第60話 聖者の行進、或いは命の別名、またの名を火を継ぐ灰の姫

 海底――無音に近いと思っていた世界は、ことのほか不協和音に満ちていた。

 蠢く波の音、風の音、遠く霞む金切り声のような何かの生物の鳴き声に、最早音源の特定すらも叶わぬ文字にならぬ濁った音。

 その中でも、機体内部のジェネレーターの稼働音が一際うるさく響く――己自身の鼓動のように、この不気味なる音の海にあってはある種の安心をもたらすものだ。


 ぼんやりと――……一度意識を失って、また目覚めてからも、目を閉じながら回想していた。

 士官教育の傍ら、同期と話した覚えがある。

 どの兵科には就きたくないかとか、そんな話だ。

 それを、不意に思い出した。


 皆が挙げたのは――……


(潜水艦、だったな。理由は……海底で太陽に当たれない生活が続くからと、航行不能になった際に酸素が切れて死ぬのを待つしかないから。潜水艦の救助艇というものもあることはあるが……)


 かといってその全ての乗員を助けきるのは極めて難しいだろうな――という話になっていた。

 ……そんな会話だった筈だ。

 今の自分は、奇しくも、ほぼそのとき話していたような状況だった。

 骨組み同然になった機体は、海底に着底している。

 力場を構築するための流体ガンジリウムは全て流出してしまっており、力場を利用した推進は行えない。

 そしてコマンド・レイヴンに可能なら海中での移動は、そんな推進による方法しかない。

 つまり、この機体は動けない金属の棺桶に等しかった。


(我ながら、落ち着いているな。……いや、或いは死ぬ前というのはこんな形なのか。前はどうだったか)


 寝起きよりも重い頭のままでコックピット内を見回す。

 自爆的なプラズマを纏った攻撃に伴い、全周モニターを構成するための光学センサーの大半が破壊されていた。己の周囲を覆っている開けたモニターの視界も、そのほとんどが黒く塗り潰されている。

 だが、それで良かったのかもしれない。

 全てが深い青に覆われた海底は不気味だ。救助を待つ間、いくらモニター越しの映像と言っても、己の全周に光遠き仄暗い海底が映し出されているのも落ち着かない。


 海底と言っても、海溝ではない。

 おそらくは大陸棚にあたるところで……水深は百数十メートルから二百メートル手前ほど。海の中としてはそれほど深くはない部類に入る。

 つまりは――……まあ、何にしても、自力での脱出は不可能という場所だ。

 正しく言うなら、もう、その気力もなかった。


(……二度目か、死ぬのは)


 力場というのは人間に相当させれば皮膚または筋肉、或いは衣服のようなものだろうか。

 高度にアーセナル・コマンドと脊椎接続アーセナルリンクをしている状態で、先程メイジーに対して行った戦法というのは――……わかりやすく人間に直せばこうなる。

 皮膚や衣服を裏返して内向きに無理矢理ねじ込んでいき、血管を圧迫し、血の流れを強制的に操作して、その圧力で自ら体外に出血させて、おまけに身体の周囲を発火させる。

 それを、既に身体のどこそこの骨が折れ、神経系が傷付いている状態での行った。そんな状態で戦闘を続けた。

 だからだろうか。

 そのショックで、脳も死にたがっているのかもしれない――……或いは情報上とはいえ、そんな状態なら死んでいるのが妥当と見做しているのか。


(それとも、もう俺も狂っているか。……よくヘイゼルは、こんな空間に身を潜めていられるなと――思う)


 ああ、と鈍痛に近い頭痛――のような何かがあるような、ないような、鉛の如く煮凝った己自身を自認する。

 何にせよ、神経へのストレスというのは高かったらしい。

 どうにも倦怠感が取れない。倦怠感というか、もっと直接的に……臨死の感覚と言おうか。全てが朦朧としていて酷く気怠い。

 安静ながらも、息がやや荒れていて深く短い吐息を繰り返している。

 このまま行けば……こちらを打倒せんと戦闘を行ったメイジーからしたら、ある種彼女の希望に叶った形になるのだろうか。

 だというなら、せめてまだ、ただ何処其処で意味なく死ぬよりはまだ彼女の慰めになるだけマシなのだろう。

 そんなふうに考えながら、曖昧な意識の気付け代わりに口を開いた。


「……フィーカ。俺が死んだら貴官はどうなるのだろうか? もし可能なら、低酸素状態での俺の生理的なデータをコンバット・クラウド・リンクに共有してほしいのだが」


 宙間戦闘での何かの参考になるかもしれないな、と思いながら呼びかける。

 だが、返答はあまり芳しくはないものだった。


不可能ですネガティブ我が親愛なる主マスター・マイ・ディア

「……問題が? いや――」

『ええ、予想の通りかと。……この深度では電波が拡散してしまい、衛星との通信は不可能です』


 咎めるような彼女の口調に、なるほどな、と頷いた。

 情報量の多い――そして強い、周波数が高い通信というのはその分遮蔽物による阻害が大きい。電波というのはまさしく電気の波であり、水との相性は悪い。

 海中での索敵にレーダーではなくソナーが用いられるのは、このような理由もあることからも判るだろう。


「そうか。……だが、何にせよ、貴官の大元に影響はないだろう。その点は、安心する」

『いいえ、御主人様マイマスター……今ここにいる私は私だけです。コンバット・クラウド・リンクに人格データが残っているとしても、ここで貴方と会話しているのは、この私だけなのです』

「……俺が死んだら、貴官も死ぬということか」

肯定ですアファーム親愛なる我が御主人様マイ・ディア・マスター。私だけが救助をされたとしても、私はコンバット・クラウド・リンクとの共有を行いません。……私は、最期まで貴方と共にあります。どうか、いつまでもフィーカを貴方のお側に』


 彼女の言葉が響くコックピット内のモニターに映るのは、新月の夜よりも暗く――果てなく降り積もる、深い群青色の重圧。遥か高く、か細く、僅かにぼやけた海上の明り。

 圧してくるような闇に近い青。

 孤独な真空に近い、海がもたらす孤立。死。圧力。

 これが一種の報いかとも――思った。

 思ったが、だが、


「そうか。……なら、ああ――……死ねないか」


 己の精神に着火する。

 備えているのだ。備えろと、己に命じたから。

 それを思い出せ。命じたことを思い出せ。己を思い出せ。理念を思い出せ。剣であることを――想え。

 そうだ。

 決して折れず、曲がらず、毀れぬ剣であれと己を定めたならば――内なる焔にてその刃を鍛え上げるならば。

 死すべきは、ここではない。


「……適合率の初期化コマンドの実行を要請」

『何を、御主人様――!?』

「死ねなくなった。……自己の臓器の活動を抑え、酸素消費を極限まで低減させる」


 理論上は、可能だ。

 自分の肉体を機体の備品と見做してその完全制御を行うなら、限られた酸素の中での延命も可能である。

 つまり、何も問題ないということだ。


『ですが、この動作を続けたら御主人様の神経は――』

「問題ない。俺は全てに備えている。貴官という得難い戦友のためと思えば、この程度には支障はない。……意識が続く限りは、自己の酸素制御を行ってみよう」


 奥歯を噛み締める。

 そうだ。己一人の死ならば呑めるが――己のそれが道連れを求めてしまうというなら。この機体という運命共同体の中で、死出の道への共連れが生まれてしまうというなら。

 それは、死すべき理由にはならない。

 ならば単純――生きるのだ。生きるべきだ。

 いや、そんな理由などなくとも……ここで、己が折れることを良しとしていい理由はない。

 両手の操縦桿を強く握り、己が肉体に覚醒を申し渡す。


『おやめください。……私なんて、仮初めの命ですらないデータの塊に――……そんなもののためになど……そのために行う行動としては……あまりに非合理です、御主人様マスター

「いずれにしても、死ねぬならこれを行う他ない。貴官だけが理由ではない。……つまり、君が気にすることではない」

『ですが……!』

「それに……精神こころ知性おもいがあるなら、貴官も人間とはそう変わらない。市民や戦友を護るのは俺の職務だ。貴官が駆動者リンカーと共にあろうとするように、俺のこれも紛れもなく俺が行うべき職務の一環だ。……俺に、君を守らせてくれ」

『――』


 長い沈黙の末に、ホログラムメッセージが浮かび上がる。

 警告/要求/了承――【最終確認です。実行の場合、パスコードの提示を要請します】。


『……了解致しましたウィル・コンプリィ御随意にオールグリーン我が主マイマスター。貴方のその処理を、私は最期までお傍で支えます。……私は、如何なる道の果てでも貴方の従者として共に在り続けます。我が親愛なる主、兵士の中の兵士……ハンス・グリム・グッドフェロー』


 悲しむような、決意したような彼女の声。

 それを受け止め、こちらも口を開く。

 視線の先には僅かに残る全周モニターの――機体の外の群青。果てしなく、果てどなく、この星を覆い、この機体を圧する底冷えのするが如き水の重圧。


 ――。

 ――――。


Vanitas空虚よ――para備えよ bellum戦いに,」



 ◇ ◆ ◇



 レーザーにより撃墜されたミサイルの爆炎が散った洋上で、三機の機械騎士が相まみえる。

 三機が複雑に戦闘機動を行いながら、大気を裂きながら、洋上にて相まみえる。

 寒々しさを感じるほど、遠く燃え上がる都市をモニターに映して――それらを中心とした海上遊弋都市フロートを水平線の際に浮かべながら。

 長槍めいた超大型レールガンを逆手に握った深紅の四脚機体のそのコックピットの中で、ヘイゼル・ホーリーホックは独りごちた。


「……ありえねえだろ」


 思わず、タバコを咥えそうになった。

 無意識に操縦桿から手を離そうとしてしまった兵士としての失態に、しかし気付かず――……そんな彼へと、純白の胴と群青色の手足を持つ機体から、叫びに近い少女の言葉が投げかけられた。


『ありえないことだって言うんなら……貴方がそう言うんなら……違うでしょう! 街が焼けてるのに、ここで戦っていることの方がありえないことなんですよ!』


 尖った――しかし決意を秘めた少女の声。

 死んだはずの年若き、シンデレラ・グレイマンのその声。


『あのときは貴方も居合せた筈なのに……! 離れていても同じ街の中に! あのときだって居たはずなのに! 貴方にも判っている筈なのに! あんなことはいけないことなんだって! 人が死んでいるんだって! どうして一度アレを見て、また見逃せるんですか! 貴方は!』


 両肩部のレーザー照射装置と、両腕部のグレネード投射砲。

 それを振り散らすような勢いで、彼女は叫んだ。

 目を開けと――罪を見ろと。酔うなと。

 悲しみに、痛みに、殺しに、血に酔うなと――彼女はただ、その年若い声を鋭くぶつけていた。


「……それが俺の請け負った仕事だ。素人の嬢ちゃんに問答ぶつけられる筋合いはねえ」

『――! 殺されかけてるんですよ、こっちは!』


 叫びと共に、照準される肩のレーザー。

 敵機の装甲を焼き、配線を焼き、そしてその命までもは焼かない不殺の装備――。

 ほこを止めるという、武の真髄の如き擲炎兵スコーチャーから受け継いだと思しきその銃口。


『そんなのが兵隊の仕事だっていうなら――それが貴方の為すべきことだっていうなら! 修正してあげます! わたしが! 誰でもなく貴方に撃ち落とされた、このわたしが!』


 その射線を切るように機動を行う青き重装甲の機体、超大型増設ブースターを背負った【メタルウルフ】の主である男も、思わず声を漏らした。

 それは己の弾丸を迎撃されたという驚愕か。

 それとも彼に最終的な参戦を決意させてしまった少女の、その生存か。


「どうなってやがる……」

『どうなってるもこうなってるも! 人が死んでいるんですよ! 彼処で! 今も! 死んでるんですよ、人が!』


 シンデレラは、ただ、燃える街並みを指し示している。

 まさしく【フィッチャーの鳥】によって戦火を齎され、戦場となり、今まさに滅び行くその都市を。

 彼女は――ただ、叫ぶ。


『見ましたよ! 記事で! 貴方も大尉の戦友なんだって! 聞きましたよ、アシュレイさんから! 人を護ろうとしてたんだって! なのに――そんな人が、そんな人が今ここで何をしてるんですか!』


 機動の鋭さと、声の鋭さ。

 それは、鈍った刃である二人には追いつけない。

 追いつける筈だというのに――そうである筈なのに。


『こんなことが正しいことだって言うんなら! そう思って貴方が行っているって言うんなら! なら……胸を張れるんですか! それを! 全世界に向けて! 自分は、って!』


 若さか。

 それとも、正しさか。


『人が人を助けようと思った優しい心があるなら、それを押し殺すべきではないんだって……何故わからないんですか! 貴方は! 貴方たちは!』


 弾を放たず、無言の殺気を放ち、銃口を向け合い、幾度と飛び合うその海の上で。


『苦しんでるんですよ! 悲しんでるんですよ! 彼処にいる人たちは! 彼処で生きている人たちは! そのことが判らないなら――判らなくなってしまったって言うんなら!』


 少女はただ叫ぶ。

 目を閉じず、黙せず、屈せず――ただ叫ぶ。


『戦うべきじゃないんですよ! 貴方たちは! こんなところで!』


 生者の声だ。

 彼女こそは、紛れもなく、今を生きる生者のその声だ。

 死者の道往きに歩むべき先を作る、意思にて道を舗装する、ただ懸命に生きる者の声だ。


『戦いをやめて――せめて人助けを、してくださいよ! 貴方がたにこれまで助けられた人たちを! その人たちの喜びを! それまで踏みにじったり――それをなかったことみたいに! させるんじゃ――ないッ!』


 何故、彼女が今ここにいるのか。生きているのか。

 そのことは、最早全てが些事だ。

 彼女は確かにここにいる。

 ここに、生きて、いる――――。


 死せる生者に生かされてしまった死者たちが鉾を交えるその戦場に。

 その一機当千が、対一〇〇〇〇機テンサウザンド・オーバーの怪物たちが冷徹なる殺意を交わし合うその死線に。

 確かな命の熱を持って、彼女はここにいる。


『わたしが――シンデレラ・グレイマンが! 戦ってやる! そんなことを繰り返すって言うんなら! そうしかできないって言うんなら!』


 その琥珀色の、金色の瞳に宿されるのは意志。

 意志という名の、篝火の炎。


『そんなもの全部――何もかも全部! わたしが背負って! 受け継いで! 何もかも終わらせてあげますよ! こんな悲しみの何もかも! わたしの命を、皆に貸してやるッ! だから――』


 灰被りの少女は、


『わたしに従え、黒衣の七人ブラックパレード――――――!』


 火を、受け継いだ――――。



 ◇ ◆ ◇



 まず、気付いたのは新鮮な酸素を吸えているということだ。

 肌には煙や、戦場の燃え燻ぶる炎の匂いが染み付いているというのに、不思議と清涼な空気だった。

 それから目を開いて、太陽というのはこうも眩しいものだったのかと目を細める。


 身を起こせば、酸素マスクをつけられていることに気付いた。

 周囲には、僅かにうなだれた様子の年若い女兵たち――彼女たちが保有している海空両用の輸送船の、その甲板に横たえられていた事に気付いた。

 船が揺れる。強い波に揺れる。

 彼女たちの視線の向こうには――波間のあちらには、燃え落ち、まさに今海中目掛けて沈みゆかんとする浮き島。数多のビルが紅蓮の焔と立ち上がる巨獣めいた黒煙に包まれた、海上遊弋都市フロート

 止めようとした医官を手で制し、身を起こして酸素マスクを外す。


「グッドフェロー、気が付いたか……悪い知らせと、より悪い知らせと、最悪の知らせと、多少マシな知らせがある。……どれから聞きたい?」


 振り返れば――腹部に包帯を巻いて、年相応に華奢な――しかし年からは不相応に筋肉質の上半身を露わに、軍用ジャケットを纏った眼帯の少年が。

 ハロルド・フレデリック・ブルーランプが、顰めっ面でそう問いかけて来ていた。

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