1 逃げる少女

 太陽が昇り切る少し前。辺りはまだ薄暗く、遠くまでは見通せなかった。


 そんな時刻に城壁の外にある側溝から一人の人間がい出てきた。その人物は全身を包み込むことができるくらいすその長い白のローブを羽織っている。ローブにはフードがあり、それを深く被り、周囲から顔を見えないようにしていた。


 しばらく物陰から辺りを警戒していたが、人の気配がないことを確認すると急ぎ足で通りに出てきた。そして通りを真っ直ぐに走り抜けていく。


 走り慣れていないのか、ローブの人物の足取りは早くはない。それでも全速力で足を運んでいるのは察せられた。ここに来るまでの間に疲れ切ってしまったのか、息遣いが異様に激しい。


 うっかりすると止まりそうになる足を必死に動かしているのは一人の少女だった。


 ──どこに逃げよう?


 右も左もわからない少女は、とりあえず目の前にある道を走ることしかできない。少女は城の外に何があるのかを知らないし、通りの先にあるものもわからない。けれど、立ち止まり、捕まることだけは絶対に避けなければならない。そのことは理解していた。


 通りを真っ直ぐ走っていると一台の馬車が向こう側からやって来るのが見えた。


 馬車を動かしている農民は少女の姿を見て不思議に思った。こんな朝早くに慌てるようにして走っている少女がいる。しかもこの辺りでは見た事のない人物だ。


 農民は不思議に思いはしたものの、眺めるだけにしておいた。

 その少女は何か厄介事を抱えている。そのことに勘付いたからだ。


 少女が馬車の隣を走り抜けた後、数人の兵士たちが重い甲冑を引きるようにして走って行った。少女を捕まえるために来た者たちである。


 静かな朝の景色に嫌な金属音が鳴り響き、農民は少しだけ顔をしかめる。


「どうか今日もアーレス神の加護がありますように」


 農民はそう言って馬車の上で手を組み、一日の平和を神に祈った。




 追手は少女にすぐには追いつかなかった。甲冑が重く、早く走れなかったのだ。そのことで少女は遅い足取りながらもなんとか街に潜り込むことが出来た。


 少女が潜り込んだ街は大きな港町だ。港には巨大な船がたくさん停まっている。それらの船には魚や貝、海の向こうにある島から運ばれた珍しいものなどを積んでいる。


 遠洋はまだ行われていない時代だ。遠洋ができるほど船は頑丈ではなかったし、世界のすべては解明されていなかった。だから珍しいものといっても高が知れている。


 少女の逃げ込んだ街はリルスといった。

 リルスは港町ということもあって街の朝は早い。少女が街に潜り込んだ時には朝日がうっすら差し込み始め、レンガで舗装された道は白く光り輝いていた。通りには人が少しずつ集まり始めている。


 リルスの街では、商売人たちが朝早くからレンガの道に簡易な屋台を作り、魚や野菜を売りさばく。それを目当てに街の住人が朝早くから通りを歩く。そのため、朝早くから人通りがそこそこある。


「ごめんなさいっ! 通してください!」


 少女はそう叫びながら必死に通りを走り抜ける。しかしここまでの距離を全速力で走り続けてきた。息は上がり、呼吸は苦しい。人に軽くぶつかるたびに足がふらつき、ついには通りにひざまずいてしまう。


 息がかすれる。落ち着かせようと必死に呼吸を繰り返す。顔を上げるのもつらく、両手をついてうつむいて動けない。


 ──急いで、立って逃げなきゃ。


 心は少女をかすが、体が追いつかない。何度か咳き込んでしまう。そんな少女の様子を周囲にいた人々は心配するようにして見ていた。しかし、見るだけで手を出そうとはしない。誰もが少女を警戒していた。


 厄介事に巻き込まれたくない。


 ソリヴァス帝国は今、不安定な状況におちいっている。だから誰も厄介事を受け入れる心の余裕はなかった。


 これ以上の悩み事は考えたくない。それがリルスの住人たちの心情だ。


「いたぞ!」


 少女の背後で野太い男の声が響く。それに弾かれるようにして少女が顔を上げた。見ると兵士が三人。それぞれが重い甲冑姿で走り続けてきたため、息が上がっている。しかし、少女のように躓くような疲れはない。


 兵士たちの手には槍や剣が握られている。その物騒さに少女は恐怖心を抱いた。


 近くにいた住人は兵士たちの姿を見て道を開けた。兵士の甲冑にはアーレス教・ケンス教皇の直属兵士である証・青色の花紋様が刻まれていた。教皇その人が直々じきじきに少女を捕らえようとしている──その現実が、住人たちに恐怖を与える。


 あの小娘はいったい何をやらかしたのか?


 そういった奇異の視線を少女は浴びる。しかしそれに構っている余裕はない。


 少女は必死に立ち上がり、もう一度駆ける。だが体は限界だ。すぐにつまずき、道端に転がった。


「やっと追いついた! おい、こっちに来い! 教皇様がお待ちだ!」


 兵士が転がった少女に手を伸ばす。それを少女は勢いよく手で弾いた。その動作で被っていたフードがはずれ、少女の顔があらわになる。


 薄い紫色の瞳。白い肌。桃と紫の髪色。知性のあるおもし。


「嫌です!」


 透き通るような、りんとした声。息は上がっているものの、声におびえは少しもなかった。


 ──こんな乱暴なこと、私は許せない。


 その強い気持ちが少女を動かしていた。しかし。


「なんだと!」


 兵士の一人が少女の行動に怒り、手を振り上げる。男性のそのような行動を始めて見て、少女は咄嗟に肩をすくめ、痛みに備えるために身構えた。

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