第346話 アイスの悩み

 ―――それは、ウェイド一行が、城下街に到着した日まで遡る。


 到着直後。ウェイドが全員に情報収集を頼んでから、一度仮眠を取っている間のこと。


 クレイは、アイスに連れられ、トキシィと共に三人で別の部屋に移っていた。


 先ほどまでみんなで集まっていた酒場はすでに解放され、魔人の客らの騒ぎ声がここまで聞こえてくる。


 魔人でも、何かきっかけがない限りは常軌を逸した暴れ方はしないのかもしれない、とクレイは思う。もっとも、地上に比べれば、よほど些細なきっかけにはなるだろうが。


「それで」


 個室の椅子を手繰り寄せて座りながら、クレイはアイスに尋ねる。


「話というのは何かな、アイスさん」


「……」


 アイスはベッドに腰掛けて、沈鬱そうな表情で俯いていた。


 アイスがこういう表情をすることは少ない。


 かつてウェイドと出会う前、冒険者訓練所のアイスには、こういう大人しく引っ込み思案なイメージがあった。気弱で、儚げで。


 だが、今は違う。


 アイスは、ウェイドパーティの中でも最も迷いの少ない人物だ。


 ウェイドを中心に集まった以上、ウェイドパーティの中心はウェイドだろう。だがそのウェイドに向けられる憧憬の、精神的主柱といえば、それはアイスなのだ。


 アイスの精神はブレない。穏やかだが頑強。内柔外剛の塊。迷いはなく、ただウェイドに付き従い、共に進む。ウェイドの揺らぎや悩みすら正す。


 だからこそ、アイスがこんな表情でいることは、クレイにとって静かな異常事態だった。ウェイドの次にアイスと共にいるクレイだから、一層。


 いまだ沈黙を守るアイスに、トキシィが口を開く。


「アイスちゃん、大丈夫? 何だかここ最近、ずっと悩んでるみたいで」


 トキシィに言われ、アイスはハッとした。それから弱弱しげに微笑して「……分か、る?」と困り眉になる。


「分かるよ。バエル領を出てからこの旅路で、アイスちゃんずっと何か考えてた。何ていうかこう、その……」


「心ここにあらず、かな」


 眉間を寄せて言葉に迷うトキシィに、クレイは助け舟を出す。


「クレイそれ! アイスちゃんずっと心ここにあらずって感じで!」


 トキシィが言うと、アイスは「そっか……」と何とも言えない表情で唇を引き結ぶ。


 その表情は、俯きながら、ドンドンと曇っていった。膝に置かれた手は服を握りしめ、その手は何かに怯えるように、焦燥に駆られるようにブルブルと震えている。


 アイスは、言った。


「トキシィ、ちゃん。……ウェイドくんの、神様との戦い見て、どう思った?」


「どうって……いつも通りすごいっていうか、その」


 一拍おいて、トキシィは言う。



 クレイはその言葉に、トキシィは口にして自分自身で、重大事実に気付いて瞠目する。アイスを見ると、まさにそのことが問題だったようで、苦しそうに眉間にしわを寄せている。


「……トキシィちゃんも、そう、思ったん、だね。じゃあやっぱり、そういうこと、なんだ」


「「……」」


 沈黙が、部屋に張り詰める。じわじわと、クレイはアイスの焦燥感と同じものを抱き始める。


「ほんの一年前、まで、わたしは、神様に挑むなんてこと、考えもしなかった」


 アイスは、とつとつと語りだす。


「強くなるウェイドくんに、ついていくので、精一杯、で。ワイバーンの一件で手が届かなくなったってはっきり気が付いて、苦しくて、ガムシャラで」


 クレイもトキシィも、表情を険しくする。あの頃はキツかった。才能の差を、眼前に突きつけられた。


「アレクさん、ムティーさん、ピリアさんの三人のお蔭で、それでもどうにか食らいついて、一緒に成長してる、つもりだった」


 けど、とアイスは言う。


「神様とウェイドくんの戦いを見て、考えが、変わったの。また、突き放され始めてる、……って」


「で、でもさ、ほら、私たちも結構役に立ったっていうか、その」


「トキシィちゃん。そういうことじゃない、の」


 トキシィの取り繕いに、アイスはきっぱりと言った。トキシィは「ぅ……」とバツの悪い顔になって、しゅんと肩を落とす。


「ウェイドくんの成長速度が、今のわたしたちから見ても、また追いつけないほどになって、きてる。少なくとも、神様を倒して、ウェイドくんは……物足りないって顔を、してた」


 ウェイド自身が気付いていない感情にも、ウェイドを見つめ続けたアイスなら気付く。


「ヘイムダル……北欧神話における、とっても有名な光の神様。不当に呼び出された邪神とはいえ、それをあんな軽々と、ウェイドくんは倒してしまった」


「アイスさん。……君は、僕たちに何を伝えたいんだい?」


 クレイが単刀直入に尋ねると、アイスは顔を上げ、震える唇で言った。


「……ウェイドくんの幸せが、もうすぐ終わっ、ちゃう」


 幸せ? とクレイは首をかしげる。だがアイスは、静かに涙を流し始める。


「ウェイドくんに匹敵する、ウェイドくんと楽しく戦える相手が、もうすぐこの世界にいなくなっちゃう。ずっと、ずっと恐れてきたことが、とうとう、ウェイドくん、に」


「……?」


 クレイは、アイスの言わんとするところが分からない。敵になるような実力者がいなくなる。それはいいことではないのか、と訝しむ。


 だが、トキシィは違った。


「……アイスちゃんは、やっぱり気づいてたんだね」


 トキシィに言われ、アイスは見つめ返す。


「トキシィちゃん、も……?」


「うん、ちょっと前に。そうだよね~……私もさ? アイスちゃんみたいに泣くほどじゃないけど、それでも強い敵がいなくてしょんぼりしたウェイドは、見たくないなって思う」


 クレイは理解が追い付かなくて、二人を交互に見た。それから難しい顔になって、問う。


「二人で通じ合ってるところ悪いんだけど、僕にはさっぱりだよ」


「クレイくんも、分かると思う、よ。例えば、クレイくんは……お金稼ぎ、好きだよね」


「まぁ、そう、かな? そうだね」


 金のないところから、どうやって増やそうか、どういう仕組みや仕掛けに着手するか。


 そういうことを考えているときに、ワクワクしている自分がいるかと問われれば、クレイは頷くだろう。


 アイスは、重ねてクレイに問う。


「じゃあ、世界中のお金のすべてをクレイくんが集めてしまったとしたら、どう?」


「どう? ってそんなの不可能だよ」


「仮定の話、だよ。いいから、想像してみて」


「……分かった」


 言われて、考える。あらゆるすべての金銭を手に持ってしまったとしたら、どうなる。


 まず、金稼ぎは必要なくなる。すべて持っているからだ。他にも何か欲しいものがあれば、全部手に入るだろう。国も人も、金があればひとまずは動かせるから。


 それだけなら、楽園に思える。だが、クレイはすぐに思い至った。


「それは……多分、すぐに飽きが来るね」


 すべてで手の内にあるということは、もはや何も手に入らないということだ。その苦悩を、崩壊を、クレイはローマン皇帝を通して垣間見た。


 クレイの言葉に、アイスが頷く。


「……うん、そういうこと。やりたいことが、この世界で終わったということ。もうやることが、残っていないって、こと」


 ウェイドがこの話を聞いていたら、『あらゆるやりこみ要素をクリアしてしまったゲーム』にでも例えるだろう。


 好きな物事なのに、もう何もやることが残っていない。積み上げた財産だから崩すのも惜しい。たとえ崩して再挑戦しても、見られるのは同じ光景。


 それはきっと、退屈そのものだろう。ある程度はまだ遊べるが、いつか限界が来る。


 他に何か、別に夢中になれることがあればいいが、興味の向く先のすべてがそうなってしまったのなら―――


 それは、耐えがたい退屈に違いない。空虚な玉座だ。


 そしてウェイドは、その空虚な玉座に、手をかけている。


「……なるほど」


 クレイは、アイスが言わんとするところをやっと汲み取った。


「いつか僕らは、ウェイド君に置いていかれることを恐れた。けれどアイスさん。君が恐れているものは、そんなものじゃない」


「……うん。わたしたちだけじゃ、ないよ。世界のすべてが、ウェイドくんに、ついていけなくなる。それは、つまり」


 アイスは唇を噛み、言った。


「ウェイドくんが、世界で一人ぼっちになってしまうって、こと……っ」


 アイスが、ボロボロと珠のような涙を流す。トキシィも瞳を潤ませて、アイスの手に自らの手を重ねる。


 クレイは、そこまでウェイドに感情移入できない。だが、想像するのは、さほど難しくなかった。


 思い浮かべるのは、ローマン皇帝。


 同じだ。ローマン皇帝も、昔は仲間たちと共に冒険したという。冒険譚としての奴の自著を、寝物語にしてクレイは聞いたのだ。幼心に憧れた英雄だった。


 だが、あこがれの英雄はもはやいない。いるのは孤独に狂った老人だけだ。何者も届かない場所で、すべてを蔑ろにする狂人だけ。


 クレイは、アイスを見る。


「どうすればいい?」


 クレイは、ウェイドを憐れんで泣いたりしない。


 アイスだって、元はそんなつもりはなかっただろう。だが、その愛の深さ故に、どうしても涙がこぼれてしまっただけ。


 だから、クレイの問いかけに、アイスは涙をぬぐった。開かれるは強い光をたたえた瞳。放たれるは決意と覚悟の込められた言葉。


「わたしたちは、強くならないと、ダメ。もう、手段は選んでいられない。あらゆる手を使って、わたしたちは、強くなる、の」


 強くなる。


 強くなって、どうする。


 並び立てばウェイドの孤独は癒されると? アイスは、そんな甘い考えはしていない。


 だからクレイは、重ねて問うた。


「どのくらい?」


 アイスは言う。


「―――ウェイドくんを、殺せる、くらい」


 その言葉を聞いて、トキシィはぎょっとした。それから何かを言おうとして、だが考えれば考えるほどそれしかなくて、最後には泣きながらアイスに抱き着いた。


 クレイは、やはりと思いながら、目を瞑った。息を吐き、大きく吸い、答える。


「分かった。そうしよう」


「っ~~~~~~~!」


 トキシィが、声ならぬ声を上げる。アイスがそれを、静かに抱きしめる。


 キツイ。クレイは視線をそらしながら思う。


 だが、不思議な納得感があった。ウェイドに張り合っていたクレイだ。いずれ、こうなることは決まっていたのかもしれない。


 せめて少し気を逸らそう。そう思って、クレイはそっぽを向きながら言う。


「サンドラさんは、いいのかい?」


「うん。サンドラちゃんは、天才、だから。何もしなくてもきっと、ウェイドくんに並び立ってくれる。言わなくても、多分気づいてくれる」


 というか、簡単には捕まらないでしょ……? と、アイスは困り顔をする。思えば先ほども、気付いたらいなくなっていた。


「……そうだね。彼女はそういう人だ。気まぐれで天才肌。何せシグ師匠に、一度勝ってしまうくらいだしね」


「うん……。ふふっ、すごいよね、サンドラちゃん」


 少し笑いあって、それから息を吐いた。覚悟が、少しずつ決まってくる。


「強くなろう」


「うん……っ」


 言葉を交わす。静かな誓いを。


「で、でも、でもぉ……」


 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、トキシィは言う。


「どうやって……? 手段は選ばないって言ってたけど、私、これ以上どうやって強くなればいいか、分かんないよ……」


 トキシィに言われ、クレイは頷く。それからアイスを見ると、彼女は扉を見つめていた。


「……もう、いいです。入ってください……っ」


「おっ、入っていい感じー? わ、すっごい空気だ」


「失礼します、お三方。ワタシのような新参が、聞いていいような話ではないとは思ったのですが」


 入ってきたのは、ピリアとスールだった。


 全身鎧の小柄な少女にして、クレイとトキシィの師匠ピリア。一方最近に仲間になった、スールという褐色肌の美男子魔術師。


 妙な組み合わせだ、とクレイは思う。


「アイスさん、何故この二人を?」


「ほとんど直観だけど、ね……? 二人なら、何ていうか、を、知ってるんじゃないかな、って……」


 アイスの言葉に、クレイは頷く。


 ピリアは、クレイとトキシィを人間から外れさせた張本人だ。そしてスールは、このニブルヘイムを生まれとする魔術師。


 アイス、クレイ、トキシィに見つめられ、ピリアはにぃいっと笑った。


「ご期待の通り、君たち好みの持ってきたよ。って言っても、スールちゃんに鎌かけただけだけどー」


「はは……。生半可な覚悟で手を出そうというのなら止めましたが、皆さんの覚悟はよくよく分かりました。ですので、お教えします」


 スールは言う。


「みなさんにお教えするのは、魔術の鍛錬法の一つです。本来魔法と魔術は別の物。応用は効かないのですが、今回ばかりは話が別と存じました」


「スールちゃん、さっさと本題に入ろーよ」


「急かさないでください、ピリアさん。ある程度は前置きが必要なのです。―――ごほん。魔法は神に近づくことで力を得ます。逆に魔術は、神に背くことで力を得る」


 スールは、人差し指を立てる。


「これが魔法と魔術の大原則です。同一軸にありながら真反対。ですから、本来ならば魔術は学べば学ぶほど魔法の力を失います。逆もしかり。ですが今回お教えするのは―――」


 一拍おいて、スールは言った。


「ある意味では最も神に背き、ある意味では最も神に近づく行為です」


 三人は、ごくりと唾を飲み下す。


「魔法はその性質ゆえに、この発想には至れません。ですが魔術ならば至れる。いわばこれは、魔術の真髄。しかし手段を選ばないというならば、この手法は皆さんに微笑むでしょう」


「……スール、さん。教えて、ください。わたしたちは――――何をすれば、いいですか」


 アイスに言われ、スールは頷いた。それから、冷酷な魔術師の表情で、三人に言い渡す。


「――――神殺し。それも、皆さんに魔法印を刻み、寵愛を注ぎ、加護を与えた神を、この地獄に降ろし、殺す」


 三人は、絶句して目を剥く。


 スールは、断言した。


「邪神召喚の儀にて、神殺しを為すのです。みなさんは神に最も背きながら、最も近づくこととなる。得られる力は、絶大です」

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