第24話

 

「あの、皇子……っ」

 勇気を振り絞って口を開いても、無視される。そんなことも初めてだった。


 宮殿に連れ戻され、皇子の寝室へと半ば放り込まれる。そしてそのままベッドへと体を倒されて、皇子が馬乗りになった。



「──お前はいつからエヴァンの婚約者になった?」


 先ほどと同じ質問を投げかけられる。


「もちろん、嘘だよ……。そうしておいた方が都合がいいってエヴァンが……」


 ……ごめん、エヴァン。私はこの怒りのオーラに勝てないよ。



「……エヴァンはお前に触れたか?」


 低い声。本気で怒っているんだろう。こんなに苛立ちを表に出している彼を見たことがなかったから。


 私が微かに首を横に振ったのを見ると、彼の目に浮かぶ怒りの炎は少しだけ鎮まった気がした。だけど私の手首を掴む力は緩まない。



「……お前は、私のものだ」

 切ない声色が、私の体を痺れさせる。


「この世界の人間ではない。お前にはお前の世界がある。それは十分に分かっている」

 掴まれていた手が離れても、私は動けない。皇子から目が離せないのだ。


「だからせめて──ここにいる間だけでも、お前を手に入れていたいんだ」


 ぐっと抱きしめられて、皇子の顔が私の肩に埋もれる。



「お前は私にとって、月が綺麗な夜に現れた──女神なんだよ」


 皇子はあの日、洞窟の外へ出て水浴びをしていた。


 いつだったか──あれは、皇子という責務に耐えきれないほど辛い思いをした時に行う精神安定剤のようなものなのだと、エヴァンが言っていた。



「お前が来てから、月光浴をしたいと思わなくなった。あれだけ月の光に癒しを求めていたというのに……お前のそばでいるほうが、心地が良くなってしまった」



 皇子に迷惑をかけてばかりだと罪悪感を抱いていた。だけど、その必要なんてなかったのだ。


「お前が私の手を取ったあの瞬間、私はとても温かい感情を手に入れたんだ」



 ──そう、それは私がこの世界に足を踏み入れたその瞬間から。


「……皇子」


 やっとのことで声を発すと、彼の背中がぴくりと震えた。それがなんとも言えず愛おしくて。皇子の髪をふわふわと撫でた。


「……お前の帰り方が分かったかもしれない、と言ったな」


 掠れる声を心地よく感じながら、とても大事なことを聞き逃すところだった。




「お前の帰り道は“月が導く”」


「──月?」


 私の肩に顔を埋めているから籠っている声。あまりにも予想できない言葉が聞こえて、思わず聞き返した。


「──ああ。“満月の夜、聖なる泉が月光に照らされる時──異世界への扉が開かれる”と、遥か昔に語り継がれていたという。今ではもう、伝説としてすら残っていない……絵空事なのだと」


 月の光。聖なる泉。

 心当たりなら、十分すぎるほどある。


「それって……」

 皇子も私の言いたいことを悟って微かに頷いた。


「お前が私と会ったあの日も月が綺麗な夜だった。そしてあの湖が“聖なる泉”と呼ばれるものだったなら、辻褄は合う」


 その伝説とやらは、私がここへ来た時の情景とあまりにも一致していて。迷信だと切り捨ててしまうのは、もったいないくらいに。


「……試しても無駄ではないと私は思う」


 ──よかった、とは言えなかった。


 彼の震える肩を見ていたら、とてもじゃないけれど。




「──あと、2週間ほどだ。お前といられるのも」


 さっきよりも少しだけ、明るい声──そう装ったようにも聞こえるが──が、はっきりと耳に残った。


 私の肩から離れ、上げた皇子の顔は悔しいくらいに爽やかな微笑み。だけどやっぱり、それは彼の心からの笑顔ではなかった。

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