30.この屋敷なら守り抜ける――SIDEヴィル

 仕上げた書類を渡すことを躊躇うのは当然だ。彼女はずっと裏切られてきた。僕が彼女を知っているのは、術を通じて一方的にだ。一目惚れしたのは、僕の方で彼女じゃない。だからローザリンデにとって、僕は初対面も同然だった。


 信用できるはずがない。リヒテンシュタイン公爵家から連れ出した、その功績しか彼女は知らないのだから。呪術に関しては僕が勝手に行ったこと。恩に着せて縛る気はなかった。


 もちろん愛されたいと思う。親友のラインハルトに焚き付けられたとき、これ幸いと思惑に乗ったのは打算があるから。もし彼女が僕を愛してくれたら? 告白に応えてくれたら嬉しい。だが信用できる友人程度でも構わなかった。


 ローザリンデ・フォン・アウエンミュラーの人生に必要とされたい。彼女が僕を少しでも役に立つと思ってくれたら、それで満足だった。


 預かった書類を、執務室の引き出しに入れて鍵をかける。鍵を上着の胸ポケットに入れた。書類の提出に行くと連絡しなくては。きっと根掘り葉掘り聞かれるだろうな。面倒と認識する反面、嬉しさもある。国王と大公の地位を忘れて、対等に話せる友人に心配されることが擽ったい感覚だった。


「旦那様、あの方は」


「俺の大事な客人だ。外部からの接触は一切禁止、命に懸けても守り抜け。侍女も同様だ」


「かしこまりました。我が一族の名誉にかけて、必ずや御守りいたします」


 執事ベルントはゆっくり膝を突いた。騎士のように胸に手を当てて誓う所作は、アルブレヒツベルガー大公領に伝わる伝統だ。深く頭を下げるほど、命令を重要事項として受け取った証になる。両膝を突いたベルントの頭が床に触れるほど下げられたのを見て、俺はようやく頷いた。


「お前の忠義を信じるぞ」


「私が貴方様に背くことは、この命が絶えてもありません」


 武力と情報収集能力を駆使し、大公家を支える執事はゆったりと身を起こした。幼い頃からそばにいた年上の側近の肩を叩き、任せると呟く。その声に滲んだ本音に、彼は微笑んだ。


「ようやく、大旦那様との約束を果たせそうです」


「ん? 父上と……どんな約束だ」


 初耳の話に興味を引かれた。すでに亡き父は、彼に何を託したのか。


「旦那様に立派な奥様をお迎えすることです。その土産話を聞かせるように、と。命じられました。役目を果たせそうです」


「わからんぞ」


 ローザリンデ次第だ。そう告げて、執務机に積まれた書類に手を伸ばした。国王ラインハルトの返事が来るまで、溜めた書類を片付けてしまおう。署名と押印を繰り返す俺の耳に、ノックの音が聞こえた。


「なんだ」


「アウエンミュラー侯爵令嬢様より、お茶のお誘いがございました」


「すぐに行く」


 ドア越しの問いかけに返事をして、慌てて立ち上がった。手の当たったインク瓶が倒れて、未処理の書類が数枚犠牲になる。それを放置して、侍従カールに片付けを押し付けた。急いで部屋を出ようとする俺に、カールが「袖が汚れておりますよ」と指摘する。


 くそっ、すぐ向かいたいのに!


 深呼吸をして気持ちを落ち着け、可能な限り急いでシャツを交換し、廊下に出た。足取りは軽く、気持ちはそれ以上に浮き立っていた。

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