第14話

 金曜の夜は思っているよりもすぐにやってきた。

 緊張しながら、ベッドで漫画を読み、洲鳥さんとの約束の時間待っていると、家のベルが鳴った。洲鳥さんかなと思い、ドアを開けた。

 姉がいた。

「ミノル、中に入れてくれる?緊急事態なの」

 予想していなかった事態に、俺の頭は混乱した。

「今までどこにいたんだよ。何してたの?心配したよ」

「それは良いから。まず中に入れて頂戴」

 よく見ると姉は汗だくで、息も切れていた。走ってきたのだろうか。俺は姉を部屋の中に入れた。落ち着いて話を聞く必要がありそうだ。

 コップに水を入れ、姉に渡した。姉は一息で飲んだ。息を少し整え、そしてこう言った。

「洲鳥はクズよ」

 その言葉の真意を俺は図りかねた。

「そこまで言わなくても。確かにエキセントリックな人だとは思うけれど」

「そんな良いもんじゃない。クズよ。正真正銘の」

「そ、そうなの?例えばどんなところが?」

「あたし彼からDVを受けてたの」

 一瞬姉が何を言ったのか理解できなかった。

「彼はとにかく人より優位に立ちたい性格なのよ。自分は誰よりも優秀で、誰よりも素晴らしい人間なのだと、信じて疑わない。馬鹿よ。あたしは何であんな男と付き合っていたんだろう?人生最大の過ちね」

「彼から殴られたりしたの?」

「かなりの頻度でね。耐えられなくなって彼の元から逃げ出したのよ」

「それは辛かったろうね」

「同情してくれるの?あんたらしくないわね。やっぱりあんた変わったわよ」

 そうだろうか?自分の変化は自分ではなかなか気付くことができない。いや、今はそんなことを考えるよりも姉の話を聞く方が重要だ。

「警察とか、どこかに相談した方が良いんじゃないか」

「そこまで事を大きくしたくなかったのよ。殴られたと言っても血が出たりするほど殴られていたわけでもないし」

「そんな悠長な事言っている場合じゃないだろう。今すぐ警察に連絡しよう。洲鳥はミサトがここにいることをもう知っているかもしれないんだぞ」

「でもその前に問題が一つあるのよ」

「問題?」

「洲鳥の事をある男友達に相談したのよ、このアパートを出て行った後にね。その男友達は親身になってくれて、あたしは気持ちが落ち着いてきたんだけど、その男友達はあたしの話を聞いた後にふつふつと怒りが湧いてきたみたいで、ついに洲鳥を殴り殺しに行くとか言い出したのよ」

「そんな物騒な」

「あたしは勿論止めた。そんなことはするべきではないってね。結構長い時間説得したわ。あたしの相談よりも長かったんじゃないかしら。それで一応その男友達はあたしの話に納得してくれて、その日は解散になった」

「良かったじゃないか」

「それが良くないのよ。彼、本当は全然納得なんかしていなかったのよ」

「そうなの?」

「彼、洲鳥を殺すつもりらしいわ」

「殺す?いつ?」

「今よ」

 背筋が凍るような思いがした。殺す?人を?本気で言っているのか?頭がおかしいのではないか?

「殺すって、そんな、本当に言っているの?」

「分からない。でも彼は周りの友人に漏らしていたみたい。洲鳥を殺してやるんだ、って」

「いつ分かったの、それ」

「今日の夕方よ。球山って友達が教えてくれたの。それで急いでここに来たのよ」

「ここに来てどうするんだよ。俺にどうしろって言うの?」

「彼を止めて」

 正気か?俺にどうしろと?本気で言っているのか?嘘だろう。喧嘩なんか生まれてからしたことがないのに。

「俺が説得して止まると思うの?」

「あんたしかいないのよ。頼れる人が」

「本当に?ミサトは友達多いじゃないか」

「本当の友達なんて1人もいないわよ」

 今日は衝撃を受けっぱなしだ。頭が混乱してきた。どうする。どうする。

「あんたがよく行っている公園で洲鳥を襲うらしいわ」

「いや、ちょっと待ってくれ」

 姉は俺の目をじっと見た。澄んだ目をしてるな、とか、そんな事を考えている場合ではないのに、思った。

 俺は姉は何の問題もなく人生を切り抜けられるタイプだと思っていた。悩みなどとは無縁で、一生を気楽に過ごしていくものだと、そう思っていた。そんなはずはないのに。誰もが悩みや問題を抱えて生きているはずなのに。姉は俺にとっての希望だったのかもしれない。人間は傷つかずに生きることができる、と、そう信じたかったのかもしれない。姉を勝手に理想化して、自分を慰めていたのかもしれない。俺は馬鹿だ。心底そう思う。そうか、姉は結局俺と同じ人間なんだな。そんな当たり前の結論に至るまでに、ずいぶん長い時間を要してしまった。

「分かった。行くよ」

 俺は覚悟を決めた。

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