第5話 ヒヤシンス②

 


「さて、ご飯も食べ終わったし、この後どうする?」


 弁当に蓋をして師匠が皆に問いかける。


「ふむ……家に帰るか、近くのビジネスホテルにでも泊まるか。効率だけを考えるなら近くのホテルに泊まるのが一番だが……」

「この迷宮の攻略は一泊二日じゃ終わんないだろうからなぁ……」


 精神的負担を考えるなら、多少攻略の時間が減っても家に帰ってぐっすり休むのが一番か……。

 と、一旦家に帰る空気になりかけたその時。


「いやいやいや、何言ってるんスか! このまま学校に泊まるに決まってるじゃないッスか!」


 アンナが赤い尻尾を振り乱しながらそう待ったを掛けた。


「せっかくの学校に泊まり込みができる機会ッスよ!? それをわざわざ家に帰るとか、ホテルに泊まるとか……あり得ないでしょ!」

「ええ……学校に泊まると言うのか? わざわざ? こんな埃っぽい床で?」


 お嬢様育ちの織部が顔を顰めるが、アンナはもちろん! と力強く主張した。


「当たり前でしょ! 学校が始まったらもう学校に泊まれる機会なんてそうそう無いんスよ!? 学校での合宿! ああ、まさに部活って感じじゃないッスか!」


 そう熱弁するアンナに織部は呆れ、師匠は苦笑しているが……俺はアンナのこういうところが好きだった。

 改めて周囲を見渡してみれば、夜の学校は何とも言えぬ非日常感があった。

 蛍光灯に照らされた夜の教室は、机や黒板の配置などは変わらないのに昼とは全く違う顔を見せ、不思議な高揚感があった。

 普段は喧騒に満ちた廊下も今はシンと静まり返っていて、非常ベルのランプだけが照らす暗闇は天然のお化け屋敷のよう。

 外から聞こえてくる虫の鳴き声すらも、今は極上のBGMだった。

 通いなれたはずの学校が、今となってはどんな高級ホテルよりも魅力的に見えてくる。

 それはきっと、今この時……高校生という瞬間を逃せば、どれだけ金を払っても泊まる事が出来ない場所だと言うことに気付いたからなのだろう。

 しかもそれは、天文学部が廃部となった今、冒険者部だけに許された特権なのだ。

 こんな絶好の機会を無造作に投げ捨てようとしていた自分に驚く。

 本当に……十七夜月アンナは、こういう普段なら見逃してしまいそうな大切な瞬間を見つけ出す天才だった。


「俺は賛成。二人は?」

「そうだねぇ、せっかくだし学校に泊まろうか」

「まったくアンナは……。それで、学校に泊まるのは良いとして風呂はどうする? 我は風呂に入れないのは絶対に嫌だぞ」

「うーん、近くに銭湯か何かないか探してみます」

「あ、ちょっと待った」


 ロッカーからスマホを取り出しに行こうとしたアンナを呼び止める。


「なんスか?」


 不思議そうに小首を傾げるアンナに、俺は言う。


「風呂なら俺が用意できるぞ」


 ————ただし、迷宮内で良いならの話だが。



『おお〜!』


 第11階層。爽やかな風の吹く夜の草原に突如現れた洋館を見た冒険者部の面々が、歓声を上げた。


「まさか先輩が異空間型のカードを持っていたとは……今回のレースの賞品ッスか?」

「ああ」

「ふむ、しかし交換するのはマヨヒガという話ではなかったか?」


 俺が何を交換するのかを予め聞いていた織部が首を傾げる。

 確かにマヨヒガであれば、普通は伝統的な日本家屋の姿をしている。

 ところが目の前のこれは、どこからどう見ても三階建てのモダンクラシックな洋館。

 マヨヒガではなくウィンチェスターハウスを交換したのか? と首を傾げる織部に俺は少し笑い。


「ま、それは中に入ってみればわかるさ」


 そう言って俺は洋館へと向かって歩いていく。

 俺が玄関の前へとくると、重厚な両開きの扉が勝手に開いていく。

 中へ入った俺たちを一人のメイドが出迎えた。


「おかえりなさいませ、ご主人様。ご友人方もようこそ。歓迎いたします」


 恭しく頭を下げたのは、妙齢の美人。

 どこかハーフっぽい顔立ちは、まさに妖精のように整っている。

 毛先に行くにつれ赤みを増していく黒髪をシニョンに纏め、大正時代頃の女中服を思わせる和服メイド服を身に纏うその立ち姿には、一分の隙も無い。

 それを見た織部が納得したように頷いた。


「これは……そうか、シルキーからランクアップさせたのか」

「正解」


 このメイドの正体。それは元メイドマスターのシルキーと呼ばれていたカードが、マヨヒガへとランクアップした存在だった。

 そもそもマヨヒガというカードは、基本的に姿を持たない。

 姿は見えないが確かにその存在を感じる……それがマヨヒガと呼ばれる怪異の在り方だ。

 故に、核となる存在も本来は無色透明。

 こうして姿を見せるとすれば、それは他のカードからランクアップかマイナーチェンジをしたケースのみ。

 通常は日本家屋のマヨヒガがこのような洋館風となったのも、進化前のシルキーの影響を多分に受けたせいであった。

 ちなみに、彼女にはランクアップと共にオードリーという名前を与えていた。

 由来は、映画『マイ・フェア・レディ』においてイライザ役を務めたオードリー・ヘップバーンから。

 感覚的にはオードリーはまだ俺の名づけを受け入れてくれるほどの好感度を築けていないと思っていたのだが、試しに名づけの意思を聞いて見ると思いのほか彼女はあっさりと受け入れてくれた。

 その理由が、俺自身ではなく彼女の弟子的存在であるイライザにあるのは言うまでもない。

 故に、俺は彼女にイライザと繋がりのある名前を与えたというわけだ。


 ステータスは、以下の通り。


【種族】マヨヒガ(オードリー)

【戦闘力】420(120UP)

【先天技能】

 ・敵の家でも口を濡らせ:迷い家とも言われる、家型の異空間を展開できる。招かれざる客を拒み、受け入れた者には安息と幸運を授ける。異空間系スキルを持たない敵からの干渉を受けない。内部にいる味方へ幸運、持続回復を付与する食事を提供できる。効果は二十四時間持続するが、外へ出ると効果が落ちる。

 ・上級家妖精:家妖精というよりも、もはや家の化身あるいは守り神と呼ぶべき存在。メイド、高等家事魔法、上級収納を内包。

(上級収納:物を収納できる内部空間を持つ。上級は体育館程度の広さ。収納した物は、カードに戻したり迷宮を出るとその場に放り出されてしまうので注意)

 ・かくれんぼ


【後天技能】

 ・メイドマスター

 ・従順

 ・諫死

 ・中等補助魔法

 ・中等回復魔法


 使い込みが浅かったからか特に引き継げた先天スキルはなかったが、本命の後天スキルは無事引き継げたため問題はない。

 マヨヒガというカード自体がバフに特化しているため、完全に回復・補助要員となった形だ。

 異空間型スキルである『敵の家でも口を濡らせ』も、特に敵にデバフを与えるタイプではないため、戦闘後の回復要員という使い方がメインとなるだろう。


「オードリー、風呂だけ入りたいから案内してくれ」

「かしこまりました。こちらへ」


 彼女の後に続き、赤い絨毯が敷かれ蝋燭が照らす廊下を進む。

 どこまでも続く廊下は、外観よりも明らかに長く広い。これは、この家が一種の異世界となっているからであった。

 やがて地下へと続く階段を降り浴場へと到着するとオードリーが風呂の説明を始めた。


「当家の浴場は、大浴場が一つ、一人用が三つとなっております。一人用の浴場はそれぞれ、疲労回復・ストレス解消に効果のある雪の湯、肩こり腰痛・筋肉痛に効果のある月の湯、冷え性・便秘解消・美肌に効果のある花の湯となっており、大浴場ではそれらを総合的に体験することができるようになっております。より高い効果をお望みの場合は大浴場よりも一人用の湯をお勧めいたします」

『ほぉ〜……』


 オードリーの説明を聞いた皆が感嘆の声を上げた。

 マヨヒガは広さの許す限りであれば内部の構造をかなり自由に弄ることが出来る。

 なので、現在使い道のあまりない客室数を減らし、当初は大浴場一つだけだった浴場を三つ増設し、さらにその効果を分散、特化させ雪の湯、月の湯、花の湯を作らせてみた。


「浴場が四つとは……随分お風呂に凝ったんスね、先輩」

「まぁな……マヨヒガはどうしても迷宮内での使用が前提となるし、慰安を重視してみた」


 マヨヒガを手に入れたのは、迷宮攻略が長期化するCランク以降の迷宮に備えてである。

 長期での迷宮攻略で最も注意すべきなのが精神的な疲労によるミスである以上、精神慰労を重視するのは当然のことだ。

 賞品の中には敵への攻撃も可能でもっと手頃なDランクのウィンチェスターハウスもあったが、あえてCランクで回復・補助特化のマヨヒガを選んだのもそれが理由だ。


「なんにせよ、グッジョブです! 迷宮内で温泉に入り放題とは、これは嬉しいサプライズ!」

「雪月花か……どれに入るか迷うな」

「男女がいることだし、ここは誰がどの風呂に入るか予め決めておこうか」

「賛成ッス。じゃあまずは家主である先輩から選んでください」

「ん、じゃあ有難く……そうだなぁ。今日は疲れたし、雪の湯で」

「じゃあウチは月の湯で。最近肩こりが酷くって」


 そう言って肩を回すアンナ。……確かに肩が凝りそうなボリュームである。


「なんという唐突な巨乳アピール……。我はどちらでも良いが、神無月先輩はどうする?」

「うーん、そうだなぁ、ここはせっかくだし大浴場にしようかな。大浴場を一人で使うってなかなか無いし」

「了解した。では我は花の湯にしよう」


 スムーズにそれぞれが入りたい湯が決まったところで、アンナがこちらへと振り返る。


「あ、そう言えばシャンプーとかってどうなってます? 無いならダンジョンマートで買ってきますけど」

「ああ、それならトラベルセットの奴がある。ダンジョンマートで適当に買ったヤツだけどな。まあこだわりとかあるなら次からは自前のを用意してきてくれ」

「覗きとかしないでくださいよ〜?」


 俺から小さなトラベルセットのシャンプー類を受け取りつつ、アンナが揶揄うように言う。

 それに「覗かねぇよ」と笑い返しながら俺も脱衣所へと入り、ふと思う。


 ……今、すぐ隣の部屋で部の女子たちが裸になっているのか。


 そう考えるとなんだかドキドキしてくる。

 ウチの女子たちのレベルはかなり高いからな……。

 まあ、だからと言って覗きなんてしないが。

 確かに見て見たくはあるが、確実にバレるだろうし、見つかった時のリスクも————!?

 その瞬間、俺の脳裏に悪魔の閃きが走った。


 ————もしかして、オードリーとリンクすればバレずに覗けるのでは……?


 いやいやいや、止せ。考えるな。仮にバレなかったとしてもそんなことをして良いわけがない。

 そう俺の中の良心がブレーキを掛けるが……。


 ————大丈夫、バレなきゃ問題ないって。知らないのか? 犯罪はバレなきゃ犯罪じゃねぇんだぜ?


 悪魔はさらに誘惑を囁いてくる。

 た、確かにバレさえしなければ……。いや! よくよく考えればアンナたちも冒険者だ。リンクの悪用について気付かなかったはずがない。その上で、俺を信用してくれたのだ。それを裏切るわけにはいかない!


 ————お前、それでも男か? たとえその後に地獄が待っていようとも、女の裸のためなら命を賭けるのが男ってもんだろうが! 行け! 覗け! そしてすべてを得て、失うが良い!


 う、うおおおおお! 黙れえええええ! ……って!


「何してんだよ、蓮華!」


 俺は先ほどから悪魔のように俺を誘惑していた蓮華にツッコんだ。


「ちぇっ! 我に返っちまったか」


 ツマラナそうに唇を尖らせる蓮華。


「お前、何がしたいんだよ……わざわざリンクまで使って俺自身の思考かのように見せかけやがって」


 危うく誘惑に負けるところだっただろうが。


「いや、これでマジで覗きに行ったら、しばらくお前を強請(ゆす)るネタに困んねーな、と思ってさ」

「洒落にならんわ」


 大体、俺を強請ってどうするというのか。今でも、お菓子やらゲームやらのおねだりは大抵聞いてやっているというのに……。

 弱みを握った蓮華が、俺にどんな無茶ぶりをしていたかと思うと背筋に悪寒が走る。


 ……その後、風呂上りにアンナのエルフ(ターニャ)が密かに隠し持っていた虚偽察知のスキルでチェックを受けた俺は、悪魔の誘惑に乗らなくて良かったと心底安堵したのであった。




「そうだ、先輩。せっかくだから少し付き合ってもらいたいことがあるんだが……」 


 寝床作りを終え、あとは寝るだけと言ったところでふいに織部がそんなことを言ってきた。


「どうした?」

「先輩は数年前、ここの天文台で自殺者が出たという話は知ってるか?」

「ぇ……何それ知らない」


 そう答えたのは俺ではなく顔を青くしたアンナだった。


「あれ? 死んだのはトイレでって話じゃなかった?」


 そう首を傾げる師匠に、俺は転校したばかりでよく知ってるなと驚いた。

 きっと噂好きの女子にでも教えてもらったのだろう。


「ああ……まあ、そんな話聞いたことあるな」

「せ、先輩まで……やめてくださいよ」


 ますます顔を青ざめたアンナが言う。


「ふむ……アンナは知らなかったか。では教えてやろう」

「え、いや、マジでいらない……」


 フルフルと首を振るアンナを無視し、織部は勝手に語り始める。

 まあ、話自体はよくある話だ。

 幽霊部員ばかりで、不良のたまり場となっていた天文学部と天文台。彼らに目を付けられた哀れな女子生徒と、教師の目の届きにくい天文台で行われた陰湿ないじめ……。


「……卒業生を兄姉に持つ生徒によると、なかなかにエグいイジメだったらしい。いじめに耐え兼ね、最後には自分で命を絶つくらいには、な。実際はいじめがエスカレートして殺してしまったのを自殺に見せかけたという話すらある」


 さも実際にあった事件かのように語る織部であったが、実のところ俺はこの話の信憑性はかなり疑わしいと思っていた。

 天文学部が不良のたまり場となっていたこと、数年前にいじめられていた女の子がいたのは事実らしいのだが、俺が軽く調べてみたところこの学校で自殺者が出たという記事は出てこなかった。

 学校での自殺者というのは、仮に全国区のニュースにならずとも地元では結構なニュースになるし、いつまでも語り継がれるものだ。

 おそらくは、天文学部の廃部といじめられていた少女が退学か転校なりして学校から姿を消したのを当時の生徒たちが結び付け、面白半分に作り上げた怪談話であろう……と俺は考えていた。


「で、その話がどうしたんだ?」


 俺は可哀想に小動物のようにプルプル震え出したアンナを見ながら織部へと問いかけた。


「うむ。女子生徒が自殺した天文台と、主にイジメが行われていたトイレにはその女子生徒の霊が出るらしい。それが本当か霊能力者である先輩に確かめてほしいと思ってな」

「え? マロって霊とか見える人なの?」


 師匠が驚いたようにこちらを見る。俺は慌てて首を振った。


「いやいやいや、別に霊能力者じゃないから」

「だが猟犬使いの事件を追っているときは、しっかりと霊視していたではないか」

「へぇ〜! そんなことが……」

「いや、あれはアレっきりというか……」


 調査中にはあった俺の残留思念的なモノを見る能力は、蓮華の復活と前後して消え去っていた。

 おそらくあれはソウルカード状態だった蓮華から何らかの干渉を受けていたからだったのだろう。

 まあ、俺も別にそういうのを見たいわけではないから消えてもらって全然良かったのだが……。


「っていうか、俺この学校に通っていてそんなの一度も見たことねぇし……」

「昼と夜ではまた別なのでは?」

「迷宮を出た時点ですでに暗かっただろ?」


 俺がそう言うと織部もガッカリした様子で納得したようだった。


「ふむ……まあ、そうか……」

「じゃ、じゃあ噂は噂ってことッスよね?」


 対照的に明るい顔となるアンナ。


「まあな、そもそも俺が軽く調べてみたところ、イジメは本当だけど別に自殺者が出たってニュースは見つからなかったし」

「なんだ……すでにある程度調べていたのか。道理で食いつきが悪いわけだ」


 それで織部はこの怪談に完全に興味をなくしたようで、退屈そうに自分のテントへと入って行ってしまった。

 ……ちなみに教室内でわざわざテントを張っているのは、床が埃っぽいからである。

 アンナなどは、テントは風情がないと主張したのだが、夏休みに入り生徒が掃除しなくなった教室は予想以上に埃が溜まっており、とても寝袋で寝れる状態ではなかったのだ。

 その点、俺たちの使う冒険者用のテントは、空調管理万全、自動清浄機能付きの人工魔道具であるため、下手な安宿に泊まるよりもよっぽど快適に過ごすことができる。

 風情がないというアンナの意見には同意しないところもなくはないのだが、明日も攻略を控えている身としてはさすがに風情を優先するわけにはいかなかった。


「じゃあ、明日も早いですし……そろそろ寝ましょうか」

「おやすみ〜」

「また明日」


 教室の電気が消され、俺たちは各々のテントの中で眠りについた。


「……ぱい。先輩」

「ん……?」


 俺は誰かに揺すられ、目が覚めた。

 寝ぼけまなこを開くと、暗闇にアンナの顔が見えた。


「なんだ……? もう朝か? ……まだ暗いじゃん」

「す、すいません……その、トイレに一緒に行ってくれませんか?」

「はあ?」


 何言ってんだコイツ。

 俺の胡乱気な視線にアンナが暗闇でもはっきりわかるほどに顔を赤らめる。


「お前、男子じゃなくてそういうのは小夜に頼めよ……」

「それはそうですけど……! 小夜だとなんか脅かしてきそうじゃないッスか」

「ああ……」


 納得した。確かに、織部はそういうことしそうだ。


「師匠は? あっちの方が俺より紳士だぞ」

「それも同意しますけど……こういう時は霊能力者の方が頼りになるかな、って」

「だから霊能力者じゃ……ああ、まあ、いいわ。ついてってやるよ」


 俺は説明がめんどくさくなり、立ち上がった。

 アンナがホッとした顔で言う。


「すいません、ありがとう」

「ん〜」


 おざなりに返事をして、二人でトイレへと向かう。

 ……が。


『待て、歌麿』


 トイレを目前としたところで突然蓮華が制止を掛けてきた。

 俺は思わず足を止める。


「ど、どうしました、先輩?」


 突然足を止めた俺を、アンナが不安そうな顔で振り返る。


「いや、ちょっと待ってくれ」


 それだけ言って、蓮華へと問いかける。


『どうした?』

『そのトイレに入るのは止めておけ』

『……どうして?』

『どうしても、だ』


 いつになく強引な蓮華の様子に、俺はゴクリと唾をのみ込んだ。

 お、おいおい、なんだよ……そんな風に言われると俺も怖くなってきちゃうじゃねぇか。

 俺は蓮華の忠告に大人しく従うことにした。


「……このトイレはやめておこう」

「え、ど、ど、ど……どうして?」


 俺はどう答えるか迷った末。


「どうしても、だ」


 蓮華に倣って強引に押し通すことにした。

 アンナはゴクリと唾をのみ込み、黙って頷いた。

 俺はそれを見て、ホルダーから大通連を取り出し具現化した。

 突然武器を取り出した俺を見てアンナがギョッとする。


「な、な、な、なぜ武器を……?」

「まぁ、念のためだよ……」


 大通連が持ち主に与えてくれる神通力のスキルの中には除霊の能力もある。

 人間の俺では大通連の能力は引き出すことが出来ないが、ほんのわずかでも除霊の効力を期待して持っておくことにした。

 アンナは何かを凄く問いた気にしていたが、結局黙ってついていくことを選択したようであった。

 二人で一階のトイレへと向かう。


「ハァッ……ハァッ……!」


 スマホのライトだけが照らす暗い廊下に、アンナの荒い息が響く。

 それは疲れによるものではなく確実に恐怖によるもので、少女の恐怖の息遣いに俺の緊張まで高まっていった。

 まるで迷宮の中にいる時のように五感が鋭くなっていき、肌で周囲の様子が感じ取れるほど敏感になっているのがわかる。

 これほどの緊張感は、冒険者になった頃以来だった。

 いつしか俺たちは固く手を握りあって進んでいた。

 手の中の自分以外の体温が、得体の知れない恐怖の中で唯一の安心感を俺に与えてくれた。


 ……コイツの手、ちっちゃくて柔らかいな。


 俺がそんな場違いな感想を抱いたその時。


 ————バンッ!


「ッ!?」「ヒィ……ッ」


 突然、窓が叩かれたように揺れた。


「な、な、な……なに、が?」

「……風が窓を叩いたんだろ」

「あ、ああ……風ッスか。なんだ」

「……………………」


 俺は全く揺れていない窓から見える木々の葉っぱをチラリと見ると、アンナの手を引いて先へと進んだ。

 やがて俺たちは一階のトイレにたどり着いた。


「あ、あの、じゃあ、ここで待っていてくださいね」

「ああ」


 俺は周囲を見渡しながら答えた。


「……その、できれば耳なんか塞いでいてくれると」

「スマホの音楽でも流しとけ……」

「あ、ああ……そうッスね」


 アンナは苦笑してスマホを取り出し、トイレに入って行った。

 ……そしてすぐに出てきた。


「……どうした?」

「あ、あ、あの……トイレの床が水浸しで……」

「え……?」


 夏休み中の学校のトイレが……? 有り得ない。水漏れ、か?

 俺は恐る恐るトイレへと入って行き……。


「……どこも濡れてないぞ」

「えっ!? そんな!」


 俺の背に隠れて目を瞑っていたアンナが、驚きの声を上げる。

 だが、目の前に広がるのは何の変哲もないトイレの光景だった。

 愕然としているアンナへと問いかける。


「どうする……?」

「……いえ、できれば違うトイレに……」

「わかった」


 今度は三階へと向かう。

 ……アンナがかなりモジモジしている。

 俺に声をかけた時点で結構迷っての行動だろうし、そこから二度お預けを喰らった上に、ゆっくりと進んでいるため、相当限界が近くなっているようだった。

 そうしてようやく三階のトイレにたどり着いたその時、ポツリとアンナが言った。


「……そういえば、先輩。イジメられた生徒の学年って何年だったんスか?」

「それは……」


 俺は三階の……三年生用のトイレをチラリと見た。

 それを見たアンナが、半笑いでしゃがみ込む。


「オワタ……」

「い、いや、まだ職員用のトイレがあるから」

「それって一階ッスよね? ……そこまで持たないです」


 マジか。

 俺は思わず天を仰ぎ、ふと気付いた。


「そうだ、ダンジョンマートのトイレは?」

「いやいやいや! そこが一番無理ッス!」

「いや、でもダンジョンマート自体は新設だろ?」

「それは……そうッスけど」


 アンナはしばし葛藤していたが、しかし最後には乙女のプライドが勝ったのか、屋上へと向かうことを決めた。

 恐る恐る階段を上がり、屋上の扉を開ける。

 空には雲一つない星空が広がり、俺たちは束の間恐怖を忘れた。


「じゃあ、ちょっと行ってきます」


 俺たちが近づくとダンジョンマートに明かりが灯り、そこでようやくすべての恐怖から解放されたアンナがホッとした顔でトイレへと駆け込んでいった。

 それを見送って、俺は虚空へと呼びかけた。


『お前、やったな……?』


 すぐに返答が来る。


『す、すまん……座敷童の性(さが)が抑えられなかった。正直、めちゃくちゃ楽しかった』


 やっぱりか!

 俺は深々とため息を吐いた。

 この一連の流れが蓮華の悪戯だと俺が気づいたのは、一階のトイレが水浸しになった辺りのことだった。

 アンナが見た時は水浸しだったのに、俺が見た時は水が消えていたなど、本当の心霊現象でも無ければ魔法ぐらいしかありえない。

 そして可能性が高いのは断然、後者であった。


『お前……さすがに洒落にならんぞ、これは……』

『……でもちょっとは役得だったんじゃね?』


 悪びれた様子もなくそう言う蓮華に、俺はしばし口籠り……。


『まあ、ちょっとな……』


 そう答えた。


 ————余談ではあるが、翌朝この話を聞いた織部は文字通り地団駄を踏んで悔しがり、そしてこれ以降アンナは学校へ泊まろうと言い出さなくなったのだった。

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