第6話

 浙江・揚州にいる鄭芝龍にとって、福州の陥落自体は大きな衝撃はなかった。守り切れる要素がないと思っていたからである。


 失ったものも想定を超えるものではない。張学聖はそれほど大きな存在でもないし、他にめぼしいものがいたわけでもない。


 福州があっさり落ちたことで鄭成功の軍隊が慢心を有する可能性もあるので、むしろ期待していたほどである。


 従って、福州陥落は全く驚きではなかったのであるが、それと前後して劉国軒が鄭成功軍に身を投じたというのは大きな衝撃であった。


「目をかけてやったというのに……」


 そう文句を言いたくもなる。


 とはいえ、福建出身の劉国軒にとって地元に近い軍で戦いたいというのは理解できる。鄭芝龍自身、自らの都合で所属を変えたわけであるから、今更他人だけどうこうと言うこともできない。


「……どうしたものかのう」


 現実を変えることもできない以上、事実を受け入れるしかないということは理解しているが、厄介なのは鄭芝龍の行動方針を劉国軒は理解しており、その情報をもったまま降伏したことで鄭成功に手の内を晒してしまったということがあった。油断と慢心という心理的な要素を期待していただけにこれは痛い。


 また、劉国軒が鞍替えしたことで、他の部隊がそれに倣う可能性もある。


「厳しいことになった……」


 海戦要員として期待されているため、鄭芝龍の配下には清の兵士はいない。ということは、いつ、誰が寝返っても不思議はないのである。


 鄭芝龍は揚州の地において、進退窮まった状態に置かれてしまった。




 そうした状況は、もちろん劉国軒にとって大いに理解するところである。


「国姓爺、鄭芝龍に投降を呼びかけてみてはいかがでしょうか?」


 鄭成功に浙江の状況を聞かれていた中で、劉国軒がそう提案する。


「何だと?」


 と目を見開く鄭成功に、劉国軒は冷静に現状を指摘した。


「水戦での結果を期待されていただけに、現在の状況は鄭芝龍にはどうしようもない状況ではないかと思います」


「なるほど……」


 鄭成功も相槌は打つが、表情は浮かない。


「まあ、過去の経緯はあれども、父は父だ。敵として斬り合うよりは、同じ立場にいたいということはある。しかし、父が今更息子に従いたいと思うかな?」


「親子というよりも、海に生きる者同士として今の状況をよく理解するところでありましょう」


「なるほど……」


 鄭成功もその点は同意した。


「確かに、父は長年海に生きている。海のことについては、私よりもよく知っているといっていい。個人でやりあうのならともかく、手勢を従えて私に勝てないということはよく理解しているであろう。私に従わずとも、独立した海商として一からやり直すというのも手であるだろうしな。しかし……」


「まだ何かありますか?」


「いや、私としては鄭芝龍を迎え入れるということは考えてもよいことと思えてきた。しかし、鄭芝龍の立場を考えると、受け入れるのは簡単ではないだろう。果たして誰を説得に行かせたものか。そなたでは無理であろう」


 鄭成功に問われると、劉国軒も頷かざるを得ない。


「はい。無理でしょう」


 この裏切者め、と文句を言われるのが関の山である。


 鄭成功が言うように、明・清ともに関係のない海商としてやり直すという選択肢もあるが、今のほとんど手勢のいない鄭芝龍が再起をするためには手助けが必要である。その手助けをする人物は鄭成功以外には考えられない。となると、結局、息子に膝を屈するしかなくなってしまう。


「いつもであれば由井先生に頼むことになるが、さすがの由井先生も面識のない鄭芝龍を説得するのは容易ではないだろうし」


 鄭成功は腕組みをしてしばらく考えている。


 とはいえ、結局思いつくのは正雪しかいないらしい。


「やはり由井先生に行ってもらうしかないか……」


 小一時間考えた末に、鄭成功は屋敷の人間に「正雪を呼んできてほしい」と迎えに行かせた。

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