるのが見えた。

おそらく、今日は淑女の挨拶を習ったのだろう。習ったことはすぐにみんなに披露したいものだ。


カインは立ち上がって姿勢を正すと右手を胸に、左手は手のひらを相手に向けて腕を少し上げる。


「ごきげんよう、ディアーナ嬢。わたくしはカインと申します。お会いできて光栄でございます。本日もまたあなたに会えた幸運に感無量です。わたくしは今ならこの溢れる幸せを糧に世界を3周は走ることができるでしょう」


そう言って、腰から上を左に傾げた。

澄まし顔でお互いの顔を見つめ合っていたが、どちらからともなく吹き出すと、カインとディアーナは声を上げて笑った。


この世界の淑女の礼はカーテシーとは少し違っていた。

スカートを摘まんで持ち上げるが、片側だけだし膝も折らない。


ゲーム開発者がオリジナリティを出したかったからなのか、イラストレーターがカーテシーを深く理解していないままスチルを描いたせいなのか、もしくはゲームでは特に設定が無かった為にこの世界で補足された形がこの姿勢なのかは解らなかった。


「カイン様は姿勢は美しいですが口上が長すぎます。簡潔に」

「はい」


カインは今、家庭教師の授業をすべて休んでいる状態だが教え子であることには変わりない。サイラスは目に付いた注意点を指摘してきた。

厳しい顔をしているが、褒めるべきところがあればきちんと褒めてくれるのもサイラスの良いところだった。


「ディアーナ様の前で表情を崩さずに居られたのは良かったですよ」

「ありがとうございます。サイラス先生」


「ディアーナ様も良くできました。体を傾ける時に首はまっすぐにしていれば完璧でしたよ」

「はい!」


サイラスに褒められて上機嫌のディアーナはお父様に挨拶してくる!と言い残してサッサとあるいて行ってしまった。

ディアーナの後を追うために歩き出そうとしたサイラスは、思い直して足を止めると廊下の片隅に目をやった。


「カイン様。余韻に浸るのは人目が無くなってからになさいませ。もしくは、1人になれる場所まで耐えられるように訓練なさい」


そう言い残してサイラスは今度は足を止めずに歩き出したのだった。

サイラスが視線を投げた廊下の片隅には、両手で顔を覆ってうずくまり、ディアーナの可愛さに打ち振るえて泣いているカインの姿があった。


その頃、ディスマイヤは執務室でディアーナから「初めまして」と挨拶されて撃沈していた。






自室で本を読んでいるカインの髪を、イルヴァレーノが梳いている。


魔法を習い始めた頃からカインは髪を伸ばし始めていた。

魔力は体に蓄積されると考えられているので、体が大きい方が有利であるとされている。当然、髪にも魔力は宿るので、魔法使いは髪を伸ばしている者が多い。カインの魔法の教師であるティルノーアも髪が長い。


「だいぶ伸びましたね」

「苦髪楽爪って言葉があってな。苦労してると髪が伸び、楽をしてると爪が伸びるってことわざだ」

「ことわざも当てになりませんね」


カインの髪の毛は肩に付く位の長さなので、まだ纏めるのは難しい。しかし前髪やサイドの髪が目にかかり視界を遮るのも良くないので普段はピンで留めている。

イルヴァレーノはポケットからひとつの髪留めを取り出すとカインに見せた。


「この髪飾りで髪を留めても良いですか」

「綺麗な透かし彫りだな。でも、コレだとちょっと女の子っぽくないか?」


それは、蔦と星と月を意匠化したデザインで透かし彫りになっている木製の小さな髪飾りだった。裏にピンが付いていて髪留めになっている。


「セレノスタが作ったんですよ。鍛冶屋で奉公していた時に覚えた細工物の加工の応用らしいです。カイン様とディアーナ様にと預かってきたんです」


もう一つ取り出した髪留めには、花とうさぎと蝶が彫られていた。


「器用なもんだな」


カインは、手にとって日に透かしたり裏側を見たりといろんな角度から観察していたが、しばらくするとイルヴァレーノの手に戻した。


「それで髪を留めてくれ。後でディアーナにも付けてやって、2人でお母様に見せびらかしに行くことにしよう」


カインとディアーナは明るい金色で癖のない真っ直ぐでしっとりとした艶やかな髪をしている。

ダークブラウンの木製の髪留めは一見地味だが、よく見るととても細かい意匠になっていた。

明るい髪色に暗い色のワンポイントがかえって目だち、可愛らしいデザインが明るい髪を引き立てていた。





しばらく後、セレノスタはエリゼが贔屓しているアクセサリー工房で住み込みで働く事が決まったのだった。

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ディアーナの挨拶回りの言葉は、覚えた中からランダムで出てきます。

今はまだ。

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