第5話 元殺し屋の会社生活

 そこに居るだけで、肺が真っ黒に汚れそうな部屋だった。

 タバコの煙に酒の匂い、住人の体臭に生ごみの腐臭が混じり合う中で、大の男4人が車座で酒を飲んでいる。

 ワンルームは、汚い公園のようだった。ビールの空き缶や酒の紙パック、菓子やツマミの袋、食べかすや残骸が散らかり、不潔感が堆積していた。


 風俗やパチスロ、ナンパ自慢に将来のビッグな夢が無造作に飛び交う中、元木英太は背広の上を脱ぎ、ネクタイを取った姿でぬるいビールを飲んでいる。

 目の前で『武勇伝』を語っているのは、高校時代の同級生だった中倉邦男だった。


「でよお、俺言ってやったんだわ『オイオッサン、ざけんじゃねえよ外に出ろ』そしたら、そいつ俺にブルって『あ』とか何とか口ごもってやんの。俺みてえに男張って生きてる奴の怖さ、あのクソに教えてやろうかと思ってよ、首根っこ掴んで……』


 安居酒屋で飲んでいたら、隣のテーブルのグループがうるさくて喧嘩売った、という大武勇伝を邦男は熱く語る。

 邦男の仲間2人、山田と鈴木は「だっせええ」とか「馬鹿かそいつ」と笑いながらそれを聞いている。

 英太は口を笑いの形に歪めながら、そっと腕時計を見た……0時になっている。

 会社帰りにラインで呼び出され、ここに来た。


 いつもながら気の進まない誘いで、しかも明日は会社のゴルフ接待がある。本心は断りたかったが、断ったら3人分、携帯の着信が延々鳴る。

 ちょっと顔を出して帰ろう……そう思ったが、情けないほど中座のタイミングが掴めず、ずるずると4時間も経ってしまった。

 邦男が己の人生訓を熱く語っている。


「男なら、命かけて戦えって!」


 ――何で俺、こんなところにいるんだろうな。

 せっかくこの地元を離れ、東京の大学に進学し、就職もしたのに。

 それなのに、職場の上司と諍いを起こしてはずみで相手を殴り、仕事を辞めて地元の実家に戻ってしまった。

 ある日の日曜日、実家にいてもすることが無く、母親に黙ってパチンコ店に入った。

 そこで邦男に再会したのだ。


 ――アレ、お前、なんでここにいるの?

 高校時代は、野球部でピッチャーの邦男とバッテリーを組んでいた。

 しかし嫌な思い出もあって、邦男の高校退学後は連絡は取っていなかった。

 罪悪感と共に会いたくない相手だったが、邦男はそんな事を忘れてしまったかのような明るく話しかけてくる。

 それ以来付き合いが復活した。


 邦男のダチという山田に鈴木が交流の輪に入ったが、実を言うと英太は邦男との交際の復活を、今では薄く後悔している。


「こないだ、薬局でギってやったガムを、焼き肉屋でリーマンに1000円で売ってやってよ、涙ぐまれて感謝されたわ」

「制限速度30キロの道路を、原チャ100キロでぶっちぎりよ。ガキを引っ掛けそうになって、母ちゃんが『キャーっ』なんてすっげえ悲鳴上げて、あほか、そんなとこでガキを放牧する方がヤバいわくそばばあって怒鳴ってやったけどな」


 最初の半年は、英太もこの集まりをそれなりに楽しんでいた。

 高校時代、ちょっとしたヤンキー仲間とコソコソ隠れてタバコを吸い、酒を飲んでバカ話をした空気を思い出し、懐かしかった。

 しかし、最近飽きてきた……というより、何だかバカバカしくなってきた。これって、十代の頃のバカ自慢はとにかく、いい年した大人が嬉々とする話か?

 そう思うと、色々と気になり始めた。


 例えば、今のなり……邦男に山田、鈴木はジャージだのよれよれのTシャツで、英太はスーツ姿。

 ネクタイを締める仕事をしているのは、この中で英太一人である。邦男は無職で、山田は路上キャッチ、鈴木は自称パチプロだった。生活の接点がない。

 それだけなら良い。友情とは異文化交流でもある。

 しかしそうとは言え、英太にはこの3人が好んで語る、どう聞いても犯罪自慢話の面白さがツボが分からない。


 それを感じているのは、英太だけではないようだった。

 その上、嫌われている節すら感じる。この2人の言葉の端々に、英太へのうっすらした敵愾心や、淡い嫉妬心を感じる。

 邦男の同級生というから、面白くもないリーマンを、ここに置いてやってんだという空気を感じるのだ。


 もう帰ろうと英太は決心した。現在夜中25時。

 明日のゴルフ接待は、取引先の相手の送迎もあった。おかげで早朝5時起き。

 6時には家を出ないといけない。


「ごめん、もう出るわ」


 ぬるいビールを飲み干し、割り勘分の4000円を置いて英太は立ち上がった。


「え、もう帰んの? 明日は土曜じゃね?」

「仕事なんだよ」


 接待で、とは言いにくかった。この場でサラリーマン臭はバカにされる。


「シャチク、ご苦労!」

「わんわんわん! ネクタイは飼い犬の証。俺たち野良犬は自由にいきるぜえ!」

「じゃあな」


 英太は立ち上がる。

 ズボンに変な座りしわが出来たことにウンザリしながら、玄関へ行こうとした時だった。


「あ、おい英太」


 突然、邦男が座り込んだまま英太のズボンを掴んだ。

 英太はつんのめった。


「何だよ」


 高校時代は引き締まっていた顔の輪郭が、脂肪によってグズグズに崩壊している。

 英太は思わず目を反らす。

 邦夫が言った。


「あのさ、リンカに会ったぜ」

「え?」


 この場で出るとは、全く想像していなかったその名前。

 接待を忘れ、英太は思わずまじまじと邦男を見た。


「リンカ? 辻本の事か? 辻本凛香?」

「それ以外、誰がいるってんだよ」


 どこか尊大に、邦男は言い放った。



 ――青い空に、白い球が放物線を描き、飛ぶ。

 目の前に広がる芝生に、高校の運動場が重なる。


『すごいよ、元木くんと中倉くん、2人とも無敵だよ。絶対甲子園行けるって!』


 辻本凛香の声が脳裏に響く。

 野球部当時、英太はキャッチャーだった。

 英太は「女にモテるから」という理由で高校から野球部に入ったが、元々運動神経は良かった。そして肩が強くて、捕球力があった。

 同じく、邦男も高校から野球を始めた口だが、邦男はピッチャーの才能があった。

 2人は2年でレギュラーになり、バッテリーを組んだ。

 試合は連勝、快進撃だった。


 このバッテリーならば甲子園出場も夢ではないと、皆が褒めそやした。

「女の子にモテるため」その狙いを英太が定めていたとおり、野球部には女子生徒のグルーピーがついていた。

 辻本凛香はその中の1人だった。

 グルーピーの中では一番可愛いと野球部員の中でも噂されていた。試合に凛香が応援に来ないと、力が出ないとのたまう選手もいたほどだ。


 当然、凛香は花形バッテリーとも言われていた英太に邦男に、一番接近してきた。

 バッテリーという二人の絆の間に咲く可憐な花は、まるで少年漫画のような、青春の光が放つ三角関係の構図だった。

 凛香は、自分からそっと英太にメアドを教えてくれた。

 2人で毎晩のようにメールを交換した。

 話題は尽きなかった。高校の教師や、同級生の噂話にドラマや漫画の話、そして将来の夢とか……そのことを、邦男は知っているのだろうか。


 あの頃に積み重ねてきた甘く酸っぱい時間は、恋人同士に勝るとも劣らない2人の空間だった。

 英太は思う。

 もしかしたら凛香はあの頃、邦男ではなくて俺の事が好きだったんじゃないか。



「――元木君」


 先輩の低い声が、ノスタルジーを吹き飛ばした。


「同伴者のプレイに、無関心は禁止だ」

「す、すいません」


 小声で言い、英太は姿勢を正して前を見る。

 視線の先で、接待先の部長がボールを打とうとしている。

 土曜日なのに……と英太は恨めしい。

 貴重な休日が接待ゴルフなんかに浪費されるとは……。

 しかも、理由は人数合わせだ。

 しかし、この接待が会社の重要な取引のカギを握っているのは、入社2年目の英太でも分かっている。


 英太の勤める会社は、冷凍食品と海産物加工食品のメーカーである。

 相手は大手外食チェーンの仕入れ担当部の部長だった。

 その外食チェーンに「屋台風おでん専門店」を展開する計画があるらしいと情報が入ってきた。そうなると、大きな商談のチャンスだ。

 練り物製品を多く取り扱う我が社、(株)カワカミフーズは「おでん種」の売込みをかけて、こうやって接待をしている次第だった。


「ナイスショット! 佐島課長」


 英太は、さっき自分を注意してきた先輩、今回の接待の立役者でもある交野次郎を、そっと見やる。

 年齢はかなり上だが、彼はこの社に再就職で入って3年目。まだ管理職ではない、英太と同じヒラの営業だ。

 しかし入社以来、営業職の中では断トツの営業成績を誇る。

 英太には、どうして交野が優秀なのか分からない。


 外交とは印象が大事だ。しかし交野は男前どころか、どうも記憶に残りにくい顔で、性格も掴みどころがない。

 しかし今回も、新しい取引先と大きな商談のチャンスをもたらしている。

 普通、こういった大手の会社は、取引先はすでに固定して、その中にカワカミフーズのような、無名の中小メーカーが新規取引に参入するのは至難の業だ。

 営業訪問しても、会ってもらえるどころか門前払いがデフォルトだというのに、この交野は一体どうやって相手の懐に潜り込み、接待にまで持ち込めたのか……。


「うわっ!」


 ミスショット。相手の部長が、空を見て落胆の声を上げた。

 あーあ、グリーンの外だと、飛んでいくゴルフボールの球道に、元キャッチャーの英太は予測した……が。


「!」


 飛んでいくゴルフボールが、突然空の上で、直角にコースを変えた。


「え? あれ?」

「ほお、見事なショットです。中野部長」


 交野が感心した声を上げた。


「フェアウェイですね。流石はゴルフボールを握って生まれたと仰るだけある」

「……イヤなに……ははは」


 不可解なボールの動きに、首を傾げる中野部長。

 英太は愕然と交野を見た。

 元野球部キャッチャーの眼力は、空中のゴルフボールに当たったパチンコ玉を見抜いていた。

 そしてそのパチンコ玉は、交野の手から飛び出した、ということも。


 接待は大成功どころか、花火を打ち上げかねない勢いで終了した。

 大の男が、段ボールや紙袋を抱えてスキップしながら帰っていく。そんな風景を英太は初めて見た。


「交野くん!」


 部長の本間が感動しきった声で質問した。


「どうして君は、中野部長が園芸マニアだって知っていたんだ? 彼の部下ですら知らなかったようだし、接待メモにも載っていなかったぞ」

「今朝、そう察しただけです。ゴルフ場へ向かう途中と、その後コンビニに寄った時ですよ」


 ハイエースワゴンのハンドルを握りながら、平坦な口調で交野……次郎が述べた。


「車中、窓の外を眺めていた中野部長の瞳孔が、まだ開店前のホームセンターを見つけた瞬間開いた。そして田舎のコンビニで、たい肥の匂いにうっとりと鼻をうごめかせておられた。園芸マニアにとっては花を育てるだけじゃない、土づくりも重要です。普通なら敬遠されるたい肥の匂いは、園芸家にとっては芳香ですよ」

「……」

「園芸家はホームセンター巡りも好きです。同じ大型店でも地域によって、扱う植物や園芸用品の品ぞろえが違いますから、寄り道したら喜ばれると思っただけです」


 ゴルフ場からの帰り、途中のホームセンターに寄り道することを伝えた時の、相手部長の驚愕と感嘆が忘れられない。

『オレが土いじり好きなの、どうして分かった?』と、大喜びしながらホームセンターの中を走り回っていたのだ。


「これで今日は終了、皆さんお疲れ様です」

「……お、お疲れ様」


 本間は、感心を超えて次郎にドン引きしている。

 英太も同感だった。その洞察力には感心どころか薄気味悪ささえある。

 大学の頃にも、趣味が人間観察だという奴がいた。

 しかし、この交野次郎の場合は観察、というより、視線で人を腑分けしている冷たさを感じるのだ。


 そして、あのパチンコ玉。

 指でパチンコ玉をはじき、飛んでいるゴルフボールの進路を変えた? 

 まさか。英太は考え直した。


「……見間違いだ、きっと。寝不足だし」



――邦雄たちから連絡が途絶えた。

 接待の前日を、最後に1ヵ月経つ

 何か彼らに対して、気に障ることをしたか言ったかと悩んだが、すぐに悩みは消えた。向こうから切られたならそれで良い。


 今まで飲み会に誘われ、参加しても居心地の悪さと疎外感を毎回感じていたし、それに邦男たちが自分を誘うのは、割り勘のためだと分かっていた。

 しかも、毎回英太が一番多めに払わされていた。

 3人の中で、定期収入があるのは英太1人。その身分が、かえって重圧に感じていたせいでもある。


 そして、更に3週間が経った。

 これで2ヵ月近く連絡は途絶えたまま。英太は邦男と、これで完全に切れたと思うことにした。

 寂しさはない。一緒に飲んでいる内に、数年の間に広がった互いの感覚のずれや、生活の違いが思い知らされていたし、もう邦男は高校時代の邦男ではなかった。

『男を張って生きる』『命を懸ける』このフレーズを会えば必ず繰り返す、しかしその実情は親に家賃も生活費も見てもらい、島流しのワンルームで生きている無職男。


 元高校野球部の花形ピッチャーだった彼を、そんな風にしてしまった一因は自分だという罪悪感もあるが、気にしていたらきりがない。


「あいつが凛香と会った、というのは気になるけど……」


 会った、それだけしか聞いていない。

 どこでいつ凛香と会ったのか、何を話したのか、自分の話題が出たのか、その内容を知りたいと思うが、そうかといって邦男にいちいちメールを打つのも気がひける。

 携帯を取り出す。

 野球部を退部させられて以来、もう使われていない凛香のアドレスを見つめる。

 英太は地元を離れて東京へ、凛香は京都の短大へ進学した。

 それが離別の決定打だった。


 置いていった宝物を、もう一度探しに行ってもいいのか。

 だが、宝は昔の場所に、そのままあるとは限らない。盗まれているかもしれないし、変質していることもある。

 それを見て落胆に繋がるくらいなら、甘苦い思い出にして置いた方が良い。

 英太はスマホを置いて、そう思うことにしたが。


『元気? 東京から戻ってたんだね! こっちに帰ってきてたのに、元木くん、連絡くれなかったなんて冷たいじゃん? 会わない?』


 凛香から、思いがけないメールが届いたのはある土曜日の夜だった。

 英太は何度もメールの相手を見直した。

 メールを見た瞬間、凍りついていた氷が溶けた。

 目の前に瑞々しい花が開く。

 理由のない不安、だがそれを上回る喜びで、英太はメールをすぐ打った。


『悪い。仕事とか色々忙しくて、連絡しようにも出来なかった。もちろん会いたい』

『ホント? 今からでも?』


 英太は取り貯めしていたドラマの一気見からすぐさま離れた。


『全然平気、どこで何時に待ち合わせる?』

『22時、H町交差点の『スカイパーク』でどう?』


 高校時代、邦男と凛香の3人で、放課後のだべりに使っていた、3駅離れた場所にあるファミレス。

 21時。夕食もそこそこに、英太は家を飛び出した。

 ファミレスの前で、明かりの下に立つ女の姿を見つけた時、懐かしさが心臓を蹴り上げた。


「あー、元木くん!」


 懐かしい声が鼓膜を震わせた。心が一気に高校時代に飛翔した。

 鮮やかに残る少女の記憶に、制服姿ではなくワンピースを着た、大人のベールをまとわせた凛香が立っている。


「うわあ、ヤバい、久しぶり過ぎて嬉しくて涙出る!」

「泣くなよ、いやマジで」

「だって、会えてめちゃくちゃ嬉しいもん」


 高校生の頃も、凛香は可愛いと周囲で評判だった。だけど、化粧と長い髪のせいか、今はそれに磨きをかけた「大人の女」になっている。

 それでも、あの辻本凛香だ。英太の心が震えた。

 再会を喜び合い、しばらく高校生活の思い出や共通の知り合いの事を話していたが、すぐに話は現在の生活の事になった。


「それで、東京から帰ってきた今、元木くんは何しているの?」

「食品会社の営業」

「うわ、会社員か。営業ノルマ大変そう」


 邦男と山田、鈴木から同じことを言われた時、バカにされたような気がしたが、凛香の表情は違っていた。真面目な会社に勤める、英太への感心だった。


「それで辻本、京都の会社を辞めて、今は何やってんの?」

「今ねえ……このお店で働いてるの」


 黒地に白抜きの文字と蝶のカットが入った、きらびやかな名刺。


『愛睡蓮』店の名前だけで、キャバクラだと分かる。

「営業」その英太の連想が、凛香の何かを落とした。


「ネイルサロンを開きたいの」

「え?」

「その資金集めのために、キャバで働いてるの。キャバクラって時給良いから、短期間のお店の資金稼ぎにはもってこいでしょ。それにほら、色んな職業のお客さんが来てくれるから、人脈作りにもなって一石二鳥ってね」


 はにかんで笑う凛香の表情は、プロの営業の顔ではない。

 夢を追いかける娘だった。


「びっくりした? あ、もしかして元木くん、営業かけられると思った?」

「いや、そんなことない。でも辻本可愛いから人気があるだろ? 指名しても相手してもらえるかどうか」

「やだあ、それほど売れっ子でもないよ。だけど来てもらうだけですごく嬉しい。期待はしてないけど」


 くすくす笑う凛香。一瞬でも「営業」と疑った自分を恥じつつ、その笑顔に英太は見惚れた。だが、すぐさま思い当たったことがある。


「あのさ、辻本……もしかして、邦男の奴、辻本の店に来たことある?」

「え? うん、そうよ。え? もしかして元木くん、今は中倉くんと会ったりしているの?」

「あ、うん……東京に戻ってから……」

「ああ、そうなんだ。仲が復活したのね、本当に良かった」


 凛香は鮮やかに笑う。

 次の言葉が、英太の心の火にガソリンをかけた。


「中倉くん、たまにお店に遊びに来てくれるわよ」


 邦男が凛香との再会の経緯を、英太に詳しく話さなかった、その理由を英太は掴んだ気がした。

 抜け駆けだ、その一言に尽きた。

 高校時代、邦男も凛香が好きだったのは気がついていた。だが、高校を退学してそれっきりになってしまった。


 ライバルとはいえ、結果的に邦男の恋を奪った自責の念で、自分は凛香から遠ざかったというのに、それをいざ知らず、今の邦男は凛香の店に通い、それを英太に黙っていたのだ。

 そのせせこましさ、邦男の器の小さい行動が、英太の遠慮を吹き飛ばす。

 むしろ、再び戻ってきた恋を、遠慮も気兼ねもなく奪う闘争心が湧いた。



 今日の次郎は外出をせず、会社の中で『屋台風おでん専門店』に卸すおでん種材料、商品資料を作る日だった。

 新しい取引先がまた増えて、その分仕事が忙しくなった。

 今の仕事は、人間関係が長々と続く商売だな……と次郎は思う。


 前職は、仕事を受けて依頼を遂行、報酬をもらえば依頼者とはそれで終わりの、関係は点が並ぶ商売だったが、今は仕事を果たせばその分関係が出来上がって、その付き合いは線となって延々続く。

 転職したばかりの頃は、その環境に多少戸惑ったが、今では慣れた。

 この社の「岡ショウヘイ」という総務の古株と巡り合い、彼との人間関係を基盤にして徐々に考えや行動の範囲を広げていったお陰である。


「うむ、完璧」


 データをメールに添付、相手先に送信して一段落。

 次郎は、パソコンから顔を上げて総務席を見た。

 その岡が席にいる。眉間にしわを寄せて、一枚の紙きれを睨んでいるのがやけに気になったので、席を立って近づいた。

 岡が次郎に気付いた。


「おう交野君。あのチェーン相手に、どでかい仕事を当てよったな。首尾はどうや」

「おかげさまで」

「営業所の入り口から、あんたの席までレッドカーペットを敷くとかいう話が出とるぞ」

「謹んでお断りします。無機質であるべき社内空間の美観を損ねる……ところで」


 岡が手にしている領収書を見る。


「どうなさいましたか、難しい顔をして」


 岡が手にしている領収書の店名は『愛睡蓮』


「元木君の接待費や……キャバクラやね。相手は淡路興産の友川さんで、領収金額は14万と消費税」


 キャバクラの接待なら、そう珍しい事でもない。そういう場所が好きな男なら大勢いるし、実際に次郎も何度かアテンドをしたこともある……が。


「淡路興産の友川さん?」


 次郎は思わず眉をひそめた。


「彼をそんな場所に連れて行くとは……あの人は男色家です。本人は秘密にしているようですが」

「たった今、その秘密をあんたがバラしたけどな」

「友川さんに対して、何て気の毒な事を……接待は失敗だ」

「問題はそれ違う。元木君のキャバの接待、今週だけで3回目。通算で16回や。本人は、客が行きたがるからと言うとるけどな、しかし使う店が全部同じなのが気に入らん。大概は、それぞれが行きつけの店に行きたがるもんや」


 岡は、肩をすくめた。


「嫌な予感がする。数年に一度は生えてくる、馬鹿な営業マンではないことを祈るけどな」



 繁華街のネオンの中に、愛睡蓮は咲いている。

 中箱とも呼ばれる40坪ほどの店で、キャストは30人ほどいるという。

 入店すると、すでに顔なじみとなったボーイが英太にうやうやしく頭を下げる。

 もう、英太は凛香の馴染み客として通用していた。


「わあ、元木くん、今日も来てくれたんだ!」


 店の照明の下、ドレス姿の凛香は高校時代の懐かしさを備えながら、美しい未知の女でもあった。明らかに高校の時よりも、色香が鮮やかになっている。


「この間は、会社のお客様連れてきてくれてありがとう。売上、物凄く助かっちゃった」

「別にいいよ、どうせどこかの店に連れて行く必要があるなら、ここにするさ。凛香のネイルサロンを応援できるし、一石二鳥じゃん」


 英太は笑顔を見せながら、内心で総務の岡を罵った……あのクソオヤジ、接待が多すぎると課長に言いつけやがって。

 最近の英太の営業は、取引の話よりも、どの客を『愛睡蓮』に接待の名目で連れて行くかが目的になっていたが、凛香のためとはいえ、少し強引過ぎたらしい。

 課長に呼び出され、接待を注意された英太は、愕然となった。

 もう会社の金は使えなくなった。


 今日も自腹になる。

 中箱のキャバクラとはいえ、店に入れば空間全てに金がかかる。

 セットにドリンク、フードに指名料。凛香とそのほかの女の子が着くと、その分のドリンク代もかかる。1杯だけとも出来ない。2杯に3杯と飲む。

 毎回、会計は軽く5万は超える。内心、体を軋ませながら英太はカードを切る。凛香の前で、支払いの心配を見せたくはない。


 店の外で会いたいと、休みの日にデートに誘ったがダメだった。ネイルサロンの開業のために、休みの日は勉強をしているのだという。

 そう言われると、凛香の夢を応援したいと宣言した以上、無理強いは出来ない。

 席に着いた英太は、店内を見回した。


「邦男、最近も店に来ているの?」

「……うん」


 水割りを作りながら、少し困った顔で凛香は頷く。

 頭の良い凛香だから、英太と邦男の間に漂う微妙な空気を察しているようだ。2人で店に来いと言わない。


「中倉くんは、今は会社を経営しているんだってね」

「え?」

「確か、IT関連の会社って聞いたけど」

「えええ?」

「あれ? 元木くんは知らなかったの?」


 IT? あいつがパソコンを使うとすれば、エロ動画とチャットと通販だろう! つうか、無職のアイツは金をどこから工面しているんだ? 


「何だか、すごく羽振りが良いみたいね。実は昨日来てくれたんだけど、フルーツだのワインだのジャンジャン注文してくれて……」

「グリュッグとドンペリ持ってきて!」


 思わず、シャンパンを注文してしまう。

 凛香が横で嘆いた


「……何だか、中倉くん、変わっちゃったね」

「まあ、変わったと言えばそうかな」


 高校の時は、スマートで浅黒く、筋肉もついたスポーツマンだったが、今は膨れ上がった歩く水死体である。


「なんていうのかな、見た目だけじゃないの。昔は自信家だったけど、今は自信じゃなくて傲慢っていうの? 清廉さが無くなって、変な方向に『自分最高主義』になったというのかな……高校辞めちゃったせい?」


 お前のせいだと、凛香に責められている気がした。

 あなたが邦男と部室でタバコを吸って、それが顧問に見つかって退部になり、邦男は花形ピッチャーの輝きを奪われた、そこから転落が始まったのだと。


「……付き合って欲しいって、彼に言われちゃった」

「え?」

「前から好きだったって」


 あの野郎、と英太の頭に炎が放たれた。

 同時に冷え冷えとした憐憫が胸を締め上げる。

 IT会社の経営どころか、無職なのだ。それなのに嘘をつき、凛香の気を惹こうとする情けなさと、そして恋敵への闘争心。

 凛香は悲し気な笑いを浮かべた。


「ねえ、元木くん……今夜、アフターに付き合ってくれる?」


 凛香とのアフターは、甘美で、しかし苦みがあった。


『サロン、ダメかも』


 愛睡蓮よりも暗く、静かなショットバーのカウンターで、凛香が悲し気に伏せる長いまつ毛が、英太にとって痛々しかった。


『せっかく物件が決まったのに……物件の貸主が、私には貸せないって言ってきたの。もっと良い店子が見つかったから、話は無しにしてくれって。もしも借りたければ、倍の契約金を払えって……200万円の内、半分は何とかかき集めたけど、あと半分足りないの。期限まであと3日……どうしよう』


 そして、はっとした顔で英太を見た。


『ごめんね、忘れて。せっかく楽しいお酒を飲もうとしていたのに、ごめん』


 次の日、英太はまっすぐに銀行へ向かい、預金を全て下ろした。

 100万円を渡した時の凛香の驚きと、感動の涙は英太の中では、一生涯の宝になるほどだった。

 しかし、凛香は最近災難が続くのが心配だった。

 うっかりヤクザ相手に車の接触事故を起こし、示談金に80万請求されたり、実家の父親に癌が見つかって、多額の治療費が入用になったり。


 そのたびに、夢の資金を出そうとする凛香を、英太は止めた。カードローンや消費者金融で金を作り、凛香に渡した。

 邦男は、今でも凛香に会うために店に通っているらしい。

 どこで金を工面しているのか分からないが、ボーイから聞き出したところ、邦男はしつこく凛香に言い寄っているという。

 いつか邦男に、ガツンと言わなくてはと英太は決意する。凛香はネイルサロンを開業するために頑張っているのだ。その邪魔をするなと。


 自分は、凛香の騎士だと英太は思う。本当の愛情とは、相手を手に入れるのではなく、見守ることなのだ。

 彼女の憂いを取り除き、彼女が未来へと歩む足を止めないように、そして疲れた時は渇きを癒すオアシスのように、そっと寄り添うのだ。

 そのためにも英太は『愛睡蓮』に通う必要があった。

 凛香は資金集めのためにキャバクラで働いているが、そこで働いている以上、邦男だけではなくて他の男が凛香を狙う。


 それが何らかのトラブルにでもなれば、凛香の夢を邪魔することになりかねない。

 英太は、凛香を見守るために、そして凛香の営業成績に貢献して、早く資金が貯まるように、店に通い続けた。




 ある日、次郎は岡に昼食に誘われた。

 しかも奢りだった。店のランチの中では一番高い、特上天ざるそばで、しかも食後にケーキセットまで呼ばれた。

 ケーキ専門店の明るい店内で、岡が切り出した。


「交野君に、見てもらいたいものがある」


 岡が取り出したのは、数枚の領収書だった。


「ここしばらくの間で、経理に回されてきた手書きの領収書や。アンタ、これ見てどない思う?」

「……これはひどい」


 一目見て、次郎は嘆いた。


「こども銀行券を持って、コンビニで買い物しようとする子供並みですね。こんなニセの領収書を、よく岡さんに出せたものだ」

「子供じゃなくて、大人やからタチ悪い……本物の『料亭・四季』の領収書なら、店名は手書きやない、ゴム印やで。しかも金額の上に¥マークもないし、但し書きもないし」

「うーん、これは店名を間違えていますね。こっちは店の住所が違う。あそこは5丁目の3番地ではなくて、4番地です」


「しかも、全部同じ筆跡や。この下手くそな字、誰が書いたか丸わかりや」

「全部、元木君の字ですね」

「あんたにも分かるか……ほれ、これもこれもこれも」


 領収書は全部で10枚、合計すると70万を超えた。


「やれやれ。数年に一度のサイクルで、金に困って架空接待の細工するバカが発生する。今回のバカ営業はコイツか」


 モンブランにフォークを突き刺し、岡が嘆いた。


「最近のアイツの様子見ても、酷いもんや。スーツはよれよれ、目の下にはクマ。全身から金に困って金策中のオーラが放射能並みにまき散らされとる。仕事にも身が入らんらしくて遅刻が多いと、訪問先から苦情が出て来た」

「末期ですね」

「一応、ワシのところで領収書は止めとるけど、元木のアホを何とかしたらんとな……まだ若いんやし、放っとくワケにもいかん。そこで交野君、あのアホに何で金に困っとんのか、ワシの代わりに話を聞いてやってくれへん?。ワシ、あいつに嫌われとるねん」


「私が、ですか……」

 次郎はケーキを見下ろした。もう上のイチゴは食べていた。


「こういった話は、人望の厚さは装甲車並みの本間部長が適任と思われますが」

「本間さんは今、安西君のストーカー案件にかかりきりや。安西君、別れを切り出した女がストーカーになって、本間さんに間に入ってもらったまではええんやけど、その元彼女が次は本間さんに惚れてもな。それで安西君、嫉妬で元彼女への愛が再燃し、本間さんと彼女を引きはがそうとドえらい三角関係や。解決には当分かかる」

「それならば、依頼を引き受けましょう」


「頼むわ。あーあ、きっと前回接待で使いまくった『愛睡蓮』のキャバ嬢にでも惚れて通いつめとるんやで。キャバ嬢に貢ぐなんて、上限に天井はあっても成層圏や」

「成程『愛睡蓮』ですか」

「多分な」


 岡は苦い顔でコーヒーにミルクをどぼどぼ注ぎ、砂糖を3杯入れた。



 あのクソ経理。

 英太の中で、真っ赤に焼けた溶岩があふれ出している。

 給与振り込みの明細を見た。立て替えたとしている接待費の入金が今月もない。

 何枚も領収書を出している。いい加減入金があってもいいはずだった。

 それなのに、接待の立て替え金が全て滞っている。

 総務兼経理の岡にねじ込んだ。岡はしらっと答えた。


『入金はちょっと待ってや。社内監査で忙しいねん』


 あの領収書の金が無いと、消費者金融に借りた金が返せない。すでに延滞していて、督促のハガキを見たら、その合計と利息に心臓が止まりかけた。

 だが、このままだとクレジットカードを止められてしまう。消費者金融に、追加融資を頼んだら断られた。

 しつこく食い下がったら、受付の女性に代わって太い声の男が応対に出たので、英太はつい電話を切ってしまった。


「――ねえ、どうしたの?」


 英太は我に返った。凛香が心配そうに顔を覗き込んでいる。


「何でもないよ、ちょっと仕事の事を思い出しただけ……」

「ねーえ、元木さあん、私たちも何か頼んでいーい?」


 黄色い声を出すヘルプのキャストたちに、英太は胃を締め上げられながら頷いた。


「いいよ、何でも頼んで」

「ありがとうございまーす!」

「元木さんが来てくれたら、いつもお店が活気づきまーす! リンちゃんをどうかこれからも、末永くよろしくね!」


 やだあ、と恥ずかし気に笑う凛香。キャストたちの声によって、次々とボーイが運んでくるドリンクやフードの数は、勘定を計算するスピードを超えた。

 呼吸困難を起こしかけながら、英太は自分に言い聞かせる。

 大丈夫、またクレジットカードは使える。そうすれば今夜はしのげる。

 しかし、その先に暗闇が見えた。もうカードは限度額いっぱいに借りていて、次の引き落としがどうなるか。消費者金融の借金も返済を延滞している。


「元木くん、この間のお金、どうもありがとう……元木くんは、同級生じゃなくて、私の恩人だね」


 柔らかな手が、英太の膝の上に乗る。甘い花の香りが、麻薬のような優しさで英太の嗅覚に流れ込んだ。


「サロン開業したら、頑張って働いてお金は返す。絶対に約束する」


 感謝で潤む瞳が、英太を覗き込んだ。

 好きな相手に感謝される喜び、凛香の心の中で、自分がどんなに尊い存在にされているかと思うと、英太の不安や恐怖は陶酔に裏返る。


「良いんだ、サロンの設備に必要なんだろ? 急に工事の手付金を要求されて、困っている凛香を放っておけるはずないし、70万くらい、俺には出せる力もある。頼って欲しい」

「元木くん……」


 痛々しいほどの感謝を見せながら、凛香の手が英太の手を握った、その時だった。


「リンさん、8番に指名です」


 ボーイの囁きが聞こえた。凛香が顔を上げて、指名客の方向に目を見開く。


「あ」


 英太も気が付いた……邦男がテーブルについて、光る眼でこっちを見ている。


「また、後で呼んで」


 凛香が囁く。英太は頷いた……15分間だけだ。

 邦男のテーブルへ、凛香が向かう。やがてヘルプのキャストが、邦男と凛香の間を盛り上げる嬌声が忌々しいほど耳に刺さる。

 15分経とうとしている。凛香を呼ぼうとしたが、邦男に先回りされて、延長を入れられてしまった。

 イライラする。水割りを飲みながら凛香の様子を盗み見ると、邦男が凛香の細い肩に、たるんだ腕を回していた。


「やだあ、中倉くん、冗談上手すぎ!」

「俺、付き合ってって何度も言ってるだろ。何回言えば冗談が本気に昇華すんだよお、え?」

「だあってえ、高校の時は私の告白、全然スルーだったでしょ」


 え? と英太は思わず腰が浮いた。

 凛香が邦男に告白?


「あん時ゃ女見る目が無かったんだよーう」

「うわあ、白々しい」


 凛香の声に、他のヘルプの笑いがどっと沸く。


「分かった、その償いにドンペリでもベルエポックでもどんどん頼めよ、おれの会社、今急成長中! どこかの会社員と違って、男を張って仕事してんだよ! 生き方にイノチかけてんだよ!」


 あの……もときさん? と、ヘルプのキャストが恐々口を開いた。


「大丈夫ですか?」

「凛香を呼び戻して。ゴールド2本入れるから」


 ダメだった。邦男が先に延長を入れたそうだ。

 徐々に時間が過ぎる。凛香抜きで砂のように零れ落ちていく時間と無駄な料金に、英太は気が狂う。邦男のテーブルの喧騒が、英太の精神をやすりにかけて血を滲ませる。


「りんかあ、オレはほんきだよーう、何だったら今すぐここから飛び出して、婚約指輪を買いに行こ―ぜい、一生贅沢させてやるよ」


 笑い声が爆発する。凛香の嬌声。


「ぬるい奴なんか相手にするな。俺はな、凛香にものすげえ命かけてんだ。オトコとしてマジマジに愛してるんだよ」


 頭の中が白くなった。


「くにおっ」


 テーブルを蹴り上げて立ち上がった。店の喧騒が一気に止んだ。


「何だよてめー、イヌは大人しくお座りして、凛香を一生待ってろ」


 ふてぶてしい笑顔に、英太の臨界点は超えた。


「うるせえ、このニート!」


 邦男の笑いが消えた。


「凛香にはな、夢があるんだ! 何がケッコンだ、男だと? 腐れ無職が凛香を下層地獄に引きずりこむ気か、大体お前、どこから金を……」


 邦男が立ち上がる。近づいてきた瞬間、殴りつけてきた。

 吹っ飛んだ。他の客のテーブルに追突してグラスが跳ね上がる。

 悲鳴が上がり、ガラスが割れる音がした。怒鳴り声が響く中で、英太は夢中で邦男を殴り、邦男に殴られる。


「やめて!」


 凛香の悲鳴とキャストの悲鳴が重なった。ボーイの手が、男の手が英太と邦男を引き剝がそうとする。それを払いのけ、英太は拳を振り上げた時だった。

 凄まじい力で、腕を誰かに掴まれた。


「やめろ」

「え?」


 交野? そう思った瞬間に、首の後ろに鋭い痛みが走った。手足が急に動かなくなり、店の床に倒れこむのが分かる。

 動くのは眼球だけだった。声が聞こえる。


「すまない、私の連れだ。会計を頼む」


 支配人が怒り狂って交野を詰め寄ったが、2、3の言葉を交わすと、いきなり態度を変えて何度も頭を下げ始めた。


「土下座なんか要らない。気にするな」

「たいへんたいへんたいへんにしつれいしました! もうしわけありませんっっっ! ひらにごようしゃを!」


 突然、体が浮いた。天地が逆さまになった。どこかへ連れて行かれている。

 ……なんで、こいつがいる……

 英太の疑問は、意識と共に途絶えた。



 白い意識の中で、声が聞こえる。

 ――リョウは寝たのか?

 ――さっきまで起きてマンガを読んでいたけどね。ノガワくんたちの話題についていくために、あの子必死よ。『こち亀』全巻201冊、やっと読み終えたところよ。

 ――そうか、ちゃんとサンデーやマガジン系も読ませておきなさい。少女漫画もおろそかにしてはならん。アニメ鑑賞も必要だ。もうゴーリキーなんか読んでいる暇はない。


「……」

「あら、目が覚めた?」


 ひょこりと女性の顔が天井をまたいだ。


「おとうさーん、気が付いたみたいよ」


 ソファの上で寝ていた。起き上がり、英太は体の節々の痛みに悲鳴を上げる。


「ほら、お水」


 綺麗な人だ……と女性に見惚れた時、突然ぬっと現れた交野次郎に、英太は思わず悲鳴を上げてしまった。


「全く、騒々しい男だな」

「か、かたのさんっ……なんであなたがここにっ」

「私の家だからだ」

「いえ、というか、どうして俺が交野さんちにいるんですかぁっ」


 見回した。広いリビングだった。

 調度品もカーペットも高級なものだ。辞めてしまった会社はインテリア関連だったので、英太にもそれなりの知識はある。

 寝かされていたソファは、イギリス製の高級品、ハロの製品だった。


「ずいぶん使ったな。今夜の会計はざっと90万円だ。店の弁償もいれたら400万円を超える。どうやって払う気だった?」


 目の前に、領収書が散った。自分で偽造し、経理に出したものだった。

 ゆっくりと体が沈んでいく気がした。


 交野家の深夜のリビング。


「――それ、女が男から金を引っ張る鉄板じゃない?」


 交野の妻……桃子が述べた。


「夢を追いかける健気な境遇に、親の病気だの何だかんだとトラブルが降り注いで、お金が必要なの。何とかさん助けてえって、いまだにそんな古典的な手に引っかかる人がいるのね」

「母さん、何を言う。誰もが引っかかる手法だからこそ、古典に成りうるんだ」


 目の前の夫婦へ、英太は声を上げた。


「凛香はそんな子じゃない!」

「しかし、事実、君は消費者金融だの何だのって借金の沼の中でプカプカ浮かび、そろそろ溺死寸前だ。おまけに領収書偽造ときた」

「り、凛香には関係ない!」

「関係あるさ」


 交野次郎が、つまらなそうに言葉を放った。


「彼女は元会社員だと言ったな。それなら、同年代の会社員男の収入なんか見当つくだろう。君が店や自分にどれだけ金を使っているか、無理は分かるはずだ。それなのに、契約トラブルだの治療費だのと、君から平然と合計300万円以上のカネを受け取っている」

「……」

「ああ、そうだ。君の喧嘩相手は近所の公園のベンチに置いて来た。この季節なら凍死はしない」


 そんな次郎の言葉を聴覚の外で聞きながら、英太は何かが揺らぐのを感じる。

 違う、凛香はそんな子じゃない。

 そんな疑いを持つのは、凛香に対するだけじゃない。

 彼女の騎士でもある己への冒涜だ。

 それなのに、英太は次郎の否定が出来なかった。


 次の日から、英太は何度も凛香の携帯に連絡を入れた。

 少し、話をするだけでいい。そうすれば、また自分は騎士として、凛香の夢を信じることが出来る。砕けそうな自分を立て直せる。

 何度も電話した。凛香は出ない。

 気が狂う。10分おきに連絡した。


 会社を休み、家の中で一日中ダイヤルした。

 開店時刻一番に『愛睡蓮』へ行った。

 支店長が出て来た。


「リンちゃんなら辞めたよ」

「え?」

「辞めたんだ。もういない」

「ウソだ! 凛香を出せ!」


 掴みかかろうとしたが、ボーイや強面の男たちから取り押さえられ、路上に放り出された。

 通行人の視線が矢のように突き刺さる。まるでハリネズミだ。

 ふらふらと歩いた。気が付くと公園だった。

 指が機械的に動く。

 カチャリと音がした。心が跳ね上がったが、機械の音が英太にとどめを刺した。


『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』

「もうやめとけよ」


 邦男の声。

 振り向いた。

 ボロボロになった顔の邦男がいる。

 だが、今の自分も邦男の目にはボロボロなのだろう。

 金、そして尊厳を奪われて、英太は泣いた。


 英太と邦男は、戦場に彷徨う敗残兵のように肩を貸し合いながら、邦男の部屋に入った。


「……邦男、お前、凛香にどれだけ使った?」

「もうどれだけ借りたか、利息はどれだけかも分からねえよ。でもまあ、下手すりゃ海で魚の餌か、山の穴に埋まって自然に還るか」


 ははは、とうつろに邦男が笑う。


「ほら、見ろや」


 邦男が放り出した携帯は、5分ごとの着信履歴で埋め尽くされていた。

 闇金だ、と英太は直感した。

 耳の傍で、蠅の羽音がぶんぶん鳴っている。


「……たすけてくれ」


 頭を抱え、邦男が呻いた。


「……たすけてくれよ……えいたあ」

「邦男、でも俺もな……」

「たすけてくれ……」


 邦男の涙に、野球部の日々が、鮮やかに蘇った。

 真っ青な空の下で、何度も受けた邦男の投球。

 邦男の球は重くて、受けたミットがずしんと腹に響いた。

 何人ものバッターを倒し、もぎ取った勝利。それを重ね続けていった先が、まさかこんな末路に繋がるなんて。


「ころされる……おれ、もうだめだ……」


 邦男の嗚咽に英太は泣いた。借りた相手は邦男の方が最悪だ。

 もしかしたら、邦男は殺される。

 こいつも俺と同じ、金を失い、恋を失った。同志として助けたい。


「……きいてくれよお、えいたあ」


 しゃくりあげながら、邦男がごそごそと紙きれを取り出した。


「……もう、これしかないんだ……借りた金を一本化しろって……」

「一本化?」

「おれ、あっちこっちから金借りてた……でも、あちこちに返せねえから、どうしようって言ったら、金貸しの親分が、借金を俺のところでまとめてやるって」

「どういう意味だよ」


「親分から借金の総額を借りて、それぞれに返済して、で、俺は親分に金を返すってことだ。でも、保証人が要るんだ……俺、もう親には絶縁されてんだ……お前にしか頼めない……」

「保証人……」

「頼む、お前はここにサインしてくれたら、それで良いんだ。あとは俺が金を返していく、俺は……俺は、生まれ変わりたいんだよお」


 さめざめと邦男は泣いた。


「野球部追い出されて、俺は自棄になってた。俺、お前ほど頭良くねえから、大学にも行けないし、仕事だって底辺ばかりで……だけど、凛香は、凛香は……ピッチャーだった頃みたいに、俺に接してくれたんだ……それなのに、それが……」

「……」

「俺、馬鹿だ……クソだよ、生きていても何もねえよ……でもさあ、やっぱり死にたくない、生きてえんだ、お前みたいに……」


『お前みたいに』英太の心に、雷鳴が轟いた。

 邦男とは、野球部始まって以来の最高のバッテリーと呼ばれたのだ。

 あの時を共に過ごした、この相棒を失うわけにはいかない。

 自分のサイン1つで、邦男はやり直せる……凛香に去られ、全てを失ったと思った自分にも、まだ邦男を助ける力は残っていたのだ。


「ボールペン、あるか?」


 親指で拇印も頼むと、邦男は弱々しく告げた。



 会社の業務が終了してから、次郎は岡と営業所を出た。


「んで、元木アホ太はどうやって金を返したんや?」


 本間部長の代理で、岡から受けた依頼の結果報告だった。


「ふーん、やっぱりキャバ嬢にトンズラこかれたか。まあ、惚れた女に渡す金は貸す金ではなく、あげる金やとはいうけど、高くついたなあ」


 下に降りるエレベーターの中で、次郎は述べた。


「全額、親が立替えて払ってくれたそうです。しめて590万」

「老後資金に直撃やな」

「全く、親は大変だ」


 ふと、涼の顔が頭をよぎった。

 家に帰ったら、ちゃんと漫画やアニメを観ているだろうか。親が何も言わずに黙っていたら、すぐに大学入試の赤本を読みだすのも困ったものだ。


「どした? 交野君」

「いえ、ウチの息子の顔がちらっと」

「あんたんちの息子は、女に貢ぐより貢がれる方やろ。まあ、これで借金問題は一安心、ワシも今後は胸くそワルイ領収書を見ずに済む……と言いたいけどな」


「まだご心配ですか?」

「領収書以外のところは、多分まだ終わっとらん。あいつ、今朝、自販機で缶コーヒー買って飲んどった。自分の点けた火を自分で鎮火してへんから、失敗が臓腑に染みてへんし、ちゃんと懲りてへん。だから定価のコーヒーを買えるんや」

「……」


「も少し、痛い目は続くかもな」

 ビルから出た瞬間、突き刺さった視線を感じて次郎は言った。

「ええ、そのようです」


 向かい側の車道に、窓にスモークを張ったボックスカーが止まっている。

 男2人が車にもたれて、何気ない風を装い、このビルから出る人間を見ていた。

 1人が携帯で何かを話しているが、何度も唇が『モトキ』『そろそろ』と動く。

 待ち伏せか。


「岡さん、私は寄るところが出来たので、ここで失礼します」

「はいよ、お疲れさん。また明日な」


 ……本当は、岡と一緒に帰りたかった。

 次郎はため息をつく。

 定価のコーヒーに結び付くあの洞察力といい『普通の男』の師として、彼から学ぶべきことは多い。

 しかし、彼の依頼はまだ続いている。

 次郎は岡の後ろ姿を見送った後、気を取り直し、向かいのボックスカーへと向かった。



 英太は勤め先のビルを出た。

 飲みに行きたいが、そうもいかない。消費者金融の督促状で、打ち明ける前から両親に借金はバレていた。

 散々、延々とお説教され、結果として借金を全て清算してもらったが、当面は身を慎み、まっすぐ家に帰らなくてはいけない。

 歩き出す。目の前に男が3人歩いてくる。


 目と目が合った。

 3人が一斉に口を歪めて笑う。蛇を思わせる不吉な笑みが、英太の背筋を一気に貫いた。

 足が止まった英太を、3人が取り囲んだ。


「元木さん、待ってましたよ」

「さあ来て下さい」

「ちょ、来いってどこに? あんたたち誰? いきなり何ですか?」

「さ、カバンは持ってあげるから」


 がっちりと両脇を固められた。

 筋肉で膨張した腕に囚われて、英太は地面を引きずる様に運ばれる。

 目の前に、真っ黒いボックスカーが止まっている。そのドアが地獄の門に見えた。


「さ、大人しく乗れ……うわぁぁっ」


 車のドアが開いた瞬間、その座席の光景に英太は3人と同時にのけぞっていた。


「か、かたのさん!」

「乗りたまえ、元木君」


 次郎が平然と席に座っている。


「だ、だれだてめえ!」

「君はこの契約書にサインし、拇印まで押している。こうなるのもまあ仕方が無い」

「あーっ、勝手にそれ、契約書を見るな!」

「き、きさま何者だ! 邪魔するつもりか!」


 屈強な男たちが口々にわめき、次郎を引きずり出そうと車に乗り込んだ時だった。


「早く車を出せ、駐車禁止区域に、不審なボックスカーが止まっていると、さっき警察に連絡した。すぐに警官が来るぞ」

「畜生!」


 英太を座席に突き飛ばし、車はすぐに発進した。



 車は走る。スモークのせいか、特殊な加工なのか、車の窓の外は見えない。


「何です……あなた方は、何ですか!」


 携帯は没収された。もちろんの次郎のものも。

 助けは呼べず、逃げ出せない。

 3人とも、どこから見ても暴力の世界の住人だった。

 渦巻く不気味な気と危険の気配に、英太の震えは止まらない。


「僕に、一体、僕に何の用ですか? すぐ帰してください!」

「ふむふむ、売買契約書だな。借金のカタに君は売られたらしい」

「……そっちのおかしなおっさんは、話が見えているようだな」


 苦々しい顔で、プロレスラーのような男は言った。


「あんた、中倉にこの書類出されてサインしたんだろ? 読んでねえのか?」

「……え……?」

「ほらよ『甲は乙に対し、以下の身柄「元木英太」を金800万で売り渡し、乙はそれを買い受けた』甲は中倉で、乙は俺の雇い主、でもってあんたの同意のサインと拇印もある」


 思い当たる風景に、英太の意識が反転した。


「あれは……借金の保証人って……」

「契約書はちゃんと読んでサインするものだ。元木君、それでも君は営業か」

「おっさん、前半は俺のセリフだ。つうか、何モノだよあんた!」


 何も聞こえない、聞きたくない。

 信じられない、信じたくもない今の状況に、全身の骨が全て溶けたようだった。脳みそも絶望に染まって、何も考えられない。


「……何で……なんで、なんでだよ、くにお……どうして」


 涙をこぼす力すらなかった。壊れた機械のように、前にいない相手へ問い続ける。

 英太の思考の外で、男たちと次郎がゴミのように会話を散らかしている。


「この元木を売った800万円の代金で、中倉という男は借金を返済?」

「まあーそうだな」

「年は若くても男は安いな。女なら年齢問わず最低2000万だったが」

「女なら年齢も品質を問わずに潰したいって買い手も多いからね。でもよく相場を知ってるな。アンタほんとに何者だよ? つうか、どうして付いてくる!」

「君たちの邪魔はしない。それでいいだろう」


 男の携帯が鳴った。男は相手と短いやり取りの後、英太に携帯を渡した。


「ほれ、エイタくん、お前のさっきからの疑問が、これで一気に解決だ」


 携帯を耳に押し当てた。

 声が突き刺さった。


『よお、英太。今移動中か?』

「……くにお……?」

『お前に謝るつもりはないぜ。貴様は、俺の魂を壊した』


 呪詛と嘲りが英太に襲い掛かる。


『オレは、お前が言うように確かに無職だよ。腐ったプーさ。だけどなあ、プライドはある。いや、それしかない。お前にとってはごみクズかもしれないけど、俺にとって自尊心は唯一残された宝石だ』


 キイキイと笑い声が響く。


『お前は、おれの最後の宝石を砕いた。あの店でお前に暴露されるまでは、俺は確かに会社の社長だったんだ。皆もそう俺を大事に扱ってくれて、凛香もそうだった。最後に残っていた、俺の大事な世界を、居場所をお前は滅茶苦茶にした。そもそも、お前が俺の運命を壊したんだよ。部室で二人、タバコ吸ってるの見つかったの、お前のせいだろ。顧問の前でタバコを落としやがって、このクソ馬鹿野郎』


 あの愛睡蓮で、邦男をニートと罵った事を思い出す。IT社長ではない、借金で作り上げた虚飾を、惨めな男の姿を皆の前で晒した。

 そして、高校時代のあの日、練習前の時間に部室で二人きりになった時、タバコを吸おうと言い出したのは、英太からだった。


『800万は、俺の魂の修理代だ。これでも金額負けてやったんだ。あばよ』

「まて、邦男……俺、おまえをたすけたいって……その俺に、この仕打ちか」

『だから、今のお前は身を挺して、俺を助けてくれてるんじゃないの?』


 ざらついた、怨念まみれの笑いが聞こえた。

 ぷつり、と会話は切れた。


 その後、英太も次郎も、車の中で目隠しをされた。

 車でどれだけ走ったのか、時間が経ったのか、ここはどこなのかも分からない。

 そして、今歩いているのは、どうやら地下のトンネルらしい。

 3人に連行されて、灰色の中を歩きながら、英太は震えた。


 この後、何をするのか、何をさせられるかは分からない。だが、今の英太は人間ではない、買われた商品だった。

 自分が自分のものではない、運命は持ち主の気まぐれで転がっていく。

 次郎も平然と連行されている。だが、英太を助ける気も、逃げ出そうとするそぶりもない。その振る舞いは情も無く、何のためにここにいるのか目的も見えず、英太にとって救いにもならない。

 鉄製の扉の前で、男は立ち止まった。


「さて、ここでお別れだ。ところであんた」


 次郎へ向かい、リーダー格の男が言った。


「どうして、こんな奴と一緒にここに来たのかは知らねえが、あんた、ホントに得体が知れんな。サツでもない。コイツの仲間らしいが、それにしちゃ堅気じゃねえ。とは言っても俺たちと同じでもない……まあいいや」


 左右の扉が開く。

 どっと爆音がつんざいた。熱気が、大量の視線と好奇心が怒涛のように押し寄せて、英太に襲い掛かった。

 満員の席が二つに割れて道がある。その奥にリングがあった。

 爆音のような歓声、狂暴な笑いに蹴りだされながら、英太は次郎とリングへと連れられて行く。


 英太の前に、すでに相手が待っている。身体は筋肉で出来ているが、目には感情もない、真っ暗な目でよだれをたらしている。 

 すぐに英太は悟った。

 こいつと戦わされるのか。


「元木君」


 次郎がようやく口を開いた。


「観客席のあそこにいる男は、君の知り合いか?」


 次郎の指さした方向に、英太を引き裂いた男がいた。

 クニオ……喜色満面の笑顔へ向けて、英太は走りだしかけたが、万力のような力がそれを止めた。


「今行けば殺される。止めろ」

「あいつ、あいつがあああ……っ」


 英太は吠えた。

 俺は、ただ純粋にあいつを助けたかったんだ。

 過去の償いと友情に従った。その純粋さを、あいつは利用した。

 踏みにじるどころか、汚物を擦りつけ、ドブに叩き込みやがったんだ。


「君は何もしていない。結果的には、ただ優越感に浸っただけだろう」


 冷たい声が降りかかった。


「人を助けたかった。その願いは本当だったかもしれないが、結局はどうだった? 自分では責任も取れず、不正で金を作ろうとまでした。人を助けるだけの器が無かったといえばそれまでだが、結局は親に尻拭いさせただけだ」


 英太は、思わず次郎を見る。

 情も憐憫も無い、無機質な顔。


「本来なら、私にとって君のことなんかどうでも良い。だが、岡さんに君を頼まれた」

「岡さんが? 総務の岡?」


 そこまでだった。周囲の熱狂がドロドロに渦巻く中で、英太はリングに引きずり上げられた。もちろん次郎も一緒に。


「……あ……ぁ」 


 よだれをたらして、顔をぶんぶん振っている巨大な対戦相手に、英太は腰が抜けた。


「ふむ、何か薬を打たれているか、すでに出来上がったジャンキーか。もう人間としては使い物にならない」


 次郎がしみじみと分析している。


「薬のせいで、闘争心と残虐心は剥き出しだ。しかもリミッターが切れて、とんでもない怪力だろうな……それにしても、こんな催しはまだ続いていたのか」


 アナウンスが響き渡った。


『さあ、連戦連勝、今まで5人の首を捻じ切り、体を引き裂き、脳天を割ってきた『人間破壊のマシロ』今回の対戦相手は、怨恨と借金を背負った普通のサラリーマン! この勝負はいかに?』

大きな歓声が沸いた。


 プロジェクターに映像が映った。

 目の前の男の、過去の対戦の記録映像。

 その一部が目に入った瞬間、英太は思わず口を押えた。マシロが対戦相手の死骸の眼球に指を突っ込み、えぐり取って舐めていた。

 

『今回の挑戦者はフツーの男! 惨殺決定……と言いたいところだが、ただのショーでは終わらせないのが興行主の務め! いかに皆さんの猟奇を満足させるかが重要です! と、いうわけで……!』


 大きな肉切り包丁が英太の足元に放り投げられた。


『窮鼠猫を噛む! 大逆転を狙うか、マシロの6体目の人間解体に賭けるか!……やや、今回はおまけつき? 今夜は2人がかりで野獣に向かう!』


 こんな包丁1本で、勝てるもんか。

 英太は喘いだ。

 観客は、2人が嬲り殺されるのを期待しているのだ。

 ここがどんな場所かは分らない、だが、自分たちを見世物にする悪意や好奇心が肌を突き刺してくる。

 そうえいえば、古代ローマのコロッセオで似たような見世物が無かったか?

 猛獣や剣闘士、そして人間同士の殺し合い……。


「包丁で刺したくらいじゃ、無理だな。薬で痛覚もマヒしているだろうし、それくらいじゃ倒れないだろう」


 次郎が背広を脱いだ。

 そして、ネクタイを取りワイシャツのボタンを外し……。


「か、かたのさん……っ」


 こっちが恐怖に気が狂う前に、発狂する順番を越されたのだと、ズボンを脱いだ次郎へ英太は愕然となった。

 リングの外は、笑い声と罵声の渦だった。気が狂いやがった、ヤローが脱ぐななど、声が投げつけられる。

 平然と、次郎はトランクス一枚の姿になった。

 しかも服を全てちゃんとたたんでしまう。


『さあ、もうストリップはもう要らない! ゴングを鳴らせ!』

「元木君、服を持っていてくれ。汚れないように頼む」


 服を一式手渡された英太は、次郎の身体に目を見張った。

 その筋肉は、逞しいを超えた肉の鋼だった。

 スポーツ選手やフィットネスで作り上げたものではなく、もっと荒々しく、野性的で、戦闘的な曲線の肉体。


 次郎は、落ち着いた仕草で床にある包丁を拾い上げる。

 その時、ゴングが鳴った。

 ころせ、しね、こわれろ。

 押し寄せる嗜虐と悪意の津波がどっと押し寄せる。

 マシロへ向かって次郎が走る。

 そして、跳躍した。


 英太は、目を疑った。

 空中で身体をひねり、上下が逆になる完璧なムーンサルト。

 対戦相手の頭上と次郎の頭がすれすれに超える。

 落下しながら、マシロの首に包丁を握った次郎の腕が風を切った。

 そして、着地。


 床に、男の生首が転がった。

 胴体から赤い噴水が吹いた。噴水は英太にも降り注ぎ、床や観客席にも血をまき散らしながら胴体が倒れる。

 場内に無音が訪れた。観客と共に、英太は己の目を疑った。


 ――マジン

 観客席から、声を聞こえる。

 ――……もしかして、あの男『魔人』じゃないか。

 ――あいつだ……魔人

 あちこちから、悲鳴の連鎖爆発が起きた。

 殺される、逃げろと口々に助けや何かをわめきながら、出入り口に殺到する人の群れを、英太はただ見つめた。


「2度もやらんよ」


 次郎のつぶやきが聞こえる。

 何も見えない闇だけの表情。

 血を浴びた姿は、殺人鬼というより「死神」が相応しかった。



 頭からつま先まで、人間の血を浴びたというのに、英太が持っていた次郎の服には一滴の血もついていなかった。


「ご苦労。君の服は私が弁償しよう」


 次郎は洗面所で返り血を落とし、再び服を着た。

 そして英太を連れ、さっきの地下道を通って階段を上がり、ドアを開ける。

 閉店後のテーラーらしい。

 内装からして高級店のようだと、英太に分かったのはそれだけだ。

 店のフィッテングルームから出て来た英太と次郎に、店主の男は全く驚きもせず、うやうやしく頭を下げた。


 血まみれの英太へ礼儀正しくシャワーを勧め、香りの高いコーヒーと舌が溶けそうなケーキを出して、英太が必死で食べているその間に、新しい服を揃えてくれた。

 シャツからスーツ、ネクタイに靴までがバーバリーで揃えられていた。

 箱に入ったトレンチコートまで添えられている。

 

 ショーウィンドウか、雑誌でしか見たことのない高級品に絶句する英太。

 次郎が言った。


「分かっていると思うが、その服は口止め料でもある。さっきの試合はもちろん、今後一切詮索もするな。君を売った男への報復も禁じる」


 忠告は続く。


「君が手を下すまでもない。彼はもう追い込まれる。君を売った800万じゃ、全額返済出来ないようだ。彼もはめられたな」


 言われるまでも無かった。

 あんな光景を、交野次郎という死神を、人に話すことは一生無理だと英太は思う。

 自分でも消化できないものを、どうやって口にして言葉にすればいいのか。

 次郎は言った。


「岡さんに感謝しろ。あの人が言わなければ、私は動かなかった」



 次の日、英太はまっすぐに岡の席へ赴いた。

 そして、あらん限りの感謝と畏怖を込めて頭を下げた。

 頭を下げた英太に、まず岡はゲンコツを一発くれた。


「骨身に染みたか」

「はい」


 ジンジンくる痛みが倍に感じる。英太は猛省した。今まで、岡をただの古株の総務だと軽く見ていた。

 しかし、彼はあの交野に影響力を持っている。しかも自分の命を助けてやってくれと頼んでくれた命の恩人だ。


「岡さんは、交野さんになんて言って、俺を助けてくれたんですか」


 交野の事を詮索する気は無いが、それだけは知りたかった。

 あれほどの男を動かす、岡の人としての力と、その源が知りたい。

 自分の今後の生き方や、己の戒めの為にも。


「ちょっと、元木君の話を聞いてやってくれと、天ざるの特上と、ケーキ奢っただけやけど」

「…………え」

「もうアホな事するなよ」


 それだけ言って、岡は席に戻ってしまった。

 ……普通過ぎた。

 あまりの普通っぷりに対する驚愕。全ての想像を無に帰す凡庸さに、英太は呆然と岡の背中を見送る。


「それから、今後は契約書はちゃんと確認してからサインしろ」


 突然、次郎の声。英太は思わず飛び上がった。


「ほら、返すぞ。すぐシュレッダーしてしまえ」


 英太に手渡されたのは、あの忌々しい売買契約書だった。


「あの、交野さん……」

「私はこれから、ウエノ産業へ訪問だ。話はまた今度」


 無理やり、あの二人にから「日常」に押し込められてしまった。

 英太は席に戻る。

 ……まあ、良いや。

 交野次郎が何者であろうと、あの岡さんがいる限りは、こちら側の世界に住んでくれる気がした。


 しばらく、遊びを慎んで金を貯めなおそう。借金を肩代わりしてくれた両親の、老後の資金の為にも。

 英太は、パソコンのスイッチを入れた。


 数日後の新聞記事で、辻本凛香が、英太の知らない男に硫酸を顔にかけられて、大火傷を負ったという事件が載った。

 キャバ嬢が夢を語り、男から金を引き出す手口は週刊誌でも話題になった。

 英太は黙って週刊誌を閉じ、ゴミ箱に入れた。

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